46 孤独の57時間 後編
午前2時50分。
不可視化の魔法で姿を消したまま、僕は再びあの廃棄物搬出口へと辿り着いた。
そこには、赤く光る煙草の火を揺らしながら、落ち着かない様子で待つホームズ中尉の姿があった。
背後に控える大佐の気配を察したのか、中尉が弾かれたようにこちらを向く。
「大佐! イネスは……! あいつは大丈夫なんですか!?」
……嬉しいな。
自分でも驚くほど、その声が胸に沁みた。
こんなにも、僕の身を案じてくれていたんだ。
僕は静かに術を解き、中尉の前に姿を現した。
「お疲れ様です、中尉」
「イネス! ……お前……っ」
中尉は何かを言いかけ、そして言葉を飲み込んだ。
かけたい言葉は山ほどあるのだろう。けれど、何を言っても僕がこれから出撃する事実は変わらない。彼はすべてを悟ったような、諦めを含んだ顔で僕を見つめた。
「中尉。……煙草、一本いいですか?」
「あ、ああ! 当たり前だろ、何本でも持っていけ!」
中尉は慌ててポケットから箱を取り出し、僕に差し出してくれた。
出撃まで、あと9分。一本吸うには十分な時間だ。
火をつけ、深く煙を吸い込む。潮風に焼かれた喉に刺激が走り、激痛が走った。
けれど、そんなことより、肺を満たす「毒」が全身の痛みを少し和らげてくれている気がした。
「……お前、吸う姿が板についてきたな。」
「中尉のおかげですよ。実はもう、一人でも吸ってるんです。」
「そうか……。悪いこと教えちまったな。」
「いえ。……最近の僕は、これに助けられてばかりです。」
百害あって一利なし。誰もがそう言うし、僕もそう思っていた。
けれど、最近の僕にとって…考えることがあまりに多く、精神的にも肉体的にも痛みが止まない今の僕にとって、それは一利どころではない落ち着きを与えてくれるものだった。
沈黙を守っていた大佐が、口を開いた。
「イネスさん。本日は東部から南部にかけての偵察です。先日教えた、例の山の確認もお願いします。北部の山は健在でしたが、おそらく今回の山には、何かしらの異常があるはずです。」
「了解です。」
短く答え、タバコの火を消す。
……今から出撃だ。
「……っ……!」
そう思った瞬間、昨日味わったあの地獄が鮮明にフラッシュバックし、身体が震え始めた。
大佐は、僕のそれを見逃さなかった。
僕の身体が震えた瞬間。彼女は僕に駆け寄り、強く抱きしめてきた。
「万全の準備を整えて、あなたを待っています。…だからお願いです。お願いだから、今日も帰ってきてください。」
万全の準備……ありがたい。
今日も、手厚く介抱してもらおう。
「了解しました。……気持ち悪い姿で帰ってきても、引かないでくださいね。」
帰ってきてからしてもらうはずだったハグを、もうされてしまった。
帰ってきたら、もうハグはなしかな?
中尉の手前、僕は彼女を抱き返さないでいたけれど、大佐はなかなか離れようとしない。
そして、僕の耳元で、僕にしか聞こえない声で囁いた。
「……ハグ、してくれないんですか?」
心臓が、ドキッと跳ねた。
……まあ、今から死ぬかもしれないし。最後くらい、いいか。
僕は彼女を優しく抱き返した。
いつもなら間違いなくおちょくってくるはずの中尉は、新たに煙草に火をつけ、目を閉じ、少し微笑みながらそれを吸っていた。
満足したのか、大佐が僕から離れる。
その表情は、いつもの大佐のそれに戻っていた。
彼女は居住まいを正し、昨日と同じように軍礼を捧げてくる。
背筋を伸ばし、踵を揃え、指先までピンと伸ばした右手をこめかみへ。その所作の一つ一つに、彼女の祈りと、僕への敬意が込められていた。
僕は水上バイクに跨り、エンジンを始動させる。
低く唸る機体の上で、二人に敬礼を返そうとした、その時だった。
「待て! これも持っていけ! お前、昨日から何も食ってないだろ!」
中尉が慌てて駆け寄り、紙に包まれた不格好で大き目のサンドイッチを押し付けてきた。
隙間から覗くのは、厚切りの肉、レタス、キュウリ、トマト、そしてはみ出さんばかりの数色のソース。
間違いなく、中尉が厨房を借りて自分で作ったものだろう。
そのゴツゴツとした形に、鼻の奥がツンとするような温かさを感じる。……けれど。
「……ごめんなさい、中尉。僕、生のトマト苦手なんです。」
「はあ!? お前、せっかく俺が……クソ! ちょっと待て!」
中尉は顔を真っ赤にして叫ぶと、受け取ったばかりのサンドイッチをひったくるように開き、中のトマトをむんずと掴み取った。そして、それを一気に自分の口へと放り込む。
強引に閉じられ、さらに不格好になったサンドイッチを再び僕に差し出してきた。
「ほあ! ほへへふへふはほ!」
口いっぱいにトマトを頬張っているせいで何を言っているか分からなかったが、伝えたいことは痛いほど伝わってきた。
僕は思わず吹き出しそうになりながら、ありがたくそれを受け取った。
左手にサンドイッチ、右手でこめかみに敬礼。
なんとも不格好で、不釣り合いな姿だったけれど、大学にいたころのいじられ役だった自分のことを考えると、これが一番「僕らしい」気がした。
「中尉、心から感謝します。……それでは、行ってまいります。」
中尉のモグモグとした見送りを受けながら、彼がレバーを引く。
ガシャン、という音とともに、僕は再び、漆黒の海上へと飛び込んだ。
左手に感じるサンドイッチの重み。
地獄へ向かう道連れが、こんなにも温かい毒味済みの食事だなんて、悪くない。
僕はそれを頬張りながら、アクセルを全開にした。
闇の先で待つリティッシュ・ランバ、その二日目へ向かって。
開始1時間。
「ぐっ……、あああああ……っ!!」
唐突に、脳を沸騰した油でかき回されるような激痛が襲った。昨日よりも格段に早い。
ハンドルを握る指が強張って動かなくなり、僕は叫び声を上げて自分の頭を拳で殴りつけた。
「クソ……っ、まだ、1時間だぞっ……!」
右腿の縫合跡は波の衝撃で早々に弾け飛び、上り始めた朝日のおかげで、そこがじわじわと赤く染まるのが見えてしまう。
開始3時間。
朝日が、かすむ視界を無慈悲に刺す。
「ガハッ、……おぇっ……!!」
急激な眩暈に襲われ、僕は海面に身を乗り出すようにして、先ほど食べたサンドイッチをすべて吐き戻した。胃液と、未消化のパンが波間に消えていく。
「…せっかく……作ってくれたのに……ごめっ、おぇぇっ……!」
空っぽになった胃が痙攣し、身体がガタガタと震える。
でも、止まるわけにはいかない。
開始6時間。
大佐に指定された南東部の山に到着した。
「おぇ……はぁ…はぁ………なに、これ……」
そこにあったのは、これまでと同様に徹底された「無」だった。
標高があったはずの山岳地帯は、まるで巨大なプレス機で押し潰されたかのように平らになり、ただの砂埃が舞う更地へと変貌していた。
昨日、19時間。そして今日も6時間走り続けて、僕は何も見れていない。
「あは……あはは……っ! もう…全部更地じゃん……っ!」
壊れた笑いが漏れる。収穫なし。
…いや、このどこまでも続く虚無こそが、最大の収穫なのかもしれない。
開始12時間。
「……ああああああああ!!」
右腿の痛みが麻痺してきた頃、今度は左腿が、筋肉を内側から引き千切られる激痛に見舞われた。
意識が遠のく。このままでは海に落ちる。
僕は震える左手を、自分の腿に突き立てた。
「……っ!ねちゃ…だめ……だっ…!!」
指先を筋肉の隙間にねじ込み、強引に肉を引きちぎる。
新鮮な激痛が脳を貫き、白濁していた視界が無理やり明瞭に引き戻された。
海面は、僕が流した鮮血で点々と赤く汚れていく。
開始16時間
陽が沈みはじめ、再び暗くなり始めた海上で、僕は異変に気づいた。
頬を伝う液体が、妙に熱い。
目から溢れ出したそれは、激しい潮風に煽られて耳の後ろへと流れていく。
拭っても、拭っても、指先がねっとりと赤く濡れるだけだ。
「……あ、……あぁ……」
視界がドロリと赤く染まっていく。
サングラスタイプのレンズ越しに見える世界は、沈んでいく夕日の赤なのか、それとも僕の眼球から溢れた血の色なのか、もう判別がつかなかった。
血涙。
鼻からも耳からも、止まらない出血が体温を奪っていく。
「カハッ、……ハァ、ハァ……」
肺が逆流した血を吸い込み、呼吸をするたびに血の泡が口から溢れ、顎を伝って海へ落ちた。
開始19時間。
もはや、自分がどうやってバイクを走らせているのかも分からない。
手足の感覚はない。自分が息してるのかも分からない。
ただ、「帰らなきゃ」という本能だけで動いていた。
『ハグ、してくれないんですか?』
耳元で響く彼女の声。その幻聴だけが、崩壊しきった僕の精神を繋ぎ止める唯一の鎖だった。
僕は血を吐き、血の涙を流しながら、バイクを母艦に向けてひた走らせた。
ガシャン、という音とともに、鉄の扉が上がった。
そこに立っていた二人のシルエットが、驚愕に凍りつくのが見えた。
「……イ、イネス……?」
中尉の声が震えている。
漆黒のはずの水上バイクは、もはや元の色が分からないほどに、どす黒い赤に塗り潰されていた。
バイクから降りようとして、そのまま横倒しに床へ崩れ落ちた。
昨日はまだ、『ボロボロの生存者』だったかもしれない。
けれど今の僕は、死臭を漂わせて漂着した『亡者』にしか見えないはずだ。
「……カハッ……、……ッ……」
声は出ない。肺に逆流した血が喉を塞ぎ、呼吸のたびに真っ赤な泡が口から溢れる。
中尉が駆け寄ろうとしたその時、それよりも早く、軍靴の鋭い音が響いた。
「中尉!今すぐ彼を私の部屋に運びます!」
大佐の声だった。
彼女の顔は蒼白だったが、その瞳には昨日以上の、氷のように冷徹な決意が宿っていた。
彼女は膝をつき、僕の血で軍服が汚れるのも構わず、僕の身体を強引に抱き起こした。
「……あ……、ああ…………」
「喋らないでください。…よく、戻りました。あとは私に任せてください。」
彼女は僕の顔にこびりついた血涙を一瞬だけ見つめ、唇を噛み切らんばかりに震わせたが、すぐに指揮官の顔に戻った。
「中尉!彼の足を持ち上げて!私が上半身を支えます!今すぐ移動します!」
「了解っ……クソ、なんてザマだ……。」
二人に抱えられ、僕は宙を浮くようにして廊下を進む。
床には、僕の身体から滴り落ちる鮮血が、無残な赤い点線を引いていった。
「中尉、彼を寝かせたらすぐにここへ戻って、廊下の痕跡をすべて消して。誰にも見られてはなりません。」
「了解です……大佐、そちらは……」
「全て準備してあります。」
大佐の部屋に運び込まれた瞬間、僕はベッドへ放り出された。
視界の端で、彼女が机の横にある小型の保冷庫を開けるのが見えた。
そこには、昨日までにはなかった輸血用パックが、何本も並んでいた。
彼女は大急ぎで輸血ラインを確保し、僕の細くなった腕に針を突き刺した。
冷たい感触。続いて、熱い何かが僕の血管へ流れ込んでくる。
「……ハァ……、ハァ……」
僕はただ、壊れた機械のように浅い呼吸を繰り返すことしかできない。
大佐は、涙を流していた。
けれど、その手は一度も止まらなかった。
昨日縫合した右腿、そして新たに無残に抉られた左腿。彼女は震える手で洗浄液をぶちまけ、血に染まった自分の軍服を脱ぎ捨てて、シャツ一枚で処置に没頭した。
「……大丈夫……あなたは絶対死なせない。……大丈夫……大丈夫…。」
その言葉が、僕に向けての言葉なのか、彼女自身を落ち着かせるための独り言なのか、僕には判断が付かなかった。
透明な涙が彼女の頬を伝い、僕の胸元に落ちて、血の汚れと混じり合っていく。
ずっと、囁くような彼女の声が聞こえる。
地獄の淵から僕を繋ぎ止めようと必死に足掻いてくれていた。
「……ご…め……さい……」
なんとか謝罪を口にし、僕は逃げるように、深い意識の闇へと沈んでいった。
意識が戻ったとき、最初に感じたのは「重力」だった。
昨日よりも何倍も重く、どす黒い鉛が全身の血管に詰まっているような感覚。
視界はまだ、掠れた赤色に染まっている。
右目も左目も、瞬きをするたびに砂を噛んだような痛みが走り、ピントが合わない。
「……ぁ……」
「イネスさん……! 気がつきましたか?」
すぐそばで、祈るような声が聞こえた。
ぼんやりとした視界の中で、大佐が僕の顔を覗き込んでいる。
彼女はまだシャツ一枚の姿だった。その袖口は僕の血で汚れたまま、真っ白な肌が痛々しく浮き上がっている。
「……いま……、何時……ですか……」
「まだ午前1時です。……あと2時間はあります。大丈夫、まだ眠っていていいんですよ。」
その言葉に、胸の奥でわずかに強張っていた糸が緩んだ。
あと2時間。まだ、あのアラームが鳴るまで2時間もある。
けれど、安堵の直後に襲ってきたのは、焼けるような渇きだった。
「……みず……。水……ください……」
「ええ、すぐに!」
彼女は弾かれたように立ち上がり、執務机の上のピッチャーからコップへ水を注いだ。
戻ってきた彼女の手からコップを受け取ろうとして、僕は絶望した。
「……あ…れ…?」
動かない。
指先を曲げることさえできず、ただ布団の上でガタガタと震えるだけだ。
上体を起こそうとしても、背骨が砕けているかのように力が入らない。
感覚を失った両足は、もはや自分の肉体ではない別の異物のようだった。
「……ははっ……。困っちゃい…ました。……手、動かない……。すみません……落ち着いてから、いただきます……」
情けなさに笑いが漏れた。
自分一人で水も飲めないなんて。
すると、彼女は数秒間、何かを堪えるように下を向いて黙り込んだ。
そして、ガバッと顔を上げた彼女の瞳には、迷いを断ち切ったような鋭い光が宿っていた。
「……?」
彼女は何も言わず、コップの水を一口、含んだ。
それから、躊躇うことなく僕の顔を両手で包み込むと、そのまま唇を重ねてきた。
「……ん……っ」
驚きで目を見開く。
柔らかな感触と共に、冷たくて甘い水が、焼けるような喉の奥へと滑り込んできた。
口の中の水がなくなると、彼女は一度離れ、再び同じ要領で僕の口に水を流し込む。
二回目の挿餌が終わり、再度口に水を淹れようとする彼女に声をかけた。
「たい……さ……、そこまで、しなくても、大丈夫……ですから……っ」
焦って声を出す僕を、彼女の濡れた瞳が真っ直ぐに見つめた。
「あなたは飲めるときに飲んで、食べられるときに食べないとダメです。……嫌だと言うなら辞めますが、嫌でしたか?」
嫌なはずがない。
潮風と吐血で喉はひりつき、意識が遠のくほどに渇いていた。
それに、何より。……彼女なら、嫌なはずがない。
「……もっと、頂いても……いいですか……」
僕が掠れた声でおねだりすると、彼女は小さく頷いた。
それからは、もう止まらなかった。
彼女はコップが空になるまで、一心不乱に、何度も何度も僕の口へと水を注ぎ込んできた。
重なり合う唇の温度と、冷たい水の感触が混じり合う。
コップを置いた彼女は、少しだけ荒い息を吐きながら僕を見つめた。
「……もっと欲しいですか? それとも、何か食料を摂りますか?」
言われて気付いた。胃の中は空っぽで、昨日吐き出した分を取り戻せと身体が悲鳴を上げていた。
「……寝たままでも、食べられるものを……お願いします。」
「分かりました。」
彼女は保冷庫へ向かうと、中から高栄養のゼリー飲料を取り出した。戦地で負傷兵が手早くエネルギーを補給するための、軍の備蓄品だ。
それを僕に手渡そうとしてから、彼女は「あ」と気づいたように苦笑し、キャップを外してくれた。
それを僕の口に運び、飲ませてくれる。
食事を終えると、彼女はピッチャーからコップに水を注ぐため、執務机に向かった。
僕としても、もっと水が飲みたかった。それほどまでに、潮風の塩分が喉の渇きを強めている。
そういえば…報告しないと…。
彼女の背中めがけて、僕は昨日の報告を絞り出した。
と言っても、言えることは一つしかなかったけれど。
「大佐……昨日……更地しか……ありませんでした……。」
コップに水を注ぐ彼女の手が一瞬止まる。けれど、彼女は動揺を見せず、静かにコップを僕の元へ運んできた。
「報告ありがとうございます。ということは、例の山はなかったということですね?」
「はい……19時間……ずっと同じ……更地でした。」
「了解です。本当によく頑張りました。」
その短い労いの言葉だけで、報われた気がした。
彼女は再び僕の顔を包み込み、迷うことなく唇を寄せる。温かな吐息と共に、再び冷たい水が僕の口内へと流し込まれた。それを一滴もこぼさないよう、必死に、ごくごくと飲み干す。
2杯目の水を飲み干した頃、激痛の向こう側から、抗いようのない深い眠気が襲ってきた。
「たいさ……疲れました……。」
「はい。もう一度眠ってください。時間が来たら、また起こしますから。」
彼女は僕の額にかかった髪を優しく撫でた。
その指の感触と、潤った喉、そして満たされた心とともに、僕は泥のような深い眠りへと落ちていった。
大佐に身体を揺さぶられ、僕は深い闇から引きずり出された。
「……イネスさん。起きてください、イネスさん……。」
瞼を持ち上げ、最初に感じたのは強烈な違和感だった。
隙間から差し込む光が、夜のそれではない。窓のない艦内ではあるけれど、空気の密度と、そのかすかな灯りが、僕の思考を真っ白に染め上げた。
すでに、朝陽が昇っている。
「……っ、大佐!! 今、何時ですか!!」
激痛が走る身体を無理やり起こし、僕は叫んだ。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。
彼女は僕の肩を支え、悲痛な、けれどどこか決意の固まった表情で僕を見つめた。
「……ごめんなさい。私も寝てしまって……今、午前5時です。」
「5時……!?2時間の、遅刻……?」
血の気が引いた。総督のあの冷徹な声が脳裏をよぎる。
けれど彼女は、狼狽える僕の言葉を遮るように、立て続けに言葉を重ねた。
「これは私の責任です。総督へは今日も3時に出発したと報告します。もし露呈したとしても、私の管理不足、私の失態でこうなったと説明します。……イネスさんは、安心してください。」
「そんな……っ、そんなこと言ったって……!!」
あまりの不安に、身体の震えが止まらなくなる。国のトップを欺く。それがどれほど恐ろしいことか。
すると彼女は、震える僕を力強く抱きしめた。
「大丈夫です。あなたは何も悪くありません。……全部、私のせいですから。」
耳元で囁かれるその声に、僕は少しずつ冷静さを取り戻していった。
…彼女の「寝てしまった」は本当なのだろうか?僕を少しでも休ませるために、彼女は自分の軍歴も、あるいはそれ以上のモノさえも賭けているのではないか?
……絶対に、総督にバレるわけにはいかない。
覚悟が、決まった。
彼女が水の入ったコップを持ってくる。
「一人で飲めますか? まだ、難しいですか?」
「……いえ。大丈夫です。」
震える手でそれを受け取り、一気に飲み干す。
ベッドに腰を下ろしたまま、用意されていた新しいウェットスーツに袖を通す。
立ち上がろうとして…僕は、自分の足に感覚がないことに気づいた。
「……っ」
膝から崩れそうになる僕の脇を、彼女が素早く支える。
「……肩を貸します。行きましょう。」
「すみません……。」
彼女に体重を預け、僕は立ち上がった。
僕は彼女ごと僕らを覆うように「不可視化」の魔法を行使する。
二人分の気配を闇に溶かし、僕らは静まり返った廊下へと踏み出した。
いつもの、あの冷たい搬出口へと向かって。
搬出口に辿り着くと、そこにはいつもと同じように、紫煙を燻らせながら待つ中尉の姿があった。
「おう、イネス。よく寝れたか?」
驚くほど軽い、何気ない声。
2時間の遅刻を気にする素振りなんて微塵もない。その瞬間、僕は確信した。
やはり大佐は、わざと僕を5時まで寝かせてくれたんだ。
しかも、彼女一人の独断ではない。中尉もまた、共犯者としてそれを受け入れてくれていたんだ。
「はい。……おかげさまで」
僕は胸の奥が熱くなるのを感じながら、大佐に告げた。
「すぐに出発します。バイクまで、お願いします。」
だが、中尉がそれを制するように手を振った。
「まあ、そんな焦るなって。大佐、そこにイネスを座らせてやってください。」
中尉が自分の隣を指さす。言われるがまま、大佐は僕を床にそっと下ろした。
そして中尉はそれまで吸っていた煙草を消し、当たり前のように僕の横に座る。そしてポケットから煙草を取り出し、僕の口元へ差し出した。自分も一本咥えると、まずは僕の煙草に、次に自分の煙草に火をつけた。
「ほら、落ち着いて一本吸ってから行きな。」
中尉はにかっと、悪ガキのような笑みを浮かべて見せてくれた。
「……ありがとうございます。」
この二人には、もう一生頭が上がらないな。
今度、二人を呑みに誘おう。もちろん、僕のおごりで。
煙を吐き出しながら、大佐が隣で最後の指示を口にする。
「……今日は23時に本国に向けて帰還します。必ず22時までに戻ってください。いいですね?」
「了解です。」
煙草を消すと、中尉が肩を貸し立たせてくれた。
そのままバイクへ運ばれるかと思ったら、中尉は僕を逆方向…大佐の目の前へと連れていく。
「ほら、最後のエネルギー補給、しときな。」
中尉はそう言って、優しく笑いながら僕から手を離した。
足に力の入らない僕は、抗う術もなく大佐の身体へ覆いかぶさるように倒れ込んだ。
彼女はそれを受け止め、そのまま僕を抱きしめる。
「…これが、今回の任務前の最後のハグです。帰ってきたら、また『お疲れ様』のハグをさせてください。……それでは、今回も、無事に帰ってきてくださいね。」
彼女の温もりと、少しだけ混じる消毒液の匂い。
それが僕の空っぽの身体に、何よりも強い「燃料」として充填されていく。
彼女は僕を支えたまま、ゆっくりとバイクまで連れていってくれた。
僕が跨ると、彼女と中尉は並び立ち、これまでと同じく、けれどこれまでよりもずっと深い敬意を込めた軍礼を捧げてきた。
僕は今の自分にできるありったけの笑顔を、引き攣る顔でなんとか作り出し、震える右手でこめかみを打った。
「……行ってまいります。」
レバーが引かれ、搬出口が開く。
初めて目にする、朝の光に満ちた海。
僕は真っ白に輝く波間へと、軍艦を背にして飛び出した。
走り始めて3時間。午前8時を過ぎた頃、世界は一変した。
毎度のごとく、脳をかき回されるような激痛と、喉を焼く嘔吐に身を捩りながらバイクを走らせていた僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「……っ……人、か?」
南西部の海岸沿い。そこには、家族と思わしき成人二人と子供一人が、手をつなぎながら穏やかな笑顔を浮かべて歩いていた。昨日までの更地が嘘だったかのように、そこには確かな生活の気配があった。
僕は血の涙で霞む瞳に『視力増強』を上乗せし、必死に焦点を合わせた。
褐色の肌、鮮やかな山吹色の瞳。男性は深いボルドーの髪、女性は淡い薄ピンクの髪。そして、両親は共に2メートルは超えているであろう長身。僕の乏しい知識を総動員しても、そんな特徴を持つ民族など聞いたことがない。
……だが、何よりも異常なことがあった。
「魔力が……見えない……」
生きている人間すべてに見られるはずのそれが、彼らからは一切観測できなかった。
『死人が動いてる』
ジョンの残した言葉が、冷たい氷となって背筋を駆け抜ける。
彼らのこと…だったのか。
けれど、眼前に広がるのは、幸せそうに散歩を楽しむ、どこにでもいる普通の家族の姿だ。
バイクをさらに進めると、異常は加速した。
更地しかない国だったのに、この地域では木々が生い茂り、同じ特徴を持つ人々が次々と現れる。やがて、この国で見る初めての建造物が姿を現し始めた。
そこでは、人々が建設作業に勤しんでいた。
だがその光景は、『異常』の一言に尽きた。
100kgは優に超えるであろう巨大な柱や梁を、彼らはまるで羽毛でも扱うかのように軽々と持ち上げ、素早く組み上げていく。恐るべき手際、あり得ない作業スピード。
この人たちのおかげで、この国は世界一まで発展したのか……?
仮説が頭をよぎるが、すぐに首を振った。今は考察などしている余裕はない。ただ、見える事実だけを記憶し、大佐と総督の元へ持ち帰るんだ。
「……ぁ……っ……あああ!!」
意識が遠のきかけるのを防ぐため、右腕の二の腕の肉を強引に引きちぎった。溢れ出した鮮血がバイクのハンドルを滑らせるが、激痛が僕を現実に繋ぎ止める。口からは止まらない吐血が漏れ、ウェットスーツの胸元は赤黒く重くなっていた。
バイクを引き続き走らせ、異形の民が蠢く街を抜け、小高い丘を発見する。
――そして…
――この国を更地にし、この全ての『元凶』となった人物を、僕はついに見つけた。
また……人だ……っ!?
その男を視界に入れた瞬間、脳髄を直接氷の楔で貫かれたような戦慄が走った。僕は反射的に、ブレーキを握りしめていた。
「……っ……なんだ、あれは……」
彼には、他の人たちにはなかった、魔力がある。
それも、あり得ないほど膨大な魔力が。
普通、人を見ただけでその魔力量を推し量ることなんてできない。神堕の前、僕の魔力が「8」だと誰も分からなかったように。神堕の後、「48億」なんてデタラメな魔力を得たと誰も想像できなかったように。
だが、あの男は次元が違った。
彼の周囲の空間が、まるで黒いインクを零したように、どろりと歪んで見えた。
通常、魔力は人の背後に淡い後光として現れる。けれどあの男は、存在しているだけで世界を、空間そのものを歪ませていた。
「観察……しなきゃ、ダメだ……」
直感的に死を予感しながらも、僕は視力増強を最大まで引き上げた。
男は街から少し離れた丘の上で、一人立っていた。
大きな、1メートルはある石の前に立ち、まるで愛おしい人に話しかけるように、その石に語りかけている。
彼は、先ほどの褐色肌の住民たちとは明らかに特徴が違っていた。
細身で、身長も彼らに比べれば低い。そしてその瞳は、深く澄んだ緑色であった。
じっと彼を見つめ続けていた、その時。
男がふと、こちらに顔を向けた。
「……え……?」
全身の毛が逆立つ。
視線が、ぶつかった。
そのまま、5秒、10秒と、彼は僕のいる場所を正確に見つめ続けている。
焦って自分の身体を確認する。不可視化の魔法は解けていない。波も立てていない。僕は透明な「無」のはずだ。距離も5km離れている。
なのに、彼の視線は僕を捉えて離さない。
全身から嫌な汗が噴き出し、心臓が爆発しそうなほど鳴り響く。
逃げろ、逃げろ、逃げろ!!
脳内で警報が鳴り止まない。けれど、今動けば波が立つ。それは確実に『そこに何かがいる』と教えるようなものだ。
男が、ゆっくりとこちらへ片手を伸ばしてきた。
まずい、まずい、まずい!!
恐怖で身体が完全にフリーズする。
彼が口を開けようとしたそのとき、一人の老人が彼の背後に現れた。
老人に話しかけられた男は、ゆっくりと振り返り、伸ばしかけていた手を下ろして会話を始めた。
最後に一度だけ、不気味なほど穏やかな眼差しでこちらを確認すると、彼は老人の後についてその場を去っていった。
「……ぷはああああっ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
ようやく、息ができた。肺に酸素が流れ込み、全身の感覚が戻ってくる。
あれは、まずい。間違いなく、この世の生物ではない。
この数分間で、僕は確信した。あの男こそが、この国を更地にし、すべての理を破壊した張本人なのだと。
恐怖があまりに強烈すぎて、先ほどまで僕を苛んでいた全身の痛みが消し飛んでいた。
それほどまでに、あの男は異質だった。
僕は震える手で水を取り出し、1リットルのボトルを一気に飲み干した。
少しだけ落ち着きを取り戻し、僕は重い身体を引きずるようにして、再び西へと向けて偵察を再開した。
あんなものが、この世界に存在していいはずがない。
僕は、見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。
21時55分。
本国へ向けて動き出す準備をする母艦の影に、真っ赤に染まった一筋の航跡が辿り着いた。
ガシャン、という重苦しい金属音とともに、三度目の、そして最後の搬出口が開く。
そこに差し込んだ光の中に、僕は滑り込んだ。
エンジンを切ると同時に、僕はバイクから崩れ落ちた。もはや受け身を取る力さえない。金属の床に、肉の塊が叩きつけられるような鈍い音が響く。
「……ッ、……ガハッ……!」
肺に溜まった血が、口から溢れ出す。
目から絶え間なく溢れ続けた血涙が頬を伝い、顎から床へと滴り落ちていた。
「イネス!」
中尉が叫びながら駆け寄ってくる。
その後ろには、乱れ一つない軍服を纏った大佐が立っていた。
彼女の瞳には、こぼれ落ちそうなほどの涙が溜まっている。けれど、その手は昨日と同様、一切の迷いなく動いた。
「中尉、今すぐ彼を運びます。」
「っ…了解。」
彼女は膝をつき、僕の凄惨な姿を正面から受け止めた。
自ら抉った腕の傷、感覚を失いどす黒く変色した両足、そして…あの男の魔力に当てられ、白濁している僕の瞳を。
「……ぁ……、……た……さ……」
掠れた吐息のような声。それ以上は、もう言葉にならない。
僕はただ、動かない指先で、彼女の手の甲に微かに触れた。
「……わかっています。報告は、後で。」
二人の腕の中で、僕は全身の力を抜いた。
22時10分。
孤独な57時間...いや、55時間が、今、静かに幕を閉じた。
僕は、彼女が流す涙の温もりを微かに感じながら、深い、深い眠りへと落ちていった。




