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45 孤独の57時間 間奏 ―寄り添う歯車―

≪トリーシャ視点≫




「イネス! 喋らなくていい! 大佐! 早く医官…を……クソ!大佐の部屋へ運びます! 人がいないか確認しながら、先導してください!」


ホームズ中尉の怒鳴り声が、私の凍りついた思考を強引に叩き起こした。

視界の端で、中尉がボロボロのイネスさんを担ぎ上げる。

搬出口の冷たい床には、どす黒い鮮血と胃液が混じり合った惨烈な痕跡が残されていた。


「……っ……。……了解。先導します。」


自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。

私は一度だけ強く拳を握り、廊下へ躍り出た。誰もいないことを確認し、軍靴の音を殺して彼を自室へと誘う。




ベッドに横たえられたイネスさんは、照明の下で見るとさらに正視し難い惨状だった。 ウェットスーツの右腿が異様に膨らみ、そこから溢れた鮮血が、私のベッドシーツを染めていく。


「中尉、すぐに救急箱を持ってきてください。……それと、保冷剤をあるだけ全部、氷嚢もお願いします。」


中尉が飛び出していくのを見届ける。

私は震える手でハサミを取り、彼のスーツを慎重に切り開いた。


「……っ!」


傷口を露わにした瞬間、私は胃の底からせり上がるものを必死に飲み込んだ。

彼の右腿の傷は、外部から受けた傷ではない。


自分の指で、内側から抉り取った痕跡だ。


混濁する意識を繋ぎ止めるために、彼は自らの肉を千切り、激痛で脳を覚醒させ続けたのだ。

……19時間もの間、たった一人で。


「……ごめんなさい、イネスさん。……ごめんなさい……」

謝罪は何の解決にもならないけど、それしか言葉がでなかった。


中尉が持ってきた冷却パックを彼の頭部と首筋に押し当てる。

今の彼は、高熱を出した機械と同じだ。冷却し、圧を下げなければ、そのまま魂まで蒸発してしまう。

私は軍服の袖を捲り上げ、血に汚れるのも構わず処置を始めた。


最初に、脳圧の制御と冷却。

脳のオーバーヒートを抑えるため、首筋、脇の下、鼠径部に氷嚢を差し込み、物理的に体温を下げる。さらに脳浮腫を警戒し、枕を高くして上半身をわずかに起こした。


次に、創傷の縫合。

抉り取られた右腿の傷口を洗浄し、中尉が持ってきた縫合セットで一針ずつ縫い合わせていく。麻酔を使う暇もなかったが、彼はぴくりとも動かない。


最後に、眼球の保護と止血。

鼻の奥にガーゼを詰め、破裂した毛細血管の炎症を抑えるための点眼薬を差す。




2時間弱の治療を終える。

中尉に自室に戻るように指示し、今はイネスさんと二人きりだ。


彼が眠り続けているのを確認し、私は震える指でデスクの無線機に手を伸ばした。

総督へ、現状を報告しなければならない。


「……こちらウィット大佐。閣下、聞こえますか。」

『ああ、トリーシャ君か。イネス君は戻ったかね?』


受話器越しに聞こえる声は、相変わらず穏やかで、それゆえに不気味だった。


「戻りました。……ですが、状況は最悪です。魔法の多重行使による重度の脳疲労、眼球の毛細血管破裂、さらに自傷による出血多量。意識不明です。……閣下、任務の続行は不可能です。これ以上の行使は、彼の脳を物理的に破壊します。」


『それで?』


短すぎる返答に、私は言葉を失った。


「……それで、とは? 彼は死に直面していると言っているのです! 治療を優先し、作戦は一時――」

『彼から、報告は受けたのかね?』

「……いえ、まだです。意識が戻って――」

『それでは意味がないね。報告も受けていない段階で、君が感情的になる必要はない。』


背筋に、冷たいものが走った。

「感情論ではありません!医学的、軍事的な判断です!明らかに無理があります。中止の決断を……!」


『トリーシャ君。……今、君は私に指示しているのかね?』


心臓が跳ねた。受話器を持つ手が、嫌な汗をかく。


『この作戦のために、私がどれだけの時間と資金、そしてどれほどの裏工作を積み重ねてきたと思っている?彼は、それに見合う働きをしたのか?価値は、成果で決まるんだ。家族を救うため、彼はそれなりの成果を持ってこなければならない。違うかね?』

「…………」

『価値を示さない者に、私は1レンたりとも払わん。君がこの作戦の資金と、彼の15億と、今後の彼の給与も払ってくれるなら、何も文句は言わんがね。』


反論の言葉が、喉の奥で氷ついた。

目の前でボロボロになって眠る一人の人間の命と、総督が天秤にかけているものの重さが、あまりに違いすぎる。

指揮官としての正論。けれど、人間としての倫理がどこにも存在しない、狂気の理屈。


『……ああ、そうだ。トリーシャ君、この会話の内容を、彼が目覚めたら教えてあげなさい。』

「……え? ……それは、どういう……」


意味がわからなかった。自分の冷酷さを本人に伝えろというのか。

総督の声は、どこまでも穏やかに続いた。


『私が彼を酷使し、使い潰そうとしている。だが君は、私に作戦の中止を申し出るほどに彼の身を案じ、必死に庇おうとしている。その事実を彼に伝えなさい。君がどれほど彼に寄り添っているかを、彼自身に教えなさい。』

「っ……!!」


その言葉で、理解した。

この男は、私のこの行動さえも、イネスさんを繋ぎ止め、我が国に縛り付けるための道具として利用しろと言っているのだ。


イネスさんの好みの女性が「自分に寄り添ってくれる人」であることを、我々は知っている。

こんな状況においてもこの男は、私という『女』を使い、将来的にイネスさんが反旗を翻す可能性を0に近づけることを考えているのだ。


(……この男は、どこまでいっても……)


どこまでいっても、一人の人間としての尊厳など見ていない。

彼が見ているのは国という巨大な『機械』と、それを動かすための『歯車』だけだ。


『明日は、ちゃんとした報告を待っているよ。』

「……了解、しました……。」


ノイズとともに通信が切れた。

私は受話器を置き、顔を覆った。


午前1時。

出撃まで、あと二時間。


「……カ……っ……」


ベッドの上の彼が、小さく喉を鳴らした。

私は彼に駆け寄り、彼のボロボロになった手を、自分の両手で包み込むように握りしめた。




時計の針が無情に刻む音だけが、部屋の静寂を支配していた。

彼の手を握りしめたまま、一時間が過ぎた。


午前2時。

作戦開始まで、あと一時間。

もう、彼を起こさなければならない。このボロボロの体を、再びあの地獄の海上へと放り出さなければならないのだ。


……嫌だ。時間、止まってよ…お願いだから…。


総督の言葉が脳裏をよぎる。

『彼はそれなりの成果を持って帰らなければならない。』


このまま任務を続ければ、彼は本当に壊れてしまうかもしれない。

でも私は、彼を起こさなければならない。

それが軍人としての義務。そして、彼と彼の家族を救う、唯一の方法だから。


私は、自分の震える指先に力を込め、彼の冷たい手をさらに強く握り直した。


「イネスさん……イネスさん、聞こえますか?」


声を震わせないように、必死で自分を律する。


「……イネスさん。起きてください。」


私の呼びかけに、彼の長い睫毛が微かに揺れた。

そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その瞼が持ち上がる。


「……あ……、たい……さ……?」


彼の顔を覗き込むと、どす黒く染まっていた白目の赤みは、処置のおかげかほんのわずかだけ引いていた。けれど、まだ正常とは程遠い。

焦点の定まらない瞳が、彷徨うように私を捉えた。

掠れた、砂を噛むような声。その響きだけで、私の胸は締め付けられるように痛む。


「ええ、私です。わかりますか?」

「……ここは……。……ああ……帰って、これたん……ですね……。」


彼は状況を把握しようとするように、一度だけ短く息を吐いた。

そして、私が握りしめている自分の手に視線を落とし、それから少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。


「……すみません。大佐のベッド……汚して、しまいましたね……。」


こんな状況で、最初に口にするのがシーツの心配だなんて。

私はこみ上げる涙をこらえ、首を振った。


「そんなこと、どうでもいいの。……イネスさん、体はどうですか? 気分は?」


彼は自分の体の感覚を確かめるように、ゆっくりと瞬きをした。

その瞳に宿っていたのは、泥濘のような深い疲弊と恐怖だった。


「……体中が……痛いです。頭の芯を、ずっと焼かれてるみたいで。……視界も、かすんで……よく、見えない……。」


包み隠さず吐露される不調の数々。

それらをすべて言い終えると、彼は掠れた声で、一番恐れていたことを問いかけてきた。


「今……、何時……ですか?」

「……午前2時…です。」


私の答えを聞いた瞬間、彼の喉が小さく鳴った。


「あと一時間……で、もう一回……行くんですか……?」


絶望に染まったその声。

私を頼るように、あるいは運命を呪うように震えるその響きが、私の心の防波堤を粉々に砕いた。


「…………っ!」


気づけば、私は寝たままの彼に覆い被さり、抱きしめていた。

あれほど恥ずかしいと思っていたハグも、総督の打算的な計算も、すべてがどうでもよくなった。

ただ、このボロボロの青年を、これ以上壊したくない。それだけだった。


「あ……大佐……?」


困惑した彼の声が耳元で聞こえる。けれど、腕を離すことはできなかった。


「……もう行かなくていいです。ここで療養してください。……無理しないでください。これ以上、自分を傷つけないでください…イネスさん……っ」


涙が溢れ、彼の横顔を濡らす。私は、大佐としての威厳も、軍人としての規律もかなぐり捨てて、一人の人間として泣きながら懇願していた。

行かないで…。死なないで…。


イネスさんはそんな私の乱れを静かに受け止め、抱きしめ返すこともせず、ただ優しく、震える声で問いかけてきた。


「……閣下は……総督は、どう考えてるんですか?」


その問いに、心臓が凍りついた。

脳裏をよぎるのは、冷徹な総督のあの声。

『今、君は私に指示しているのかね?』


「……閣下は……任務を、続行するように、と……」


抱きしめる力を強めながら、私は絞り出すように答えた。

閣下は、あなたの命を歯車としか思っていない。それを、私の口から伝えなければならない残酷さ。


沈黙が流れる。

だが、その直後、私の背中に温かい手が回された。

イネスさんが、私を優しく抱きしめ返してくれている。


「大佐……ありがとうございます。大佐からのハグで、力が湧いてきました。……今からの19時間も、頑張れそうです。」


嘘だ。

彼の手は小刻みに震えているし、声には消しきれない絶望と恐怖が滲んでいる。

それなのに、彼は私を安心させるために、私のハグを「力」だと言って笑おうとしている。


私は羞恥心など微塵も感じることなく、彼をさらに強く、壊れんばかりに抱きしめた。


ああ、嫌だ。行かせたくない。


出会ってまだ十日前後。それなのに、いつの間にか私の頭の中はイネスさんのことばかりになっていた。


彼が笑えば安堵した。

そして傷ついてる彼を見て、気が狂いそうになっている。


ああ、私……そういうこと、なのかな……。


ここ数日、自分の胸の奥で育っていた、名もなき熱い感情の名前。

それがボヤっとした輪郭になって、この地獄のような深夜に正体を見せ始めた。


私は、彼の首に腕を回したまま、自分でも制御できない衝動に突き動かされる。

なぜ、今なのかはわからない。けれど、この人には私のすべてを隠さず伝えたい、という衝動に、私は身をゆだねた。


「イネスさん……私の、魔力量……知っていますか?」

「え……?」


彼の震える手が、私の背中を優しく叩く。彼を抱きしめたまま、告白を続けた。


「魔力量……160万なんです。どう…思いますか?」


世界中を見渡しても、二桁しかいない数値。

これまで、私のこの数字を知って、それまで通り接してくれた人はいなかった。

畏怖されるか、化け物を見るような目をされるか、そのどちらかだった。


「……そうなんですね。」

耳元で、彼が小さく笑う気配がした。


「160万……。すごいですね。さすがは大佐、カッコイイです。」


彼は突き放すことも、媚びることもなく、ただ純粋な称賛を口にした。

そして、私を抱きしめる腕の力を緩めることなく、冗談めかしてこう続けた。


「でも……僕、48億なんで。……僕の勝ち、ですね。」

「…………っ」


48億。

世界の理を根底から覆すような、あまりにも馬鹿げた数字。

彼の未来は、今までの私以上の孤独しか待ち受けていないのだろう。


でも、やっぱりだ。

この人は、私が思った通りの人だ。

大切な人のために自分を顧みず、他人がどんな人でもそれを肯定し包み込む、そんな底抜けにやさしい人。

この人なら多分…ううん、絶対、神堕(かみおち)する前にこのことを伝えても「僕は8だから惨敗ですね」と、今と変わらぬ声で言ってくれてる。


ここ数日、彼と会うときの私の心臓は、荒く激しい動悸をしていた。

でも今は、柔らかくて、落ち着いた、心地の良い速い鼓動が指先にまで伝わってくる。


やっぱり私……この人が、好きなんだ。


さっきまでうたかたのように心の中に漂っていた淡い気持ちが、今、この瞬間に重力を持ち、しっかりとした輪郭を持って私の心に降りてきた。


軍人として、上官としてではなく。

一人の女として、私はこの人を好きになったんだ。


「……ふふ、そうですね。完敗です。」


私は彼に抱きついたまま、涙の混じった声で笑った。

この温もりを、離したくない。

この人を、絶対に死なせたくない。




ピピピッ、ピピピッ


だが無情にも、机に置いていた時計から、無機質なアラームが鳴り始めた。

出撃、30分前。


「……っ……」


私は名残惜しさを押し殺し、ゆっくりと彼の体から離れた。

体温が離れた場所が、急に夜の冷気にさらされたように寒く感じる。


イネスさんは起き上がり、まだ顔に赤みが残る私を真っすぐに見つめ、それから決意を固めるように短く息を吐いた。


「大佐……。報告、させてください。……昨日のことです。」


彼から先ほどまでの震えは消え、一気に「軍人」の顔になる。

私はベッドの脇に椅子を引き、彼の言葉を逃さないよう、彼の目を見据える。


「北部の山は…消えておりませんでした。ですが…その山岳地帯を抜け、東部の海岸線へ向かってからです。……町が、一つ残らず消えていました。更地、でした。コンクリートの基礎と、デッキに繋がれた漁船以外……建物も、道路も、木の一本さえ、何一つ…ありませんでした。」

「…更地?」


想像を絶する報告に、背筋が凍りついた。

先進国リティッシュ・ランバ。摩天楼が立ち並んでいたはずのその島が、更地になっている?


「はい…。何かが起きたのは…間違いありません。……超大規模な重力魔法か、新型の高威力兵器かと思われます。それも、広範囲を均一に押し潰すような……。これが魔法だった場合、魔力100万の魔法師でも…不可能だと思います。それこそ……僕のような、規格外の何かがいなければ。」


総督にこの事実を伝えれば、間違いなく彼は歓喜するだろう。

『リティッシュ・ランバは自壊している』と。あるいは『恐るべき兵器がある、それを盗める』と。


「……わかりました。報告、ありがとうございます。」

総督は起きているだろうか。すぐにでもこのことを報告しないと。

…今はあまり声を聞きたくないけれど、しょうがない。


私は立ち上がり、彼の新しいウェットスーツを用意した。

彼に手渡す。だが、彼がそれを受け取っても、私はスーツから手を放さなかった。


「イネスさん。…最後にもう一度だけ、大佐として言わせてください。」


私は彼の目を見つめ、震える唇を噛んでから、最大級の命令を口にした。


「生きて、戻りなさい。任務の成功よりも、報告よりも、あなたの命を優先しなさい。……これは、大佐命令です。」


イネスさんは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。

そして今日一番の、穏やかで優しい笑みを浮かべた。


「了解しました。必ず、戻ります。…もう一回ハグ、してもらいたいですしね。」


その言葉を最後に彼は立ち上がり、右足を引き摺りながら扉へと向かう。

不可視化を行使し、再びあの冷たい搬出口へと向かっていった。

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