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44 孤独の57時間 前編

軍艦の、重厚な鉄の扉に守られた一室。

揺れは少なく、時折聞こえる波の音が、自分たちが現在進行形でリティッシュ・ランバへと向かっていることを教えてくれる。


「……っ……」


ソファの端で、僕はこめかみを指で押さえた。

移動中、この部屋の主である大佐もそこにいる。彼女は執務机で何やら書類に目を通していたが、僕の小さな呻きに気づいたのか、心配そうに視線を上げてきた。


「大丈夫、ですか? 頭痛は…まだ引かないのですか?」

「ええ、少し……。すみません、情けない姿を見せて。」


僕は力なく笑い、目を閉じる。

瞼の裏に、この数日間の過酷な特訓の光景が蘇った。


水上バイクの操作そのものは、決して難しいものではなかった。

中尉の指導もあって、時速100キロを超える速度にも、二日目には体で適応することができた。


だが、最大の問題はそこではなかった。


魔法の、長時間にわたる同時並行行使。

本番を想定し、『不可視化』と『視力増強』、そして長時間の荒波に耐えるための『身体強化』を同時に維持しながら、バイクを走らせ続けた時だ。


1時間を超えたあたりで、じわじわと頭痛が始まった。

2時間を過ぎる頃には、脳を直接万力で締め付けられるような激痛が走り、視界の端がチカチカと明滅し始める。

それでも必死に食らいつき、3時間を超えたその瞬間――。


ぷつり、と糸が切れるように意識が途絶えた。

気がついた時には、中尉が僕を水面から救助し、顔面を蒼白にしながら浜辺で必死に僕の名前を呼んでいた。


魔法は、とにかくイメージが重要だ。

三つの高度な魔法を同時に、かつ一定の出力を保って行使し続ける。

それは例えるなら、「頭の中で難解な連立方程式を解きながら、同時に別の物語を執筆し、さらに今まで見た映画の全シーンを同時に脳内で再生し続ける」ような……そんな、人間の脳の限界を超えた情報処理を強いる作業だった。


それを、膨大な魔力を放出しながら、一秒の隙もなく続けなければならない。

脳への負荷は莫大で、今の僕には3時間が限界だった。……本番は19時間だというのに。


……これ、本当に死ぬかもしれないな。


こんな症例、これまで聞いたこともなかった。僕以外の全人類は、魔法を維持できるのは10分間だけなのだ。10分程度の行使では、脳が焼き切れるような感覚など起こり得ない。


この異常を無線機で報告した時、総督は「それは大変だね。頑張るんだぞ。」と、一言だけ答え、回線を切った。

その時、初めて僕は彼の『総督』としての冷徹な顔を見た気がした。


脳の芯に残る鈍い痛みを感じながら、とてつもない不安が濁流のように押し寄せ、僕を支配していく。

本当に僕は大丈夫なのか? 19時間も魔法を行使し続けられるのか?リティッシュ・ランバの軍に見つかったら? 僕が死んだら、家族の未来は?


「はっ、はっ、はっ……」


脂汗が滲み、息が浅くなる。パニックになりかけていたその時、大佐が僕の隣に静かに座った。


彼女は、どんな言葉をかけていいか分からないという表情を浮かべていた。

そりゃあ、そうだろう。『大丈夫』も『心配ない』も、今の僕にとっては間違いなく嘘になる。

こんな出鱈目な任務に向かう人間に、気休めの言葉など何の意味もなさない。


「ごめんなさい……大佐……。お仕事の邪魔、ですよね……静かに、します……。」


なんとか絞り出すように言うと、大佐は少し考え込み、急に顔を赤くし始めた。

どうしたんだろうと思っていると、彼女は数秒間もじもじと手を動かしてから、僕が膝の上で固く握りしめていた手の上に、そっと自分の手を重ねてきた。


「あっ……あっ、あの……イネスさんは……どんなことをしたら……落ち着けますか……?」


上目遣いで、必死に僕の不安を受け止めようとしてくれる。

「い……今、どんな言葉をかければいいか分からなくて。でも、イネスさんの気持ちが落ち着けるようになるなら、私……頑張りますから…。」


目をきょろきょろさせていた大佐が、意を決したように僕を射抜く。


「は……はははハグ……したら……落ち着けますか……?」

「……プッ」


あまりの唐突さと、彼女の全力の赤面に、思わず吹き出してしまった。


「なっ! 何で笑うんですか!うぅー…も、もう頼まれてもハグなんてしませんからね!」

「ははは、すみません。…もう、大丈夫です。今の大佐の頑張りを見て、だいぶ落ち着けました。無理をさせてごめんなさい。ありがとうございます。」


心が少し、軽くなった。

ここまで来たなら、もう、やるしかないんだ。


そう思っていると、彼女は僕の手に手を乗せたまま「あ……え……本当に……しなくていいの?」と顔を赤らめたまま、少しシュンとしてしまった。


はい、大丈夫です。

…と、喉まで出かかった言葉を飲み込む。……こんな可愛い姿を見せられたら、少しだけ意地悪をしたくなってしまう。


「じゃあ、任務から無事に帰ってきたら、ハグしてもらってもいいでしょうか?」


そう言うと、彼女の顔はさらに沸騰したかのように赤くなり、挙動不審な動きをし始めた。……相変わらず、僕の手は離さないままだが。


「はは、冗談ですよ。すみません、少し意地悪が過ぎました。」

「えあ!? 冗談なんですか!?」


……この人は、本当に異性への免疫がないらしい。

正直、僕からすればハグなどただの親愛の情の範疇だが、彼女にとっては天地を揺るがす一大事なのだろう。そんな無理はさせたくない。


「すみません、大佐と話をして心が落ち着いたら、眠くなってきちゃいました。夕食まで、仮眠を頂いてもよろしいでしょうか?」

「うぅ~……は、はい。大丈夫ですよ……。あ、誰かが来たら起こしますからね。私が起こしたら、すぐに不可視化を使用してくださいね。」

「ありがとうございます。じゃあ、このソファで横になっても?」


「い……いえ! ダメです! あのベッドを使用してください。」


彼女が指さしたのは、部屋に一つしかない自分のベッドだった。

「いえ、大丈夫ですよ。あれは大佐のベッドですし、このソファも十分広いですから。」

「ダメです! ちゃんとベッドで休みなさい! 少しでも疲れを取りなさい! これは大佐命令です!」


大佐は僕の手を放し、代わりに僕の手首をぐいと掴んで立ち上がった。そのままベッドまで半ば強引に連行され、座らされる。


「はい! ここで寝てください!」

「あ……ありがとう、ございます……」


ここまでされたら、断る方が失礼だ。お言葉に甘えて、ゆっくりと横になる。

「本当に、ありがとうございます、大佐。これで疲れがだいぶ取れそうです」

「い、いえ! 当たり前のことです!」


そう言い残すと、彼女はずかずかと足早に執務机へ戻っていった。背を向けたまま、彼女は口を開く。


「食事は、ホームズ中尉が19時に二人分運んできてくれます。運ばれてきたら、また起こします。食事が終わったら、また作戦時間まで休息してください。」

「はい、了解です。」


ゆりかごのような艦の動きを感じながら、僕はゆっくりと意識を沈めていった。




午前3時。

軍艦の最下層、冷たい機械音だけが響く『廃棄物搬出口』。

そこには、ウェットスーツに身を包んだ僕と、見送りに来た大佐、そしてホームズ中尉の三人がいた。


目の前には、見たこともない漆黒の、異様な形をした水上バイクが鎮座している。

「充電」という概念を完全に度外視し、僕の魔力だけを頼りに設計された特注品。その心臓部には、小豆ほどのサイズの電導石が埋め込まれていた。


「気負うなよ、執行官殿。このゴミ捨て場の出口は、俺がピカピカに磨いて待っててやるからよ。」


ホームズ中尉が、いつものように冗談めかして笑う。

けれど、その瞳には隠しきれない不安の色が滲んでいた。彼は知っているのだ。僕が3時間を超えて魔法を行使し続けた結果、どうなったかを。

…この19時間の任務が、どれほど無謀な賭けであるかを。


「絶対帰ってこいよ。…無事に帰ってきたら、大佐殿がキスしてくれる手筈になってるからな。」

「えあ!? ちょっ、中尉!?」


大佐が素っ頓狂な声を上げる。

さっきまで、今にも泣き出しそうなほど不安げな顔で見守っていた大佐だったが、その言葉にビクッと身体を跳ねさせる。


……軍に入り、不安だらけだったけど、この二人と知り合えたのは、僕にとって唯一の救いだな。


「ははは、大丈夫ですよ。キスではなくて……ハグをしてくれる約束ですから。」

「えっ、マジかよ!? イネス、お前もやるなぁ!」

「う、ううぅ……っ」


顔を真っ赤にし、わなわなと大佐が震え始める。


「……え?マジなの?」

中尉がそれを見て、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。


その微笑ましい光景を横目に、僕はバイクに跨る。

……もう、行かなければならない。


「それでは……行ってまいります。」

敬礼をしながら、出発することを告げる。


僕の言葉に、二人は一瞬だけ表情を強張らせ、そして今までにないほど硬く、重い軍礼を捧げた。


「……ウエステイル執行官。貴官の、ご武運を。」

「ご武運を!」


ホームズ中尉がレバーを引き、重厚なハッチがゆっくりと開く。

外は風も少なく、海は不気味なほどに凪いでいた。月明かりだけが頼りの、漆黒の海上。


僕は水上バイクの電導石にそっと手を触れ、青白い電気魔法を流し込んだ。

静かに、けれど力強い振動が全身に伝わる。


それと同時に、自分を世界から切り離すように『不可視化』を展開した。


僕はそのまま、暗闇が支配する海原へと踊り出た。




ハッチが閉まる音すら聞こえないほど、僕は既に艦から離れていた。


水面を滑る漆黒のバイクは、僕が流し込む電気魔法に呼応し、音もなく加速していく。

時速200キロ。

本来なら猛烈な風圧が全身を叩くはずだが、目を守るためのサングラスタイプのゴーグルと、身体を守るための『身体強化』と、風を逃がす特殊な構造をしたバイクが、その衝撃を殺していた。


優秀なバイクだ。

中尉と練習で使ったバイクと比べて倍の速さなのに、不自然なほど水しぶきが上がらない。




……一時間経過。


朝日が昇り始めたころ、左腕に巻いたアナログな時計を確認する。

脳の奥に、じわりと熱がこもるような感覚が始まった。特訓の時と同じだ。

ここまではいい。問題はここから、脳が悲鳴を上げ始めてからだ。


周囲には遮るもの一つない、ただただ黒い海が広がっている。

一時間に一度、僕は無線機のスイッチを入れる。


カチッ


何も話さない。ただ周波数を合わせ、信号を送るだけ。

すぐに、大佐の側からも「受信した」ことを示す短いノイズが返ってきた。

それだけで、海の上でも独りではないのだと、わずかに呼吸が楽になる。




……二時間経過。

前方、島影を確認。


水平線の向こうに、不気味なほど音のない陸地が姿を現した。

リティッシュ・ランバ。

世界一の先進国でありながら、今は外界を拒絶する沈黙の島。


僕は速度を落とし、大佐に指定された「半径5キロ」の境界線へと慎重に近づいていく。

まずは初日、北から東にかけての観測だ。


…ここ…だよな。


『視力増強』を最大まで引き上げる。

僕の目に飛び込んできたのは、大佐が言っていた「消えた可能性のある山」の姿だった。


…え?

山、あるじゃん…。


電導石が埋蔵されていると言われていた北部の山は、地図通りの位置に間違いなく鎮座していた。


「すー…ふぅー…。…大丈夫。『山が変わらずあった』ということも、重要な報告になるはずだ。」


深呼吸をし、落ち着きを取り戻す。

今から日が沈むまで、観察し続けないといけないのだ。

このことはしっかり記憶し、大佐と総督に報告しないと。


「ぐっ!?…くぅ…」

クソ…もう頭痛が…。


激痛が走り始めたこめかみを指で押さえ、僕はバイクの上で息を整える。

まだ任務は始まったばかりだ。

あと17時間。

やるしか、ないんだ。




時速200キロの潮風は、もはや暴力だった。

ゴーグルで守られた目以外、剥き出しの口周りは叩きつけられる海水の粒子で切り裂かれ、火を噴くような激痛が走る。肺に送り込まれる空気も、強烈な風圧に押し戻されて満足に吸うことすらできない。


開始からまだ三時間弱。

それなのに、バイクに積んだ4リットルの水のうちはやくも1リットルを胃に流し込んでいた。脱水と、潮風と、過剰な集中による体温上昇が、僕の喉を焼き続けている。


「……っ……あああ……!」


頭が割れる。いや、内側から爆発しそうだ。

長時間にわたる4つの魔法の同時行使。脳内の演算処理はとっくに限界を超え、視界の端にはどす黒い火花が散っている。


それでも僕は、止まるわけにはいかなかった。


北部の山岳エリアを抜ける。少しして、東側の海岸線へと差し掛かった時。

『視力増強』された僕の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。


「……何だ、これ……町が、潰れてる……?」


そこは本来、港町があるように思えた。

コンクリートの基礎らしき跡が地面にこびりつき、デッキに縛り付けられたままの漁船が何隻も海上に浮いている。

だが、陸地にあったはずの建物が、跡形もない。

まるで巨大なプレス機で押し潰され、そのまま消し飛ばされたかのように、大地は滑稽なほど「まっ平」になっていた。


絶句する僕の脳裏に、かつてジョンに妄想として話した仮説が閃く。


……重力魔法?まさか、本当に?


この広大な範囲を更地にするほどの重力。

もしそれが事実なら…この範囲を潰すほどの魔法師となると、どのくらい魔力が必要になるんだろうか…?

それに…まだ少ししか見れてないけど…もし、この国全域が潰れていた場合…魔力100万どころの話では…


「ぐっ! ああああああああ!!!!」


そんなことを考えるも、思考を塗りつぶすほどの激痛が襲う。

3時間を超えた。脳が情報の維持を拒絶し、神経が一本ずつ焼き切れていくような感覚。

僕は震える手で二本目の水を取り出し、頭から被るようにして残りをがぶ飲みした。




任務開始から、四時間が経過。

顔を叩く潮風の痛みは、もはや頭痛の陰に隠れて感じなくなっていた。

時速200キロで走り続けても、見えるのは更地だけだった。

家も、人も、道路も、一本の木すら見当たらない。

文明の残骸すら許さない、徹底的なまでの破壊。


だが、僕も限界だった。

意識が遠のき、指先の力が抜けかける。


……もう、解いてもいいかな?不自然なくらい何もないじゃないか、この国には……。


悪魔の囁きが聞こえる。けれど、その直後、戦慄が背筋を走った。

僕は今、海抜0メートルにいる。だが、あちら側の「何か」が、もっと高い高度から監視しているとしたら? 水平線の向こうから、僕の不可視化の揺らぎを狙っているとしたら?


「クソ……! クソがっ!!」


解けば、死ぬ。そして、僕の家族は路頭に迷う。


僕は混濁する意識の中で、右腕にさらなる『身体強化』を上乗せした。

そして、鋼鉄のように硬くなった指先で、自分の右腿の肉を、容赦なく掴み――千切った。


「あああああああああああああ!!! ぐううううっ!!!」


漆黒の海上に、僕の絶叫が響き渡る。

腿を抉る鮮烈な痛みが、脳の麻痺を強引に突き破った。

頭の激痛を、肉体の激痛で上書きする。

傷口から溢れる血がウェットスーツの中で熱く流れるのを感じながら、僕は無理やり意識を覚醒させた。


この国は、どこかおかしい。

その全貌を見るまで、まだ止まるわけにはいかない。




任務開始から10時間が経過した。

行程はようやく半分を過ぎたところだ。だが、僕の肉体はとうに限界を超え、崩壊を始めていた。


「…………っ……」


もはや、叫ぶ声すら出ない。喉は乾ききり、焼けた鉄を飲み込んだかのように熱を帯びている。

視界は真っ赤に染まっていた。過剰な脳への負荷と眼圧の上昇により、目の毛細血管が次々と破裂しているのだ。鏡を見るまでもない。今の僕の目は、白目の部分が消失し、どす黒い赤に塗りつぶされているはずだ。


水は残り1.5リットル。もはや喉を潤すためではなく、生存のための点滴のように、一滴ずつ慎重に口に含む。


意識が遠のくたびに、僕はウェットスーツの裂け目から、自ら千切った右腿の傷口に指を突き立てた。


「……っ!!」


えぐり、掻き回す。

生々しい肉の感触と、脳を刺す激痛。それだけが、僕をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。


北部から東部へ。山岳地帯を抜けてから、実に7時間。

その間、僕の目に映ったのは、例外なく「まっ平らな更地」だけだった。

世界一の先進国? 冗談じゃない。

文明の痕跡どころか、樹木一本、野良犬一匹すら存在しない。

まるで神が巨大な彫刻刀で地表を根こそぎ削り取ったかのような、虚無の風景。




「う、ぐ……っ、げほっ!」


任務開始から16時間。


不意に強烈な吐き気が込み上げ、僕は走行しながら胃液をぶちまけた。

胃の中にはもう何もない。吐き出されるのは、苦い胆汁と混ざり合った血の塊だけだ。

それと同時に、鼻の奥で「ツン」という異音とともに、熱い液体が溢れ出した。


鼻血だ。

止まらない。時速200キロの風に煽られ、どろりとした鮮血が顔中を這い回り、首筋を伝ってウェットスーツを汚していく。

凄まじい脳圧だ。魔法の多重行使によるオーバーヒートが、僕の脳を内側から煮焼きにしている。


……22時まで……あと、3時間……。


時計の針を見る余裕すらない。

意識の混濁の中で、僕はただ『不可視化』のイメージだけを死守していた。




そして、22時。

もはや指先の感覚はなく、電気魔法を流し続ける右腕は、焦げたような痺れに支配されていた。

暗闇の海上に、懐かしい軍艦の影が見えたとき、僕はそれが幻覚ではないことを祈った。


……無線……3回……


指の感覚はもうない。意思を介さず、痙攣するようにスイッチを叩いた。

カチッ、カチッ、カチッ。


直後、巨大な鉄の絶壁に一条の隙間が開いた。

僕という「廃棄物」を回収するための口。僕は魔力を絞り出し、電気魔法でバイクを艦内へと滑り込ませた。


ハッチが閉まり、外海の轟音が遮断される。

同時に、19時間僕を縛り続けていた緊張の糸が、音を立てて断ち切れた。


「イネス!!」


駆け寄る足音。だが、今の僕にはそれに応える機能が残っていなかった。

魔法を解いた瞬間、重力が何百倍にもなったかのように、僕はバイクから崩れ落ちた。


「カッ……! カハッ! ……あ……がっ……!」


喉の奥から漏れるのは、言葉ではない。肺から強引に押し出された、乾いた悲鳴とも呼べない音。

時速200キロの風を吸い込み続け、血と胃液で焼けた喉が、まともな呼吸すら拒絶している。


「あ、あああ……っ……がっ……あ……ぐふっ!」


口からは、どろりと赤黒い鼻血と吐血が混ざり合い、床を汚していく。

白目が消失し、どす黒い赤に染まった僕の瞳は、目の前の中尉を捉えているはずなのに、焦点はどこにも合わない。


大佐は……あ、いた。

…あぁ…そんな顔、しないでください。今なら、あなたがハグをしてくれたら、とても元気になると思います。

なんて、冗談を言う余裕も今の僕にはないけど。


「はっ……カハッ……た……たい、ざ……」

「…………っ!!」


大佐は、声も出せずに立ち尽くしていた。

仕事中いつも冷静なあの瞳が、今は恐怖と絶望に見開かれ、小刻みに震えている。あまりの惨状に、彼女の優秀な脳は処理を拒絶してしまったようだった。


「イネス! 喋らなくていい!大佐! 早く医官…を……クソ!大佐の部屋へ運びます!人がいないか確認しながら、先導してください!」


中尉の的確な叫びが、遠い海底から聞こえてくるようだ。

そう、僕は医者にも見せられない。存在しない人間なのだから。


身体が浮く感覚。中尉が僕のボロボロの体を抱え上げ、走り出す。

ガシャン、ガシャンと響く軍靴の音。

僕はただ、焼けるような脳の痛みと、自ら千切った腿の痛みが混ざり合う暗闇の中で、「カハ……ッ」と血を吐き出しながら、ゆっくりと意識を手放した。


報告すべき『更地』の光景も、『重力魔法』への懸念も、すべては熱を持った脳の奥に沈んでいった。

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