42 トリーシャ・ウィットの憂鬱
≪トリーシャ視点≫
「うっ……ううぅ……」
自分の部屋のベッドで目覚めた瞬間、脳内を直接ハンマーで叩かれたような鈍い痛みが走った。
どうやって家に帰ってきたのか覚えてない…。
間違いなく、昨日飲みすぎた。それも軍人としてあるまじきレベルで。
「……気持ち悪い……。」
這いずるようにして時計を見ると、朝の5時。
職業病か、こんな状態でも時間は守れてしまうのが自分でも恨めしい。
今日の予定は……。そうだ、朝一番でイネスさんに来週の任務について詳細を説明して、12時までに本部へ……。
「……ん?」
今、彼のことをなんて呼んだ?
イネス……さん?
『ウエステイルさん』ではなく?
その瞬間、ぷつりと切れていた記憶の断線が、激しい火花を散らして繋がり始めた。
「あ……ああぁ……~~っ!」
思わず枕に顔を埋め、シーツを掴んで足をバタつかせる。
恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。
自分が男性を名前で呼ぶなんて、一体いつ以来だ。……いや、そもそも記憶にない。高校を卒業して即入隊してから、私の周りには「階級」か「名字」しかなかったはずだ。
「ダメだ……思い出して、トリーシャ・ウィット……。他に何か、とんでもないことをしてないよね……?」
必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
そこで、総督と彼が話していた内容が、鮮明な映像として脳裏をよぎった。
『――む? それではイネス君、君は彼女がタイプではないというのかね?』
『いや…そんなことはない…ですね。』
「……きゃあああーーーーっ!!」
枕の中に情けない叫び声が入っていく。
顔が火が出るほど熱い。鏡を見なくても、自分の顔が昨夜のテーブルに並んでいたトマトより赤くなっているのが分かった。
「……消えてしまいたい。今すぐ海の藻屑になりたい……。」
私は、24歳にもなって男性とまともに付き合ったことすらない。
それもそのはず、私は幼い頃から「重力魔法師」という希少な属性を持ち、さらに魔力160万という、世界中を見渡しても二桁ほどしか存在しない100万越えの魔力の持ち主だった。重力魔法師に限れば、五指に入るだろう。
私という存在は、世間一般の男性からすれば「憧れの対象」などではなく、ただただ「恐れ慄くべき怪物」でしかなかった。
忘れたくても忘れられない記憶がある。
小学生の頃、初めて好きになった男の子。勇気を出して近づこうとした私に、彼は震える声で「怖い、こっちこないで…」と言い放った。
あの日から、私は恋愛が怖くなった。男性とは極力接しないようにし、軍に入るまで男性とまともに言葉を交わすことさえほとんどなかったのだ。
「……イネスさんは、きっと知らないよね…。」
私の魔力量を知らないから、あんな風に、普通の女の子を扱うみたいに「タイプじゃないことはない」なんて言えたのだ。
もし彼が私の魔力量を知ったら、やっぱりこれまでの男性たちと同じように、引きつった笑顔で接するようになるに決まっている。
「……何、この気持ち……」
そう思ったら、とてつもなく虚しくなってきた。
せっかく『イネスさん』と、初めて名前で呼べるようになった男性なのに。
いつか私の魔力のことを知ったら、彼もまた私をバケモノみたいな目で見てくるのかな……。もしそうなったら、それは……すごく、悲しい。
…あれ?でも彼は魔力48億とかいう冗談みたいな数字なんだし、案外そうはならないのかも…?
「っ、いや、何を思ってるのトリーシャ・ウィット! 彼は同僚なの!仕事で関わるだけなんだから、そんなこと気にしないの!」
私は大きく首を振り、乱れた髪をかき上げた。
そもそも名前で呼ぶようになったのも、昨日の歓迎会の雰囲気にあてられたのと、総督からの命令だったからで、何も特別なことはないじゃない!
「そうだ、仕事……。来週の任務説明を完璧にこなすこと。それが今の私の最優先事項なんだからっ。」
いろいろと変なことを考えてしまった…。
時計を見ると、5時30分になっていた。
「……30分も、こんなことでじたばたしてたんだ…。」
情けなさと自己嫌悪で、さらに頭痛がひどくなる気がした。
「…9時ごろに行けば、流石に起きてるよね。」
少しでもこの二日酔いと、熱を持ったままの顔を冷まさなければ。
私は重い足取りでバスルームへ向かった。
いつもより時間をかけて、ゆっくりとシャワーを浴びる。
シャワーを終え、キッチンでトーストを焼きながら、コーヒーを淹れる。
「あ、そういえば。」
手持無沙汰になり、彼が『想い合っている人がいた』と言っていたことを思い出した。
別に彼に対して特別な感情なんてまだないし、へーそうなんだ程度で聞き耳を立てていた話だ。
「そりゃあ、そうだよね。」
彼に出会ってまだ二日。けれど、私の目から見ても、正直彼は年相応の…いや、それ以上に魅力的な男性に映っている。
整った顔立ち、上手な料理、冷静な判断力、家族を最優先にする優しさ。普通の女の子なら、彼を好きになる理由は十分すぎるほどだ。
焼きあがったトーストをお皿に載せ、コーヒーをマグカップに注ぎ、リビングのテーブルに載せてその前に座る。
「…『辛い時に寄り添ってくれる女性』がタイプ…なんだよね。」
おそらくその女性は、彼や彼の家族がどん底にいた時に隣にいてくれたのだろう。そんな時期を共に乗り越えたのなら、想いが深くなるのは当然だ。
けれど、彼はその想いを自ら断ち切ったと言っていた。
「…彼の、優しさゆえ、か。」
もぐもぐと朝食を食べながら、一人囁く。
来週には早くも泊まりがけの任務がある。
当然、彼女には行き先も理由も話せない。心配をかけても説明できず、説明を求められても沈黙するしかない。
しかも、執行官としてのこれからの仕事は、来週のものより過酷で血生臭いものになっていくはずだ。
普通の女の子なら、彼が秘密を抱えるたびに不信感を募らせ、心は離れていくだろう。そして、その孤独な沈黙は、彼が執行官である限り一生続いていく。
「…彼も、不憫ね。」
自分のことを話せる相手が、この世に一人もいなくなる…。
それは私には考えつかない程、孤独なんだろうな。
その孤独に思いを馳せていると、不意に、中尉の揶揄するような声が再生された。
『お前が一緒になれるのは、隣に住んでる大佐くらいしかいねえな!』
「グッ、……ゴホッ、ゴホッ!!」
不意打ちの回想に、パンが変なところに入って激しくむせ返る。
咳が落ち着いてから、コーヒーで心を落ち着かせる。
「あんなこと言って……っ! 本当に、冗談でも勘弁してよ……っ」
自分で言うのも悲しいが、本当に男性への免疫がないのだ。
小学生の頃に心を閉ざして以来、恋愛というものから徹底して目を背けてきた。それなのに、いきなり「タイプだ」とか「お似合いだ」とか、極めつけには「名前呼び」だなんて。昨夜からの出来事は、私の乏しいキャパシティを完全に超えていた。
「うう……ホントにもう……。……あれ?」
ふと、胸の奥を通り過ぎた違和感に動きが止まる。
彼と初めて会った日の、総督の言葉。
『君には彼と結婚して家庭を築いてほしい』
背筋に冷たいものが走った。
閣下はあれを本気で言っている。
中尉が適当に騒ぎ立てた昨日の喧騒すら、もしかすると総督はすべて計算に入れた上で、あの歓迎会を仕組んだのではないか?
もしそうだとしたら、私、イネスさん、そして中尉の三人全員が、二日前からずっと閣下の掌の上で踊らされていることになる。
「……考えるのやめよ。」
考えれば考えるほど、自分の感情さえもが総督のシナリオ通りに動かされている気がして、私は思考を停止させた。
今は目の前の仕事に集中すべきだ。
時計の針は、ちょうど8時を指していた。
「…まだ行くには早いかな。」
そう呟き、私はソファに移動し、まだ温かいコーヒーを啜る。
彼の家まで、歩いて30秒かからないのだ。9時ちょうどに家を出るくらいでいいだろう。
そこまで考えて、ふと昨夜の惨状…彼のリビングに残された食器やグラスを思い出し、顔が青ざめた。
「あ、イネスさん、もしかして昨日の歓迎会の後始末、一人でやってるのかな…。」
そうだとしたら、あまりに申し訳ない。
彼が主役の飲み会なのに、片付けを彼一人に押し付けるなんて、同僚として…いや人としてあってはならないことだ。
「今からでもイネスさんの家に行って、片付けないと…。」
腰を浮かしかけたところで、私は非常に大きな、そして切実な問題に直面した。
「……彼のこと、なんて呼べばいいんだろう……。」
私はマグカップを握りしめたまま、リビングで一人、石のように固まってしまった。
「えっ……ええぇ?どうしよう…イネスさん?でもこれは昨日の飲み会の雰囲気で言ったことだし……。ウエステイルさん?……う~ん、なんか今更この呼び方は距離ができた感じがするし。執行官殿?……全然ピンとこない……あっ!!」
そこで、私は天才的な閃きをしてしまった。
「そうだ、私のことも、名前で呼んでもらえばいいんだ!そしたら、私が『イネスさん』って呼ぶのも自然なはずだよねっ!」
かなり恥ずかしいけど、それしかない!
声に出して言ってみて、頭の中でシミュレーションしてみる。彼に「トリーシャ」と呼ばれるところを。
『トリーシャさん』
想像した瞬間、すっごく妙な既視感が襲ってきた。
なんで? まるで実際に、ついさっき、耳元でそう呼ばれていたみたいな感覚。
そこで、昨日の夜、彼が私の家の玄関で、私のことをトリーシャと呼んだ光景が鮮明に蘇った。
「…………はあ!??」
なんで!? どうして!?
家まで送ってくれるのは分かるけれど、なんで名前で!?
「これはマズイ……。なんで、どうしてそうなったのか思い出さないと……。」
必死に頭をフル回転させても、私がソファで意識を失ってから玄関に来るまでの記憶が、スッポリと抜け落ちている。
思い出せるのは、彼が放った『トリーシャさん』という言葉と、その時の彼の少し困ったような、優しい表情だけ。
「……ええぇぇ……どうしよう……ホントにどうしよう……。」
あの真面目そうな彼が、自分から進んで私を名前で呼ぶなんて考えづらい。
中尉が無理やり言わせた? 総督の提案?
もしかして……いや、ありえないけれど……私が、自分から頼んだ可能性も……?
「…………グビッ」
私はまた、思考を停止した。
コーヒーでも飲んで落ち着こう。
もういい。考えても答えは出ないのだし…。
彼の家に行って、彼が私のことを名前で呼んだら私も名前で。役職で呼んだら私も役職で呼ぼう。それでいいや。
そして、中尉と二人きりになるタイミングがあれば、昨夜イネスさんに変な提案をしたか探りを入れてみよう。
気づいたら、時計の針は9時前を指していた。
「よし。一先ず、仕事の時間ね。」
自分に言い聞かせるように呟くけれど、重い腰がなかなか上がらない。
これから彼にする任務の説明。その中には、総督の思惑がこれでもかと透けて見える、生娘の私にはあまりに過酷すぎる条件が一つ混ざっていた。
酷すぎますよ総督…なんで私が、よりによって彼と……っ
それを説明しなければならないという事実だけで、昨夜の失態とはまた別の、熱い何かが顔に上ってくる。
けれど、そんな私情で逃げ出せるほど、この任務は甘くない。
今回の偵察は通常の人間には耐えられないほど残酷で、酷なものだ。
私の恥ずかしさなんて、彼の命の重さに比べれば些細なこと。
しっかり説明をして、彼を全力でサポートしなきゃいけない。彼が無事生還できるために。
入隊して6年。
大佐の階級を授与された、人生で最も誇らしかったあの朝よりも、圧倒的に激しい鼓動を胸の内に鳴らしながら、私は覚悟を決めて家を後にした。




