41 心の不安は紫煙と共に
「イネス君は、総督という立場の人間がどういう仕事をしているか知っているかね?」
昨夜のように、指をテーブルの上で組みながら総督が質問してくる。
「……。すみません、軍を指揮すること、としか。」
正直に答えると、総督はくすりと笑った。
「半分正解だね。総督は加えて、行政も統率している。私の仕事はね、この国を発展させることなのだよ。」
国家の発展。あまりにスケールが大きすぎて、実感が湧かない。
戸惑う僕を置き去りにして、総督は淡々と続けた。
「君は、リティッシュ・ランバのことを、どの程度知っている?」
「……世界一の先進国、としか。」
「その通り。私もそうなのだよ。なぜあそこが世界一になったのか、なぜこれほど急成長できたのか……実は、その理由が全く分かっていないのだ。私はね、それが知りたい。その技術を、この国にも取り入れたいのだよ。」
話の輪郭が、少しずつ見えてきた。
背中に嫌な汗が伝う。
「リティッシュ・ランバの技術を、僕が盗んでくる……ということでしょうか?」
「盗むとは人聞きが悪いねぇ。まあ、ありていに言えばそうなのだが。」
総督は悪びれもせず、さらりと言ってのけた。
やはり、僕の仕事は諜報…他国への潜入ということになるのか。
「だがね、今、リティッシュ・ランバはどうもおかしい。先日、隣国アータバルの外務大臣が訪れてから消息を絶っている事件は知っているね?」
「はい」
「それ以降も、あそこからは何の情報も入ってこないのだ。アータバルがその後に送り込んだ人員も、誰一人として帰っきていない。あの国は今、間違いなく平時ではなくなっている。」
『山がない』
『死体が動いている』
先日、ヨシュアとジョンが震えながら話していた話が脳裏をよぎる。
あの国で、何かとんでもないことが起きているのは間違いなさそうだ。
「そこでだ、イネス君。君への最初の仕事は、あの国が今どうなっているのか、その目で見に行ってほしい。」
「了解しました。」
「良い返事だ。まあ、君にはそれしか選択肢はないからね。」
総督は満足げに頷くと、具体的な手段を提示した。
「初めての任務だから、いきなり上陸しろとは言わない。君は魔力48億の光魔法師だ。視力増強を使えば、相当な遠方まで見渡せるはず。不可視の魔法であの国に接近し、概要だけでいい、島全体がどのようになっているのかを観察してほしい。……その結果を、すべて私に報告すること。それが任務だ。」
「了解です。」
僕のその一言を聞くと、総督は満足げに、そして拍子抜けするほど軽い調子で付け加えた。
「ああ、そんなに身構えなくていい。誰かと戦闘するわけじゃないんだ。ただ水上からあの国を少し観察するだけだよ。潮風を浴びながらの、ちょっとした海上観光だと思ってくれたまえ。」
総督はそう言って、まるでお土産の話でもするように「なんでもないこと」として笑った。
でも、本当にそんな簡単な任務なのかな…?
「作戦の決行は、今日から一週間後だ。今回の君の足として、特別な水上バイクを用意する。君の電気魔法を最大限に活用できる、君専用の特注品だよ。完成は任務直前になるはずだから、それまでの一週間で、ホームズ中尉に水上バイク乗り方を教わっておきなさい。彼はああ見えて操船のスペシャリストだからね。」
そう言い、閣下はチラッと時計を見る。その針は1時を指すところで、「お、もうこんな時間か」と僕に聞こえるように囁いた。
「任務の詳細はまた大佐から説明させるよ。それじゃあ私はこれで失礼しようかな。」
そう言って、総督は満足げに腰を上げた。
ソファで眠る大佐には一瞥もくれず、まるですべてが予定通りだと言わんばかりの足取りで玄関へと向かう。
僕は慌てて玄関まで見送りに出た。
扉を開け、外の冷たい夜気に触れたとき、総督が「おお、そうだそうだ」と思い出したように振り返った。
「君の家族は今日、ハマムの最高級病院に着いたよ。早速明朝には、三人とも治療が開始される。……ああ、それとね。君の母君と姪御さんは、新しい住まいをとても気に入っているそうだよ。」
「……え?」
ハマムの病院。そして、家族がもう新しい家に移り住んでいるという報告。
…何故かは、分からない。嬉しいはずのその報告を聞き、何故か胸の中が冷たくなる感覚がした。
『人質を預かっている。』
何故か、そんなことを言われた気がした…。
「…承知しました。本当にありがとうございます、閣下。」
…馬鹿なことは考えるな。
「うむ。君が頑張れば頑張るほど、ご家族の生活はもっと豊かになる。期待しているよ、イネス君。」
総督は慈父のような笑みを浮かべて僕の肩を軽く叩くと、迎えの車に乗り込み、夜の闇へと消えていった。
静まり返った玄関で、僕は自分の震える手を見つめた。
家族は守られた。けれど、何故か安心しきれない感覚が止まらない。
…いや、総督はいい人だ。昨日今日と話して、嫌な人と思ったことは一度もない。
…問題は無いはずだ。
リビングに戻ると、そこにはまだ、酒の匂いと共に無防備に眠る大佐の姿があった。
さっきまで総督が放っていた、あの圧迫感。
彼女のその無防備な寝顔は、張り詰めていた僕の神経を、ふっと元の場所へ連れ戻してくれた。
「……ふぅ。」
ふと見ると、机の上に中尉が入隊祝いに置いていった煙草があった。
僕はそれを手に取り、窓を開けてテラスに出た。夜の冷たい空気が頬を刺す。
ライターで火をつけると、先端が赤く爆ぜた。
「ケホッ、ケホッ……」
まだ喉にくるけれど、最初の一本よりは嫌な感じはしない。
ゆっくりと吐き出した白い煙と一緒に、胸の中に溜まっていた得体の知れない不安が、空の彼方へ吐き捨てられていくような気がした。
「一週間後、か……。」
そう呟いて、これから始まる任務の全容を想像してみるが、結局何も分からなかった。
大佐から説明があるとは言われたものの、不安がとめどなく押し寄せてくる。
僕は窓を閉め、短くなった煙草を消してリビングに戻った。
そして、ソファで丸くなっている彼女に目をやる。
「任務…どんな内容に…。って、ああ」
思わず考え込んでいたが、今の問題は作戦よりも目の前の彼女だ。
このままここで寝かせておくわけにもいかないよね…。
「大佐?大佐ー。起きてくださーい。帰りますよー。」
「…んっ、んん…?…ぅぇあ?…イネス、さん……?」
「はい。さ、起きてください。お家まで送りますから。」
僕が手を貸して立ち上がらせようとすると、彼女は僕の腕を掴んだまま、ジトッとした目で僕を見上げてきた。
「もー……イネスさーん。ちゃんと、自分の意見は言わないとダメでしょー……?」
「えっ?...あ、はい……すみませんでした。」
自分の意見…?さっきの、名前で呼ぶどうこうというやつかな?
いつもなら「軍人にあるまじき態度だ」なんて叱責しそうな彼女が、語尾をふにゃりとさせて、頬を膨らませている。
…酔ったら、人格が真反対になる人なんだな…。
足元がふらつく彼女の肩を抱き寄せ、支えるようにして外へ出る。
夜風に当たって少しは目が覚めるかと思いきや、彼女の饒舌に拍車がかかった。
「さっきの……タイプだなんて話、なんで否定しなかったのさー……。どうせ閣下を喜ばせるためにいったんでしょー?」
「いえ…自分は嘘なんかついていませんよ。」
「あ~、女慣れしてる〜。むぅー……。それに、名前だってさ…。無理やり私にあなたのこと名前で呼ばせてさ…。あっ、分かった!じゃあイネスさんも、私のこと名前で呼んでよー。」
「えっ、それはさすがに……。できませんよ、上官なんですし。」
「いいからー。呼んでみてってばー。」
酔いすぎですよ大佐…。
彼女は僕の腕をゆさゆさとなじるが、僕は首を横に振り続ける。
「いえ、だめです。そんなの、不敬ですよ。」
二度目の拒絶を口にした時だった。不意に、腕を揺らす彼女の力が弱まった。
隣を見ると、彼女の潤んだ瞳が、今にも溢れそうなほどに震えていた。
「うぅ…ずるいよぉ…。私のこと、名前で呼んでくれるの……もう、家族か、閣下しかいないのに……。みんな、『大佐』ってしか呼んでくれないのに…。」
「え、あ……大佐? 」
涙ぐみながら零されたその言葉は、軍人としてではなく、一人の人間としての本音だった。
「イネスさんはさー…入隊して二日目で、みんなから名前で呼ばれてさー…。」
僕は困り果てて、辺りを一度確認してから、絞り出すように口を開いた。
「あー...えーっと……トリーシャ、……さん」
その瞬間、彼女はパッと顔を上げた。
さっきまでの悲しげな表情が嘘のように、花が綻ぶような満面の笑みを浮かべる。
「はい! イネスさん!」
「っ……!」
そのあまりにも純粋な、少女のような笑顔に、僕は一瞬呼吸を忘れた。
「ふふふっ。名前で呼ばれるなんてすっごく久しぶり!」
肩に預けられた彼女の体温が、軍服越しに伝わってくる。
微かに香るお酒の匂いと、清潔な香り。
もし僕が普通の男なら、ここで心臓が跳ね上がっていたのかもしれない。
けれど、僕の胸の奥には、まだ冷たくて重い「塊」がある。
目を閉じれば、今でもソフィーの笑った顔や、最後の感情のない別れの言葉が、僕の心を蝕んでくる。
ようやく彼女の家の玄関に着き、鍵を開けて中へ促す。
「じゃあ…おやすみなさい、……トリーシャさん。」
「うんっ。おやすみなさい!送ってくれてありがとうございました!」
最後まで、上官と部下?であることを忘れながら、彼女はバタンと扉を閉めた。
一人、静まり返った夜の道に取り残される。
…心が、グチャグチャになりそうだ。
ソフィーの涙、大佐の笑顔、初めての任務、家族の安寧。
不安と安心が頭を行き交い、何も考えたくなくなってきた。
「...タバコ、吸おう。」
無性に恋しくなった紫煙を求めて、僕は帰路についた。




