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40 嬉し恥ずかしい歓迎会

到着した新居は、これまで家族と住んでいた家の三倍はあろうかという豪邸だった。


大佐から鍵を受け取り、簡単な説明を受けてから一人で家の中を歩き回る。

広すぎるリビング、最新の設備。冷蔵庫を開けると、見たこともないような高級食材と酒が隙間なく詰め込まれていた。


「…何か、作っておこうかな。」


じっとしていると、どうしてもソフィーのことばかり考えてしまう。

僕は現実逃避をするように、無心で包丁を握った。




「よう、いい匂いさせてんじゃねえか!」

18時。一番乗りでやってきたのは中尉だった。

「中尉、早かったですね。今お茶を淹れます。」


棚で見つけた、見たこともないほど香りの強い高そうな茶葉。

それを丁寧に淹れ、大きな食卓の椅子にどっかりと腰掛けた中尉の前に置く。

「おお、サンキュ。…うわ、なんだこれ、めちゃくちゃ旨いな。」


中尉と世間話をしながら料理の仕上げを済ませた頃、大佐も合流した。

僕は同じようにお茶を淹れ、彼女の分をソファのサイドテーブルへ置く。


大佐は「ありがとう」と短く告げ、ゆったりとくつろぎ始めた。


中尉は茶を飲み干すと、ニヤリと笑って僕を誘った。

「なあ執行官殿、総督が来る前に一本どうだ?」

中尉がポケットから煙草を差し出してきた。


「…ええ。いいですね。」

吸ったことはなかったが、今の僕には、何か毒のようなものが必要な気がした。


二人でリビングの窓からテラスへ出る。

火をつけてもらい、見よう見まねで吸い込んでみたが、喉を焼くような刺激に思わず激しくむせ返った。


「ケホッ、ケホッ……! 苦い、ですね。」

「ははは! 初心者にはきついだろ。でも、これが癖になるんだよ。」


中尉が笑いながら、紫煙を夜空に吐き出す。

「…で、お前、本当のところ、彼女はいないのか? 車の中じゃああ言ったが、どうも気になってな。」


中尉の問いに、僕は夜の闇を見つめた。

今さら隠すことでもない気がした。煙草の苦さが、胸の奥の苦さを少しだけ麻痺させてくれている。


「…想い合っていた子がいました。最後に、彼女から気持ちを告げられました。」

「え!相思相愛じゃねえか。なのになんで?」


「僕は、これから自分がどんな仕事をするのか、何をするのかさえ分からないんです。一生、家族にも言えないような仕事をするかもしれない。そんな男が、あんな良い子を巻き込んじゃいけないと思ったんです。…彼女には、心からの幸せを掴んでほしいから。」


絞り出すような僕の告白に、中尉は少しだけ真面目な顔をして、ふっと笑った。


「なるほどなぁ。…そうなると、お前が一緒になれるのは、隣に住んでる大佐くらいしかいねえな!」


「ゲホッ!!」


不意打ちの言葉に、僕はまた激しくむせた。 と、同時に。


「ブッ……!!」


リビングのソファで、僕が淹れた茶を優雅に飲んでいたはずの大佐が、盛大に吹き出す音が聞こえてきた。

…聞こえてたんだ…。


「ホームズ中尉! あなた、なんてことを!」


大佐は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、ポケットからハンカチを取り出して慌てて床を拭き始めた。

その様子を、中尉はニヤニヤと楽しそうに眺めている。


「えー、いいじゃないですか大佐! こいつ、顔も稼ぎもいいし、料理もできるっぽいし。なにより、こいつの事情を知ってる独身女性なんて、大佐くらいしかいないですよ?大佐だって浮いた話の一つも聞かないし、ばっちりじゃないですか!」


「…まったく、閣下も中尉も、みんなして何を言っているんだか…。」

大佐は床を拭きながら、僕たちには聞こえないような音量でボソボソと毒づいている。あの凛としたウィット大佐が、ここまで取り乱すなんて。


中尉はさらに畳み掛けるように、僕の方を向いた。

「なぁイネス、お前の好きなタイプは?」


二日続けて、なぜ僕は同じ質問をされているんだろう……。

「えーっと…辛い時に、寄り添ってくれる女性…昨日もそう答えたと思います。」


「だって大佐! 大佐面倒見いいし、該当してるんじゃないですか!?」

「知りませんっ!」


背中越しに飛んできた大佐の鋭い拒絶。

けれど、その声はいつもの冷徹な命令とは違い、明らかに余裕をなくして震えていた。

そのたじたじになった彼女の背中を、僕はほんの少しだけ、可愛いと思ってしまった。


そんな騒がしくも穏やかな時間は、時計の針が19時を回ったところで、不意に終わりを告げる。


コン、コン。

静かだが、有無を言わせぬ重みのあるノックが玄関に響いた。


「……来たな。」

中尉が表情を引き締め、大佐が素早く立ち上がって服の乱れを整える。

僕は吸いかけの煙草を灰皿に押し付け、背筋を伸ばした。


「おじゃまするよー!」


扉が開くのと同時に、軽やかな声が響いた。

総督閣下のその手には、重厚な木箱に収められた一本のボトルが下げられている。


「閣下、お疲れ様です!」

「まあまあ、今日は無礼講だよ。」

中尉と大佐が瞬時に直立不動の姿勢を取る中、総督はとひらひらと手を振り、その木箱を食卓に置いた。


「イネス君、引っ越し祝いだ。…といっても、僕が用意させた家なんだけどね。ははは!」


木箱から取り出されたボトルのラベルを一瞥した瞬間、中尉の喉が鳴った。


「げ……! 閣下、それ、ヴィンテージの『ノアール・エ・ブラン』じゃないですか!? たしか一本で、一般人の年収が吹き飛ぶっていう……」

「おや、ホームズ中尉は目ざといね。そう、せっかくの執行官の歓迎会だ。これくらいじゃないと格好がつかないだろう?」


総督は何でもないことのように笑いながら、僕が並べた料理をじっと見つめた。


「ほう、いい匂いだ。全部君が作ったのかい? 素晴らしいな、君は仕事以外にも、僕を喜ばせる才能があるらしい。」

「ありがとうございます。そう言っていただけると、作った甲斐があります。」


神堕者としてでなく、一人の人間として僕を認めてくれたような気がして、温かい気持ちになる。


「さあ、始めようじゃないか。トリーシャ君、なんだか顔が赤いようだが……もしかして、僕が来る前にもう始めていたのかな?」

総督がいたずらっぽく目を細め、大佐を覗き込んだ。


「い、いえ! 何でもありません。少し部屋の温度が高いようで…。」

大佐はしどろもどろになりながら、必死に平静を装って答えた。 あの冷静な大佐が、中尉のからかいに動揺していたなんて口が裂けても言えないのだろう。

ホームズ中尉はニヤニヤしながら大佐を見ている。


「ははは、そうか。先に始めてもらっても良かったんだがな。」

総督は深く追求せず、グラスが並べられたテーブルの前に座る。

僕が総督が持ってきたボトルを開けそうよすると、「今日の主役はお前だ」と中尉がボトルを奪い、全員に注いでいく。


そして総督が楽しげにグラスを掲げた。

「では早速、我らが『特別執行官』の門出に。乾杯!」

「「乾杯!」」

「乾杯!ありがとうございます!」


いざ食事が始まると、三者三様に僕の料理を褒めてくれた。


「おぉ、大したものだね。」

「うま!うめぇ!」

「…おいしい」


中尉が子供のように僕の料理を口に運ぶ。

大佐も小さくだけど賞賛を呟いて、パクパクと料理を食べてくれた。


「いやぁ、イネスはいい嫁さんになるな!」

「あはは、本当ですか?じゃあいい旦那さんを探さないと。」

上機嫌な中尉が放ったその言葉に、僕は思わず乗っかった。


僕が笑って返した瞬間、中尉の顔が「まずい」と言わんばかりに強張った。

僕のことを、総督の前で「イネス」と名前で呼んでしまったからだ。どちらの地位が上かはよく理解していないが、不敬だと咎められるのを恐れたのだろう。

中尉は恐る恐る総督の方を窺う。


「おお、この二日で随分と仲良くなったんだね。」

総督は怒るどころか、どこか嬉しそうに目を細めた。僕は助け舟を出すように言葉を添える。


「あ、僕の方からお願いしたんです。最初、中尉に『執行官殿』と呼ばれてしまったので、もっと気楽に名前で呼んでほしいと。」

「そういうことなら、何も問題はないな!うむ、素晴らしいと思うぞ。」

総督は機嫌よくグラスを揺らした。


「そういうことなら、イネス君も私のことを名前で呼ぶといい。」

笑顔のまま、総督がさらりととんでもないことを言い出した。

「ほら、ギャレットと呼んでみなさい。」

「……はい?」


一瞬、耳を疑った。中尉も大佐も、石像のように固まっている。軍の最高権力者、五つの星を持つ人を、下の名前で…?


「え、いや…さすがにそれは、勘弁してください。心臓が持ちませんよ。」

「ははは!まあ許そう!君の友人への道はまだまだ長そうだな!」


そんな冗談のようなやり取りを経て、宴はさらに盛り上がった。

ちなみに中尉が「閣下、自分も名前で呼んでいいですか!?」と調子に乗って聞き、総督に「君はダメだ」と即答されてシュンとする一幕もあり、リビングには笑い声が絶えなかった。


酒も回り始め、すっかり上機嫌になった中尉が、とんでもない爆弾を落とした。

「…あ! そうだ閣下、聞いてくださいよ! イネスの好きなタイプ、大佐らしいんですよ!」


「ンッ!? ゴホッ、ゴホッ……!」

大佐が、僕の作った料理を喉に詰まらせて激しくむせ返った。


「何!? それは本当かね!?」

総督が、今日一番と言えるほどの満面の笑みを浮かべて身を乗り出す。


「ホントです!お似合いだと思いませんか閣下!」

「中尉……あまり焚きつけるのはやめてください……。」


僕は冗談だと割り切って苦笑いしていたが、大佐の方はそうはいかないらしい。

耳まで真っ赤にして、泳ぐ視線のやり場に困っている。


「中尉、やめてください! あと、ウエステイルさんはそんなこと一言も言っていません!」

「わははは! トリーシャ君、人の好みを否定するものではないよ。そこは素直に喜んだ方が、彼だって嬉しいはずだ。なぁ、イネス君?」

「はは、ははは」


総督に話を振られ、僕は引きつった笑みを返すしかない。

すると今度は、中尉が大佐に詰め寄った。


「そーですよ大佐ー。あ、っていうか、イネスのことを名字で呼んでるの、大佐だけじゃないですか! そんな堅苦しくて長い呼び方じゃなくて、イネスって呼びましょうよ! なぁ、イネス!」

「いやー、あははは……」


賑やかで楽しいけれど、すごくむず痒い…。

そんな僕の心境を余所に、総督が追い打ちをかける。

「それはいいアイデアだ!トリーシャ君、呼んでみたらどうだね!?」


「う……うぅ……っ。い……イネ……ス、さん……」


蚊の鳴くような声だった。

絞り出すように僕の名を呼んだ大佐の姿に、中尉が拳を握りしめる。


「くぅ〜!いい!いいですよ大佐!めっちゃいいです!イネスも傷心したばかりだから、これにはグッと来てるはずですよ!」

「あは、あははは……」

「どうだいイネス君! 嬉しいかね!?」

総督にまで満面の笑みで畳み掛けられ、僕は観念して答えた。


「えーっと……はい。それは……嬉しい、ですね」

「ッ!」


僕の回答を聞いた瞬間、大佐の動きが止まった。

そして彼女は、僕が注いだばかりの最高級酒を、まるで安酒の煽り水か何かのように、一気にグイッと飲み干した。


「おっ、いい飲みっぷりだねぇ!持ってきた甲斐があるよ!」

総督が愉快そうに笑う。


…恥ずかしいなら無理しなければいいのに…でも閣下からのお言葉だったしなぁ…。


「イネっ…ウエス……もうっ!イネスさんも!間違ったことを言われたらしっかり否定してください!」


あ、諦めた。

「了解です。」

ここは素直に聞いておこう。少し彼女が可哀想に思えてきた。


「む? それではイネス君、君は彼女がタイプではないというのかね?」

総督が、楽しげに追い打ちをかける。


「いや…そんなことはない…ですね。」

正直、すごく綺麗な人だと思う。

タイプかタイプじゃないかの二択であれば、間違いなくタイプだろう。少なくとも、隣にいて不快なはずがなかった。


「ッ!? うぅ〜……中尉! お酒を注ぎなさい!」

「了解であります!上官殿!」


アルコールからかそれ以外からか、顔を真っ赤に染めた大佐が、ぐびぐびと度数の高い酒を煽っていく。

……お酒、強いのかなぁ?


心配になる僕の横で、中尉は「明日の朝は地獄だぞ~」と小声で笑いながら、せっせと給仕に励んでいた。




賑やかな宴は夜更けまで続き、やがてボトルが空になる頃。案の定、あんなに勢いよく飲んでいた大佐は、ソファの端でコテンと丸くなって寝息を立て始めた。


「いやぁ、本当に楽しかった!閣下、本日はありがとうございました!イネスもまたな!…そうだ、入隊祝いにこれを贈呈しよう。」

意味の分からないことを言いながらテーブルに半分ほど残った煙草を箱を残して、中尉は千鳥足で玄関を出て行った。


賑やかだったリビングに不意に静寂が戻る。

残されたのは、ソファで丸くなって小さな寝息を立てる大佐と、僕。

…そして、空になったグラスを指先で弄びながら、静かに口角を上げている総督だけだった。


「楽しい宴だったね。イネス君。」

「はい。とても、いい人たちです。」

僕の言葉に、総督は満足げに目を細めた。


「良かった良かった。彼らと仲良くやっていけそうかね?」

「はい。そう思います。」

「うむ。それは喜ばしいことだ。」

総督はそこで一度言葉を切り、壁に掛けられた古めかしい時計に目をやった。


「…おや。ちょうど、24時を回ったね。」


カチリ、と秒針が頂点を刻む。

その瞬間、総督はテーブルにグラスを置いた。

口角は上げたまま。けれど、さっきまでの慈父のような柔和な顔は消え、鋭い眼光を宿した「軍の最高権力者」が座っていた。


「それじゃあ、『仕事はない』と言った昨日が終わったことだし…少し、仕事の話をしようか。」


冷えた空気がリビングを支配する。 ソファで眠る大佐の寝息だけが、この部屋に残された唯一の穏やかな音だった。

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