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39 総督府直轄 特別執行官

リビングの椅子に深く腰掛け、僕はただ、うなだれていた。


家の中は、ここ数日で初めて訪れた静寂に包まれている。けれど、その静けさがかえって、僕の耳の奥に彼女の泣き声と、今朝のあの冷たい一言を呼び起こした。


「……ソフィー」




今朝、僕はまだ足の痛む彼女をおんぶして、彼女をアパートまで送り届けた。彼女の重みを感じるため、魔法は使わずに。


小さな部屋は、地震の爪痕が散らばっていた。僕は強引に部屋へ上がり、無心で片付けを始めた。散乱した家具を起こし、粉々になった食器をゴミ袋に詰め、玄関の外へ出す。


その間、彼女はずっと、ベッドの端に腰掛けたまま動かなかった。 視線はどこにも合わず、まるで心だけがどこか遠くへ消えてしまったかのようだった。


掃除を終え、何か言葉をかけようとして、僕は口を閉ざした。どんな慰めも無意味だと分かっていたから。


「……ありがとうございました。さようなら。」


空虚を見つめたまま、彼女は魂の抜けた声で言った。胸が、鋭い刃物で引き裂かれるような衝撃に襲われる。


「……落ち着いたら、時間ができたら、また、会いに来ても……いいかな。」


絞り出すように問うたけれど、彼女が答えることはなかった。

背後で静かに閉まったドアの音が、僕たちの世界の断絶を告げていた。




そして今、カーテンを閉めた暗いリビングで一人、自分の手のひらを見つめている。

昨夜のぬくもりがまだ残っているような気がして。彼女の笑顔が、弾けるような声が、愛おしくてたまらなくて。


「ソフィー……うぅ、うぅ……っ」


堪えていたものが溢れ、僕は声を殺して泣いた。こんなボロボロの精神状態で、やっていけるのか。家族を救う代償として差し出したこの身は、僕をどこまで孤独にするのだろう。


その時。 外から、軍用車両特有の、重たいドアの閉まる音が聞こえた。

続いて、迷いのないノックが玄関に響く。


「ウエステイルさん、いらっしゃいますか?」


この声は…ウィット大佐だ。 後日迎えに来ると言っていたはずだが、まさか翌日に現れるなんて。


「……っ」


僕は乱暴に涙を拭い、顔を上げた。今の僕にとって、この孤独に押しつぶされる時間は、どんな拷問よりも辛い。何も考えず、何も感じず、ただ命じられるままに仕事に打ち込むこと。それが、今の僕に残された唯一の救いのようにさえ思えた。


僕は立ち上がり、ゆっくりと玄関に向かった。開かれたドアの向こうには、軍服に身を包んだ大佐が、感情を排した瞳で立っていた。




家の前に停まっていた軍用車両のドアを開けると、ツンとした煙草の匂いが鼻をついた。


「よ、ウエステイル。昨日ぶりだな。」

運転席に座っていたのは、ホームズ中尉だった。咥え煙草をしながら、バックミラー越しにひらひらと手を振った。


「行きましょう、ホームズ中尉。」

助手席に座る大佐の抑揚のない声と共に、車が滑り出す。


中尉は、後部座席でうなだれる僕を気遣う風でもなく、軽快な口調で世間話を始めた。

「まあ、そう硬くなるなよ。これから俺たちは同じ釜の飯を食う関係になるんだ。仲良くしようや。あ、ウエステイルって長げえからイネスって呼ぶぞ?」

「……はは、了解です。」


僕の力ない返事にも、中尉はめげずに言葉を続ける。だが、その次の言葉が、僕の傷口を容赦なく抉った。

「そういや、彼女さんにはちゃんと挨拶してきたか? これから先、自由が効かなくなるだろうからな。なかなか会いづらくなるぜぇ?」


冗談めかした、彼なりのコミュニケーションだったのだろう。

けれど、心臓が握りつぶされるような痛みが走った。ソフィーからの最後の言葉、あの絶望的な「さようなら」という声が耳の奥で反響する。


僕は、引きつりそうになる頬の筋肉を必死に動かして、笑顔を作った。


「…いえ。彼女なんて、いませんよ。」


自分でも驚くほど、乾いた、明るい声が出た。

一瞬の沈黙。

ルームミラー越しに僕の顔を見た中尉が、何かに気づいたようにわずかに目を逸らした。

「……そ、そうか。ははっ、いい男なのにもったいねえな。」


気まずい沈黙が車内を支配した。僕の無理な笑顔が、かえって事態の深刻さを物語ってしまったようだった。


その空気を断ち切るように、助手席の大佐が事務的な声で話し始めた。

「……今日の予定を説明します。まず我々は、人目を避けるために州軍本部の地下集荷場へ入り、そこから総督の待つ執務室へ向かいます。誰にも見られないよう手筈は済んでいます。」


大佐は淡々と僕の「これから」を告げる。


「そこで総督から、今後の具体的な職務内容、および軍としての待遇についての通達があります。」

「…はい。」


その後、車内は再び静まり返った。中尉はもう軽口を叩くこともなく、ただ前を見据えてハンドルを握っている。


窓の外を眺めながら、次いつ会えるか分からない彼女の顔を思い浮かべる。

鉄の檻は、僕の未練を置き去りにしながら、本部へとひた走った。




「おお、来たねイネス君」


昨日と同じ執務室に通された。

ボイド総督閣下は昨日と同じ場所に座り、親しげな笑みを浮かべて僕を迎えた。

横にはウィット大佐、そして今日はホームズ中尉も同席している。

中尉は先ほどまでの軽口が嘘のように、直立不動で真剣な顔をしている。


「昨日はよく眠れたかい?」

「いえ……緊張からか、あまり眠れませんでした。」


嘘だ。……ほんとの理由は、口が裂けても言えないけど。


「ははは、硬いねぇ。もっとリラックスしてくれよ。昨日も言っただろう? 僕は君と友人になりたいんだ。これからは僕の直属の部下になるわけだしね。」

その言葉に、隣で中尉が目を見開くのが分かった。


総督直属。

それは軍において、どのくらいの立ち位置になるのだろうか?

僕には全く判断がつかない。


「君は極めて秘匿性の高い存在だ。普通の軍人のように動くことはない。ここに、この本部に顔を出すことも、もうほとんどないと思いなさい。」

「え…?」


じゃあ、僕は一体どこで何をすればいいんだろう。戸惑う僕を見て、総督は「あー」と少し面倒そうに頭を掻いた。

「…トリーシャ君、説明を頼めるかい?決して私がめんどくさいからという訳ではないぞ!?」

「了解しました。」


大佐が前へ出る。

彼女が説明してくれた内容は、僕が全く想像していないものだった。


これから僕は、軍の宿舎ではなく、市内にあるウィット大佐の自宅の隣家に住むことになる。僕への連絡は、新居に備え付けられた専用の無線機を使って総督からか、隣に住む大佐が直接行う。

そして最も重要なのは、僕への指揮権は総督と大佐の二人のみにあり、それ以外の人間からの命令は、たとえ相手が誰であっても無視しろ、ということだった。


「以上です。」

大佐が話を締めると、総督が再びニコッと笑いかけてきた。


「ありがとう、トリーシャ君。…というわけだ。これから彼女と君の新居に向かってくれ。今日のところは仕事はない。ゆっくり休むといいよ。」


そう言って、総督は中尉に視線を移した。

「ホームズ中尉。」

「はっ!」

「イネス君と、良き友人になってくれたまえ。そのために君をこの場に入れている。彼は賑やかなのが好きらしい。今後、これまでの友人と会えず寂しい思いをするかもしれないからね。」

「はっ! 了解です!」


中尉の声が室内に響く。総督は満足げに頷くと、僕に言った。


「あと、イネス君。今夜、君の新居でささやかな歓迎会をしようじゃないか。参加者はこの場の4人でどうだろう? 引っ越したばかりで予定もないだろうし、君、酒が好きだと言っていたね。どうだい?」

「はい…喜んで。」


断れるはずがなかった。中尉は嬉しそうに頷き、大佐だけは「また面倒なことを」と言いたげな、少し嫌そうな顔をしていた。


「よかった。それじゃあ、これを持って帰りなさい。」


差し出されたのは、丁寧に折り畳まれた軍服。そしてその上には、見たこともない意匠の懐中時計が乗っていた。


「っ!?」

それを見た瞬間、中尉が息を呑んだ。


「あの……軍服は分かりますが、この懐中時計は?」

「それは佐官…星三つ以上の階級になった際に渡される特別なものだ。身分証代わりに使いなさい。何かあった時はそれを出せば、大抵のことは解決する。君は表舞台を歩けないからね、軍人の証である『星のバッジ』は与えられないんだ。悪く思わないでくれ。」


通常、軍人は胸の星の数でその立場を示す。

星がなければただの一般兵。一つで下士官、二つで尉官、三つで佐官と、一目で階級が分かるようになっている。


ちなみに、総督の胸には五つの星が輝いている。

それは軍のみならず、この国の行く末すら左右する絶大な権力の証だ。


「…分かりました。ありがとうございます。」

「うむ。それでは今夜、また会おう。」


中尉が息を呑むのも無理はなかった。

星三つ…佐官と言えば、一つの部隊を、数千人の命を預かる立場だ。

そのようなものを、総督はまるで手遊びの玩具を譲るかのように僕へ手渡したのだ。


それを受け取り、3人が「失礼します」と扉へ向かい始める。


「あ、そうだ。大事なことを二つ、忘れていたよ。」

部屋を出ようとした僕の背中に、総督が思い出したように声をかけた。「歳をとるといかんなぁ」と、頭をポリポリしている。


「君の今後の役職だが、『総督府直轄 特別執行官』として登録しておいた。まあ、対外的な名前が必要な時だけ使えばいい。実態は僕の『目』であり『腕』だからね。」


…特別執行官…?なんかピンと来ない役職だな…。


「それと君の給与についてだが、とりあえずは佐官と同等に設定しておいた。今後の働き次第ではもっと色を付けるつもりだから、よろしく頼むよ。」


総督はまるで「今日の夕飯は肉だよ」とでも言うような、なんでもない口調でさらりと言った。

その言葉を聞いた瞬間、中尉の顔が今日一番の驚きで引きつったのを僕は見逃さなかった。


佐官クラスの給与…。

詳細な金額までは分からないが、到底想像もつかないような法外な金額なのだろう。

ジョンとヨシュアは、一般兵ですでに中小の役員クラスの給料だと言っていた。

…少し、明細を見るのが怖くなってきた。


「……あ、ありがとうございます。」


僕は呆然としながら、そう答えるのが精一杯だった。




本部を出て、再び軍用車両へと戻る。

運転席に中尉、助手席には大佐、そして後部座席に僕。

座り順は先ほどと同じはずなのに、車内の空気は、密閉された缶詰のように重苦しく変わっていた。


車が始動し、静かに滑り出す。

数分の沈黙の後、バックミラー越しに僕と目が合った中尉が、居心地悪そうに口を開いた。


「あー…あの、ウエステイル、執行官殿。……新居まで、お送りいたします。」

「えっ?」


余所余所しい、硬い敬語。

さっきまで「イネスって呼ぶぞ」なんて笑っていた中尉が、今はまるで怯えた子猫のような目をして僕を見ている。


「……ホームズ中尉、その、敬語はやめてください。少し笑っちゃいますよ。僕は今日入ったばかりの新入りですし、星だって一つも持っていないんですから。」


僕が努めて明るくそう言うと、中尉はハンドルを握る手に力を込め、深くため息をついた。


「いや、でもお前、あの時計……。はぁ、いいや。そうだな、俺もキャラじゃねえし。変に気張るのも疲れるわ。」

中尉は肩の力を抜くと、いつものニカッとした笑みをバックミラーに浮かべた。


「じゃあ、遠慮なく行かせてもらうぜ。……あー、執行官殿! タバコ一本、行ってもよろしいでしょうか!?」


冗談めかした大げさな口調に、僕は思わず吹き出した。

「うむ。許可する。」


僕が総督の真似をして偉そうに頷いて見せると、中尉は「あざーっす!」と声を弾ませて、手慣れた手つきで煙草に火をつけた。

煙が車内に揺れる。


それを見ていた助手席の大佐が、冷ややかな声を出す。

「ホームズ中尉。一応言っておくけれど、私もあなたの上官ですよ。私の許可は?」

「あー、大佐はいつも許してくれるじゃないっすか。心の広さは海より深いって、部隊でも評判ですよ?」

「……調子のいいことを。」


大佐は呆れたように窓の外へ視線を投げたが、その横顔はどこか柔らかかった。

二人の軽妙なやり取りを聞いているうちに、僕の胸を締め付けていた重苦しい塊が、少しずつ解けていくのを感じた。


「ふふ、あははは……っ」


自然と、声を出して笑っていた。こんなふうに笑えたのはいつぶりだろうか。

家族と別れ、ソフィーと別れ、これからどんな仕事が待ち受けているかも分からない不安。

けれど、この二人となら。この奇妙な関係の中なら、僕はまだ、これまで通り息をしていけるかもしれないと思えた。


「執行官殿! 今度飲み奢ってくださいよ!」

「……後輩は先輩に奢られるものだと、僕は思ってるんですけど。」

「なにを〜?俺の何倍もの給料をもらうくせに、器の小せえ男だな!」


中尉の軽口に、僕はわざとらしく懐中時計をパカパカと開け閉めする。

「直属の上官に、ホームズ中尉の減給を打診します。」

「待って! ほんとに! これ以上カミさんに小遣い減らされると、煙草も吸えなくなっちまう!」


必死にハンドルを握り直す中尉の姿に、助手席から冷ややかな声が飛ぶ。

「あなた達……まだ勤務時間中ですよ。」


大佐の呆れ顔すら、今は心地よかった。

打ち解け、愉快な会話を交わしながら。僕の新居に向かって、車は午後の街を走り続けた。

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