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38 優しいウソ、残酷なホント

家の近くまでたどり着き、僕は全身を包んでいた不可視化を解いた。 電気による身体強化を解除すると、肺から熱い空気が一気に吐き出され、膝にずしりと重みが戻る。


「……さて。」


大佐から軍用車両を出すかと提案されたが、断って正解だった。今の僕の足なら、どんな車両よりも早く、誰にも気づかれずに移動できる。


「いたっ…ん?」

少し、頭痛がした。

でも気にならない程度だ。今はそんな頭痛より、重要なことがある。


暗い夜道、僕は帰り際に大佐から言い含められた「設定」を、頭の中で必死に反芻した。

これから僕が死ぬまで演じ続けなければならない、イネス・ウエステイルの役を。


――今日、僕はジョンに会いに学校へ行った。その道中、故障して立ち往生していた軍の公用車を見かけた。


――中には年老いたお偉いさんが乗っていて、困っていた。大学で学んだ電気回路の知識を使って、僕が応急処置で車を動かせるようにした。


――その人は僕の手際の良さに感心し、魔力を尋ねてきた。僕が「8しかありません」と答えると、その人は鼻で笑って、「古臭い魔力測定の数字ほどアテにならんものはない。もう一度、軍の最新鋭機で測り直してみろ」と言ってきた。


――その結果、僕の魔力は『高い純度』であることが判明した。数値こそ低いけれど、魔力の純度が異常に高く、特定の次世代技術の発展には僕の魔力がどうしても必要ということだった。


――家族が大変なことを伝え、稼ぎの良い仕事に就かないといけないと伝えたところ、『国家による一生涯の独占契約』として、15億レンを支払ってくれることになった。


…高い純度の魔力なんて、聞いたことないけどね…。


大佐の言葉を思い出す。

『15億レンという額は、本来は一人の人間に支払う額ではありません。ですが、これを「国家による一生涯の独占契約金」として処理します。あなたは今日から軍の所有物であり、機密の塊です。この大金は、あなたの自由を一生奪うことへの前払いだと、説明が必要な際はそう言ってください。』


……という設定だ。深く聞かれた際は、「機密事項だ」で通す。

みんなが納得してくれるかは分からないが、正直、僕ではこれ以上の設定を考えるのは無理だ。


明日、軍の広報官が直接病院へ行き、家族にこれと同じ説明をしてくれることになっている。そしてそのままハマムの医療機関への搬送も始まる。

僕はその場には行かないようにと釘を刺された。ボロが出るのを防ぐため、そして「早速、機密性の高い仕事が始まった」と家族に思い込ませるためだ。


昼間にソフィーを抱えて高速で走れたことも、これで説明する。「純度が高い魔力だから、効率的に身体強化が使えるんだ」と。


「……ごめんね、みんな。でも、これで助かるから。」

家族は……母さんたちは、僕が軍に『買われたこと』を悲しむだろうか。

それとも、治療費が出たことに安堵してくれるだろうか。

…分からない。でも、やるしかない。


「…よし。」

僕は震える指先を一度ぎゅっと握り、深呼吸をした。

「ただいまー。」


日常を装った僕の声が、静かな家の中に響いた。

玄関のドアを開けると、家の奥からバタバタと駆け寄ってくる足音が聞こえた。


「遅かったじゃないですかぁ!大丈夫でしたか?すっごく心配したんですよ!」


リビングから飛び出してきたソフィーは、今にも泣き出しそうな、それでいて激しい怒りを含んだ面持ちで僕を凝視した。 その瞳に宿る純粋な心配が、僕の心臓をずきっと突き刺す。


「心配させてごめんね。…ご飯はちゃんと食べた?」

「そんなことはどうでもいいんです!」


僕が何食わぬ顔で日常に戻ろうとしたのが、彼女には火に油を注ぐ結果になったらしい。


「今日、どこに行って何をやってきたのか、全部教えてください!」


……きた。 僕は喉元までせり上がる罪悪感を飲み込み、大佐に叩き込まれた『設定』を頭の中で再生した。


「うん!もちろん!すごいことがあったんだよ!」


僕は努めて明るい、興奮した青年のふりをして、偽りの物語を話し始めた。偶然助けた軍のお偉いさんのこと。僕の魔力が希少であること。そして、家族全員を救えるだけの契約金が出ること。


話し終えても、ソフィーは喜びも驚きもしなかった。ただ、冷たい沈黙だけがリビングに満ちていく。


「……本当、ですか?」

「ほんとだよ! 信じられないかもしれないけど、これで僕の家族は、みんな助かるんだ! 明日にはハマムへ搬送してもらえるんだよ!」


畳みかけるように言った僕を、ソフィーは黙って見つめていた。その瞳は、僕の言葉の裏側にある何かを必死に探っているようだった。


「……イネスさん」

ソフィーが、ぽつりと呟いた。

「今日、出発する前に、私の言うことなんでも聞くって言いましたよね?」

「…うん、そうだね。約束した」


「じゃあ、それを使います。…本当のこと、言ってください」


心臓が跳ねた。

「…本当だって!そんなことより、せっかくのお願いなんだから、他に何かないの?美味しいものが食べたいとか、さ……」


言葉を重ねれば重ねるほど、墓穴を掘っているような感覚に陥る。ソフィーは唇を噛み、僕の胸元をぎゅっと掴んで、顔を伏せた。


「ずるいです、イネスさん。そんな、嘘つくのが下手なくせに…。」

「ソフィー…?」


「わかってるんです。イネスさんが嘘をつくときは、いつも以上に楽しそうに喋るから。…15億なんて、おかしいですよ。いくら特殊な体質だからって、軍がそんな大金を払うなんて…。本当は、もっと…もっと怖いことに関わってるんじゃないですか?」


彼女は顔を上げ、涙をいっぱいに溜めた瞳で僕を射抜いた。


「『家族が助かる』って、嬉しい言葉で誤魔化さないでください。私が知りたいのは、その代償にイネスさんが何を差し出したかです。…昼間の走り方だって、おかしいですよ。あんなの、普通の身体強化じゃありません。」

「それは…さっき言った通り、魔力の純度が高いから効率が……」

「じゃあ!これからずっと、そのお偉いさんの言うことを聞くんですか? 明日、病院にも行かないで、お仕事に行くんですか?…大学はどうするんですか?本当に…辞めちゃうんですか…?」


ソフィーの言葉が、一つ一つナイフのように刺さる。

彼女が不安なのは、僕が嘘をついているからではない。このありえない幸運のせいで、自分の手の届かない場所へ僕が消えてしまう。

それを、彼女は本能的に察しているのだろう。


「…契約に、『家族以外には会っちゃいけない』なんて項目、入ってないですよね?これからも、イネスさんに会いたいって思ったら、ちゃんと会えますよね……?」


ソフィーの問いに、喉の奥が引きつった。

小さな子供のような、震える問い。僕は、彼女を安心させる言葉を必死に探した。


『一生従軍』

『自由はなくなる』

『家族にも危害』


だが、総督の言葉が脳裏に浮かぶ。それらが重くのしかかり、すぐには声が出なかった。


「…もちろん、会えるよ。…会えるはず、だ」

僕の声は、自分でも驚くほど頼りなかった。

「ただ、その…頻度は、少なくなる…と思う。仕事が機密扱いだから、住む場所も軍が用意したとこになるって…。」


「……っ!」

ソフィーが、弾かれたように僕の胸から手を離した。 その瞳から、大粒の涙が溢れ出す。


「嘘つき…!今日、私も幸せにするって言ったじゃないですか! 嘘つきじゃないですか!!」


…ああ、僕は本当に愚かだ。

家族を救う。そのことにしか思考が向いていなかった。そのせいで、ソフィーとの今後のことを全く考慮できていなかった。

こんなにも、大切な女性なのに。


「ソフィー、違うんだ。僕は……」

「違くない!私、イネスさんと一緒にいることが幸せなの!イネスさんがどこか遠いところに行って、いつ会えるかも分からないなんて…そんなじゃ幸せになれない!!」


ソフィーは、子供のように顔をくしゃくしゃにして号泣し始めた。 絞り出される叫びは、リビングの冷たい空気に虚しく響く。


でも…僕のこれからのことを考えると……やはり、彼女と一緒になることは…。


「イネスさんのバカ!私のこと何も分かってない!!私もあなたの家族になりたいの!あなたの家族みたいに、大事にされたいの!想われたいの!!私じゃあ、イネスさんの家族にはなれないんですか……っ!」


泣きじゃくる彼女の肩が激しく上下する。 僕は、一歩も動けなかった。

幸せにすると誓ったその日に、僕は彼女の望む幸せの未来を奪ってしまったんだ。

「ごめん…。ごめん、ソフィー…。」


「私はっ!あなたのために、すべてを捧げるって心に誓ったの…!」

ソフィーの嗚咽は止まらない。言葉が、涙と一緒に溢れ出してくる。


「あなたがまた笑えるようになるまで、私が支え続けるって誓ったの!そうしたら、あなたが元気になった後も、私を必要としてくれるって!ずっと、一緒にいてくれるって思ったから! でも…でもっ!」


そこまで叫んで、彼女は自分の両手で顔を覆った。激しく肩を震わせ、自分を責めるように声を絞り出す。


「…違う。違うの。これは私が勝手に決めたことで、イネスさんには何も関係なくて……ただの私の、自分勝手な懇願で…。やだ…やだぁ……一緒にいたいよぉ……っ!」


崩れ落ちるように床に膝をつき、泣きじゃくるソフィー。 その姿を見て、視界が歪んだ。


「……っ」


喉の奥まで出かかった言葉を、僕は必死で飲み込む。

…僕だって、ソフィーとずっと一緒にいたい。離れたくない。君がいない未来なんて、僕にだって想像できないんだ。


そう言えたら、どれだけ楽だろうか。 彼女を抱きしめて、大丈夫だよ、どこにも行かないよと、幸せな言葉で包んであげられたなら。


けれど、僕の体の中では、僕を絶望から救ったはずの神堕の魔力が、今は呪いのように脈打っている。

今後、僕の生活拠点がこの街になるかも怪しい。もし総督の直属になるのなら、ハマムへ行く可能性が極めて高い。

そうでなくとも、次いつ会えるかも分からない男を、彼女はずっと待ち続けることになる。

そうなってしまったら…彼女の気持ちは、人生はどうなる?


あぁ…僕はもう、僕の意思で物事を決められないのかもしれない。


「…ソフィー」


膝をつき、彼女の細い肩に手を伸ばしかけて、止める。今の僕に、彼女を抱きしめる資格なんてないんだ。


泣きじゃくっていたソフィーが、ふと顔を上げた。その瞳には、絶望と諦めが混じったような、酷く冷めた光が宿っている。

「……私、自分の家に、帰ります」


「っ! ダメだ!夜も遅いし、足だってまだ完治してないだろ!?ここに泊まって。僕が…僕が外に出ていくから!」


僕は反射的に叫んでいた。こんな精神状態で、瓦礫だらけの道を一人で帰らせるわけにはいかない。


だが、ソフィーは力なく首を振る。

「もう…わかんないです。自分の気持ちも、感情も、これまでの想いも。これからどうなるのかも、あなたの私に対する想いも。何もかも、わかんないんです。頭の中ぐちゃぐちゃで…一人になりたいんです。」


「絶対だめだ! ここにいて!ソフィーの家、まだ片付いてもないでしょ!?こんな暗いなか帰っても、掃除も何もできないよ。お願いだ、ここにいて…っ」


僕は必死だった。彼女を失うことが、家族の怪我を突きつけられた時と同じくらい、今の僕には恐ろしかった。


「…その優しさは、イネスさんの素の、みんなに対する優しさですか?」


ソフィーが、掠れた声で問う。


「それとも、私のことが特別だからですか?」

「ソフィーが特別だからに決まってるじゃないか!」


考えるより先に言葉が出ていた。当たり前だ。家族以外で、僕の心の中にこれほど深く入り込んでいる人間なんて、他にいない。


「…じゃあ、私のこと、好きですか?」


心臓が、大きく脈打った。


「女の子として、異性として、好きなんですか?…私を、あなたの家族と同じくらい大切で……でも、家族とは違う一人の女性として、愛してくれているんですか?」


潤んだ瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。


答えは、分かり切っている。

家族が倒れ、世界が崩壊したこの数日間。絶望の淵で僕の心を繋ぎ止めてくれたのは、紛れもなく彼女だった。

家族以外の誰かを、家族と同じくらい失いたくないと切実に願ったのは、人生で初めてだった。


でも、その答えを口にしてしまえば…。


今日の総督の雰囲気。きっと僕に、手を汚すような仕事を任せるのだろう。戦場に駆り出されるのか、暗殺を命じられるのか、具体的なことは分からない。


けれど、恨みを買うような、憎しみをぶつけられるような仕事になるのは、想像に難くない。そんな泥濘のような世界に足を踏み入れようとしている僕が、「愛してる」なんて言って彼女を繋ぎ止めていいはずがない。

いつか僕に向けられるはずの憎しみの刃が、彼女の喉元に届くかもしれない。僕のせいで、愛しい彼女が危険にさらされるなんて、それだけは絶対に許せなかった。


この子は、もっと明るい場所で、幸せになるべき子なんだ。

…僕みたいな、異常な運命を背負った男と、一緒になっちゃいけない。


沈黙が、重く、苦しく、二人の間に横たわる。嘘を重ねることも、はぐらかすことも、もうできない。したくない。

けれど、彼女の剥き出しの心に対して、僕はどう答えればいい?


「……『好き』って、言ってくれないんですね」


ソフィーの声が、乾いた音を立てて沈黙を破った。


「ソフィー! 僕は…っ、僕は……!」

「ははは……。私、勘違いしちゃったみたいです。あなたに今日、『大切な人』なんて言われて、もしかしてって思っちゃいました」


力なく笑う彼女に、僕は叫びたかった。

違う、違うんだ。僕の気持ちは、君が思っているよりもずっと…。

けれど、言葉が喉に張り付いて出てこない。


「…ねえ、イネスさん。私のお願い、決めました。」


ソフィーは涙を拭い、僕を真っ直ぐに見つめた。その潤んだ瞳には、ある種の覚悟が宿っていた。


「今日だけ、今夜だけ、あなたの恋人にしてください。そして、愛してください。これまでより、いっぱい愛を込めて、抱いてください。そうしてくれたら…私、少しだけ頑張れると思います。だから、お願いします。」


嫌だ。そんな、最後のお別れみたいな悲しいことを言わないでくれ。ソフィーが好きだ。これからも、ずっと、ずっと愛し続けたい。


感情が濁流のように頭の中を駆け巡る。けれど、答えはもう、残酷なほどにはっきりしていた。

僕と一緒になってしまったら、いつ帰ってくるか分からない、どんな仕事をしているのかも分からない男を待ち続ける人生になってしまう。

そんな残酷なことを強要するより、もっと明るい場所で、普通の人を捕まえて幸せになったほうがいいに決まっている。


…けれど、せめて今夜だけは…


「ソフィー…おいで」


僕は震える手で、彼女をそっと腕の中に招き入れた。


「今は、今夜だけは、君の恋人だから…。恋人が言うようなこと、言うね。」


彼女の髪に顔を埋め、僕は魂を削り出すように言葉を紡いだ。

今夜限りという彼女の言葉を利用し、本心をぶつける。


「好きだよ。大好きだ。愛してる。ソフィーと結婚したい。離れたくない。ずっと一緒にいたい。……こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだよ。」


「イネスさん……イネスさぁん……っ!」

しがみつく彼女の熱い涙が、僕の胸を濡らす。


…あぁ、僕はなんて自分勝手なんだ…。こんなことを言うのはあまりに身勝手で、残酷なことなのだろう。ここで彼女を突き放した方が、彼女のためになるし、よっぽど優しいはずだ。

なのに……。


「大好きだよ。これが、僕の本心。こんな状況で言っても、信じてもらえないかもしれない。…でも、本当なんだ。大好きだよ。」


「私もっ……うぅ…ううぅ……」


泣きじゃくる彼女を抱きしめる。優しく、けれど壊れてしまうのを恐れるほどに強く。


僕はただ、彼女の涙を手でぬぐい取ることしかできなかった。

48億もの魔力があっても、目の前で泣きじゃくる一人の少女を救う術を、僕は持っていなかった。

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