37 底知れぬ闇
≪トリーシャ視点≫
ウエステイルを敷地外まで送り届け、執務室に戻ってきた。
総督は窓辺に立ったまま、夜の静寂に沈む街の灯りを見下ろしていた。
書類机には手を付けた形跡がない。ただ、部屋を出る時にはなかった琥珀色の液体が注がれたグラスが、月光を反射して怪しく輝いている。
「閣下」
声をかけると、総督はゆっくりと振り返った。
その表情は、先ほど青年と接していた時の柔和な老紳士のそれではなく、効率と勝利のみを演算する統治者の顔だった。
「なんだね、トリーシャ君。」
「……彼のことを、どうご覧になりますか?」
早くにしたかったこの問いかけは、ずいぶん遅くなってしまった。
だが、今、この男の温度が冷めないうちに聞かなければ、真実には触れられない気がした。
「最高だよ」
総督は、少しだけ考える素振りを見せてから、至極あっさりと言った。
「光を曲げる。それは視覚を騙すだけではない。情報の伝達そのものを支配するということだ。あれほどの魔力があれば、何だってできる。しかも…我々以外誰も知らない。これが何より素晴らしい。」
総督は窓の外に視線を戻す。
「公表するかどうかも、使い方も、すべてこちらの匙加減だ。都合の良い時に“英雄”として表に出し、国民の士揚に使ってもいい。あるいは一生、名もなき影としてこの国を発展させてもらうのもいい。」
そして、喉の奥で低く笑った。
「そして何より……実に扱いやすい。彼は『誠実』という名の首輪を自ら持参して現れた。」
胸の奥が、わずかに冷えた。
「彼は人を疑うことを知らない。きっと、素敵な人間たちに囲まれて育ったんだろう。」
その声音は、慈しむようですらあった。
だが、続く言葉は氷のように鋭い。
「だからこそ、その人たちを『守る対象』に固定すれば、彼は絶対に裏切らない。私の言うことを聞き続けてくれる。……愛や恩義ほど、安上がりで強固な監獄はないからね。」
私は息を整え、別の話題を振る。
「……15億レン。正直、彼を買うには安すぎますね。」
総督は肩をすくめた。
「まったくだ。15億で国家の存亡を左右する兵器が手に入るなら、タダ同然だよ。彼は自分を過小評価しすぎている。自身の価値を分かっていない。まあ、それが若さだ。」
グラスに手を伸ばし、酒を一口含む。
「だが、侮らない方がいい。話して分かったが、彼は単なるお人好しではない。金を得る手段はいくつも思いついたはずだ。一番早く、確実なのが『ここ』だと結論づけたのだろう。……あの土壇場で、私に対して他国への亡命を仄めかす胆力。あれは素晴らしいね。一種の才能だよ。」
ふと、総督の視線がこちらを射抜いた。
「先ほどは、いい演技だったよ、トリーシャ君。」
「演技、ですか?」
「ああ。『そんな金額、払えるわけがない』と、身体全部で語ってくれた。あの時、君が彼に分かるように動揺してくれたおかげで、15億という金額に『重み』が出た。彼も、自分が法外な要求を通したのだと錯覚してくれたはずだ。」
一瞬、言葉に詰まる。この男に嘘は通じないのだと、はっきりと突きつけられた気分だ。
「……他国の軍、という言葉が出た時は、正直焦りました。」
「ははは。そうだろうな。私もだ。心臓が跳ねたよ。」
そう言って笑う総督の表情から、温度が消える。
「最初の問答で分かったことがある。彼は、人を信じようとしすぎている。おそらく、本当の底知れぬ悪意に出会ったことがない。」
自嘲気味に、総督は口角を上げた。
「私のような人間にね。」
彼は続ける。
「…トリーシャ君。彼をどこにも行けなくするには、彼の大切な人間をこの国の一部にしてしまうのが一番だ。」
「……ご家族、ですか。」
「そうだ。高度な医療、安全な住居、そして恩義。すべてをこの国が、私が与える。彼が他国へ行こうとすれば、それらすべてを失うことになる……という形にする。」
一拍置いて、さらりと言った。
「さっきの話だがね。私は割と真面目に、君には彼と結婚して家庭を築いてほしいと思っているよ。」
「……っ、閣下!」
「無理にとは言わん。だが理解してくれ。」
総督は再び窓の外を見たまま、独り言のように続ける。
「家庭を作れば、彼はこの軍からより離れられなくなる。その相手が軍の人間だとすれば尚更だ。守るべきものが増えれば増えるほど、翼は重くなり、地面に縫い付けられる。」
彼がこちらを向く。
「ところでトリーシャ君。」
「...はい」
「私が、総督が、どんな仕事をしているか分かるかい?」
「軍事と行政、その両方の統括です。」
「その通り。だが、本質は少し違う。」
総督は、ゆっくりと語り始めた。
「軍事と行政。この二つの車輪を回して、民が『明日』を信じられるようにすること。そのためなら、私は喜んで自分の魂を汚そう。……私はね、あの島国、リティッシュ・ランバが羨ましくてならない。あの国がどうやってあれほどの発展を成し得たのか…」
声がわずかに熱を帯びる。
「あの青年がいれば、国境も、金庫の鍵も、他人の思考すらも意味をなさない。光を操るということは、この世界の『暗部を可視化できる』ということだ。」
「……彼に、諜報を?」
「そのつもりだよ。だが、それだけではない。今は急務がある。まずは、そちらで存分に働いてもらう。『神堕者』が、この停滞した国をどう変えるか、楽しみで仕方がない。」
そして、不意にこちらを見た。その目は、獲物を仕留めた猛禽のようでもあり、孫の成長を願う祖父のようでもあった。
「ああ、そうだ。トリーシャ君」
「はい」
「彼が壊れそうになったら、頼むよ。優しく、寄り添ってやってくれ。」
一瞬、冗談かと思った。だが、彼の目は笑っていない。
そして、聖者のような穏やかな笑みを浮かべる。
「彼の好きなタイプは『自分が辛い時に、寄り添ってくれる女性』らしいからね。」
ゾッと、した。
この男は、先の意味がないと思えた問答、趣味や女性のタイプに至るまで、すべてを『彼を縛り付けるためのパーツ』として保存し、組み替えようとしている。
…もしかしたら、彼が壊れるタイミングすらもコントロールするのではないか?
慈父のような慈愛と、悪魔のような冷酷さ。
この男は、一体どれだけ先のことを見ながら、あの青年に微笑みかけていたのだろう。
私には、その底が、あまりに深くて見えなかった。




