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31 心に明かりを灯す存在

太陽の眩しさで、深い眠りから覚めた。


身体が重い。鉛みたいに動かない。

でも、不思議と疲労感はなかった。ただ、深いところまで沈められて、そこから引き上げられたような、不思議な感覚だけが残っている。


どれくらい、寝てたんだろう?

カーテンの隙間から差し込む光は、夕方のそれじゃない。

明け方…?もう朝なのかな。


「…朝?」


声を出してみると、喉がひりついた。

昨日から、長いこと水を飲んでいないことに気づいた。


…昨日?


思い出そうとした瞬間、頭の奥がギリッと痛んだ。


僕は何をしてたんだっけ。

えーと、ここは…エマちゃんの家で…リビングで…ベッドの上で……。


視線を動かす。

乱れたシーツ。

脱ぎ捨てられた服。

自分の腕に絡みつく、柔らかい重さ。


…あ。


隣で眠っているソフィーの横顔を見た瞬間、記憶じゃなく、昨日の感覚だけが蘇ってきた。


ソフィーの体温。

髪の匂い。

唇。

絡められた指。

息ができなくなるほど近かった距離。


「あ、そうだ…」

昨日、ソフィーと…。


そこまで思い出したところで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

恥ずかしさからでも、後悔からでもない。

その原因は、彼女の放った言葉からだ。


『あなたの頭の中、五感、全部を私で埋めてください』

『あなたの思考を全部、私が塞ぎます』


そうだ。

その言葉にすがりついて、彼女に身をゆだねたんだ。

何も考えなくていい場所を、彼女が用意してくれたから。


一瞬だけ、呼吸が楽になる。

胸に乗っていた重たいものが、少しだけ軽くなる。


…あれ?


「なんで…?」

なんで、そんなことになったんだっけ?どうして、そんな場所を用意してくれたんだっけ?


思考が、勝手に先へ進む。

止めようとしても、もう止まらなかった。むしろどんどん加速していく。


病院。

父さん。

兄貴。

マリアさん。

エマちゃん。

母さん。


ソフィーに塞いでもらった記憶が、次々に浮かび上がる。


顔が包帯でぐるぐる巻きの父。

管につながれた兄夫婦の身体。

糸が切れた人形のように動かなくなった姪。

泣き腫らし、どこを見てるのか分からない母の目。


「はっ、はっ、はっ…」


息が詰まる。

頭の血が全部なくなる感覚。冷や汗が噴き出て、胸の奥が急激に冷たくなる。

自分の体なのに、コントロールが効かなくなっていく。


「いや…だ……」


身体が震え始めた。

指先も、肩も、背中も。全身が震える。

抑えようとしても、どうにもならない。


「やだ……」

声が、勝手に出る。

「やだ……いやだ……」


怖い。

考えたくない。

戻りたくない。


現実に、戻りたくない。


「怖い…」


心臓が早鐘を打つ。

息が浅くなる。


「怖いよぉ……」


助けて。

無理だ。


「誰か…誰かぁ…」


一人じゃ、無理だ。

視界が滲む中で、必死に首を動かす。


…ソフィー。


まだ、僕のそばに居てくれてた。

眠ったままの彼女の肩に、縋るように顔を埋める。

考える前に、身体が動いていた。


「うっ…ひぐっ…ううぅ……」


彼女に抱きつく。

子どもみたいに、必死に。


「ソフィー……助けて…助けてぇ……」


声は、ほとんど音になっていなかった。

だけど僕の動きに反応し、ソフィーが小さく身じろぎする。


「ん…?……あ。」


眠そうな声。たった今、眠りから覚醒してくれたみたいだ。

そして直後、彼女の腕が僕の背中に回ってきた。


「おはよ、イネスさん」


僕が震えているのを、すぐに察したのだろう。

彼女は僕に何も聞かず、ただ引き寄せてくれた。


「大丈夫だよ」


低い声だった。

寝起きで、少しかすれているみたいだ。


ソフィーの手が、僕の後頭部に触れる。

その指が、ゆっくりと髪を撫でてくれる。


「大丈夫、私はここにいますよ。」


一定のリズムで、子供を落ち着かせるように、髪を撫で続ける。


「どこにも行きませんから。イネスさんのそばに居ますから。」


額に、軽く唇が触れる。


「何も考えなくていいですよ。」


震える身体を、包み込むように。


「朝になっただけです。どれだけ時間が経っても、私は離れませんよ。」


浅かった僕の呼吸が、少しずつソフィーの落ち着いたそれに近づいていく。


まだ僕は、普通にしていられない。

何も考えられない。

昨日から何も解決していない。

怖さは、まだ消えていない。


それでも、彼女がそばにいてくれてる。

離れないと、言ってくれてる。

その事実だけが、今の僕をぎりぎりこの世界につなぎ止めていた。




何時間経ったんだろう。

僕は震えながら、ずっとソフィーを抱きしめ続けていた。

彼女は一度も嫌がらず、逃げず、腕を離さず、そこに居続けてくれた。


少しずつ、震えが弱くなっていくのを感じながら、ソフィーを抱きしめたまま、喉の奥からなんとか言葉を絞り出した。

「ごめんね…」

声は小さく、かすれてる。

「本当に…ごめんなさい…」


何に対しての謝罪なのか、自分でもよく分からなかった。

泣きわめいたこと?

眠らせてもらったこと?

縋りついたこと?

彼女の時間も、体力も、全部奪ったこと?

いや、間違いなく、全部に対してだ…。


ソフィーは、僕の背中をゆっくり撫でながら、穏やかな声で話してくれる。

「好きなだけ、こうしてていいんですよ。」


否定も、諭しもない言葉だった。

ただ今の、この状態の僕を肯定してくれる、僕が一番落ち着ける一言だった。




時間の感覚は曖昧だったが、窓の外の光が少し高くなった頃、僕の腹の奥から、ぐぅ~っと間抜けな音が鳴った。

「あっ」


自分でも驚くほど、現実的な音だった。

そういえば、昨日の昼から何も食べていないや。

あれ?水もそこから飲んでない気がする。


どれだけ心が壊れていても、どれだけ現実から目を背けていても、身体は勝手に生きようとするらしい。

人間って、案外しぶといんだな。


僕の腹の音に気づいたのか、ソフィーが少しだけ声の調子を変えて言う。

「お腹、空きましたねっ」


その言葉に、胸がちくりと痛んだ。

「ソフィーも……昨日のお昼から、何も食べてないよね?」


きっと、夜の炊き出しにも行っていない。

ずっと、僕のそばにいたはずだから。


「僕のせいで……ごめんなさい……」


先ほどとは違く、何に謝っているか二人とも理解できる謝罪をした。


「全然いいんですよ!」

ソフィーは、いつものようなハツラツとした笑みを浮かべながら言ってくれた。

「あなたが一番大事ですもん。しかもこれでダイエットできたら、一石二鳥ですっ!」


冗談めかした言い方。

でも、無理に明るく振る舞っている感じはなかった。


…この子のためなら。

この子のためなら、この子がいれば、動けるかもしれない。頑張れるかもしれない。いや、頑張れる。頑張ってみせる。


そんな気持ちが、胸の奥に灯ったのを感じた。

僕は、ゆっくりと彼女から身体を離した。


彼女の目を見る。

「…この二日間……本当に、ありがとうね。ソフィーがいなかったら、僕どうなってたか分からないや。」


作り物じゃない、心からの言葉だった。

ソフィーは、少し照れたように微笑んで、


「どういたしまして!」

とだけ返してくれた。




ベッドから起き上がり、椅子に座り直す。

ソフィーも、当たり前のようについて来て、隣の椅子に座った。


彼女は何も提案してこない。ご飯を食べに行こうとも、今日はどうするのかとも聞いてこない。

全部、僕のペースに合わせてくれてるんだろうな。


タオルが巻かれたままの手で、彼女の手を握る。

「今日の予定を、お話しするね。」


言葉を選びながら話していく。

「まず、一緒にお昼の炊き出しに行こう。それから…僕はもう一度、病院に行く。」


記憶は曖昧だけど、確かに覚えている。

「昨日、病院を出るとき…母さんに、明日も来るって言った気がするんだ。」


母さんも、きっと僕と同じように、絶望しているはずだ。

でも、僕にはソフィーがいた。

母さんには、いない。

「母さんが、家族が、心配なんだ。」

言い終わると、病院で待ち受けている風景と、母さんのことを考えてしまい、胸が苦しくなる。


ソフィーは、一瞬も迷わず、それに返答した。

「分かりました!私も行きます。」

即答だった。


「足、怪我してるんだから…無理はしないで。僕は大丈夫だから。」

そんな、誰でもわかる嘘をついてしまう。

でも本当に、彼女には無理してほしくない。

昨日おとといで、僕のせいで、とんでもなく無理をさせてしまっているから。少しは僕のいない場所で、気を休めてほしい。


「私は、イネスさんと一緒にいます。」

これも、即答だった。彼女はこのことを譲る気はないみたいだ。


彼女の手を握る力を、少し強める。

「ありがとう…。ソフィーがいてくれたら、本当に心強いよ。」

「はいっ!任せてください!」


何度目になるか分からない感謝を伝えた。




両手のタオルを外し、二人で外に出る。

彼女はまだ松葉杖を使っていたけれど、前よりも体重をかけられるようになっていて、歩く速度も少し速くなっていた。


学校に到着した。

炊き出しの列に並ぶ前に、給仕係を見渡す。

ジョンがいる列を見つけ、そこに並んだ。


「イネスじゃねえか!おら、そんなひょろひょろじゃなんもできねえだろ!たんと食え!」

ジョンが、いつもの笑顔で声をかけてくる。

パッと見で分かるくらい、他と比べて大盛に米とカレーが盛られていく。


「ありがとう、ジョン。僕、頑張るよ。…本当にありがとう。」

ガハハと笑うジョンに、笑い返す。

自分でも驚くくらい、ちゃんと笑えていた。


ソフィーと並んで、黙々とカレーを食べる。

温かくて、腹に落ちていく感覚が心地いいと感じれる。

やっぱり、結構、前を向けてるんだろうな、僕。


でも…

食べ終わり、病院の方向へ歩き出そうとしても、足が動かなかった。


怖い。

身体が、拒否している。


ソフィーが僕の異変にすぐに気づき、切り傷のある僕の手を痛まないように優しく握る。

「イネスさん。私が付いてますよ。」

いつもの、落ち着いた声と笑顔だ。


「大丈夫ですよ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、すっと静かになる。

足の震えも、少しずつ収まっていく。


すごいな。この子の声は魔法みたいだ。

どんなに僕の心が真っ暗でも、彼女の存在が明かりとなって、その心を照らしてくれる。

「ありがとう。いこっか。」


そして、ソフィーと一緒に病院へ向かって歩き出した。

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