30 二人で歩む決意
《ソフィー視点》
「はぁ…はぁ…。」
荒い息のまま、彼の上に跨ったまま、眠りに落ちた彼の顔を見下ろしていた。
涙でぐしゃぐしゃになったまま、ようやく静かに呼吸をし始めた、その顔を。
「…イネスさん?」
呼びかけても、返事はない。
それを確認して、胸の奥に溜めていた息を、ようやく吐き出す。
「よかった……寝れたんだね……。…逃げれたん…だね…。」
彼の顔はひどく疲れ切っていた。
けれど、間違いなく心のほうは、それ以上に壊れてしまっている。
ゆっくりと身体を倒し、彼の胸の上に額を預けた。
規則的に上下する胸板に、ぴたりと耳を当てる。
「どうすれば…よかったんだろう……。」
答えなんて、出るはずもない。
今の彼が置かれている状況は、二十歳そこそこの自分にどうこうできるものじゃない。
失明。
半身不随。
全身不随。
莫大すぎる治療費。
どれも、人生経験の浅い私の頭では、受け止めきれない現実だった。
彼はさっきまで、掃除をしていた。
それしか、この現実から逃げる方法を見つけられなかったのだ。
でも掃除には、終わりがある。
部屋が片付けば、また現実が襲ってくる。
だから、考えた。
彼が自分の胸に顔を埋めて泣いている間、必死に考えた。
他に、逃げられる場所はないか。
彼が壊れずに自分を保てる、別の方法はないか。
そして、辿り着いた答えが、『これ』だった。
もし、私の身体が逃げ場所になれるなら。
彼は、私を使うことによって、現実から目を逸らせるんじゃないか。
私が彼の前からいなくならなければ、私でずっと現実逃避をできるんじゃないか。
そんな考えに行き着いてしまった。
そんな考えしか思いつかなかった、自分が嫌になったけど。
「どうして…彼がこんな…こんな……」
胸の奥から、絞り出すように声が漏れる。
この世界は、どうなっているんだろう。
彼が何をしたというのか。
あんなに優しくて、いつも他人を先に考えて、自分のことは後回しにする、こんな人が。
どうして、こんな目に遭わなきゃいけないのか。
でも…
「…私……ひどい人間だ……」
こんなきれいごとをいくら並べても、分かっている。
もし「あなたの家族とイネスさんの家族を入れ替えましょう」と言われたら。
私は、絶対に首を縦には振れない。
「うっ……ううぅ……」
考えただけで、身体が震える。
恐怖と罪悪感と、どうしようもない自己嫌悪が、涙になって溢れた。
そして彼は、この現実の当事者なのだ。
今私がした、想像でも仮定でもない。
その状況が現実として、彼の身に降り注いでいる。
「ごめんなさい…。」
眠る彼の髪に、そっと指を通す。
「でも…あなたのためなら……私……何でもするから……。」
本当は、分かっている。
今していることが、根本的な解決にならないことくらい。
でも、それでもいい。
その場限りでも、一瞬でも、彼が現実を忘れられるなら、私は何だって差し出す。
彼の笑顔が恋しい。
あの、何でもない日常の中で見せてくれた、穏やかな表情。
優しい指先。
優しい唇。
「また…前みたいに触ってほしいな……。」
涙を目じりに溜めたまま、ぽつりと、独り言がこぼれる。
「でも、もう……決めたから。」
彼に、全部捧げる。
彼が私を必要としなくなる、その日まで…
私は、彼の現実逃避の道具になる。
「安心して。私は絶対、どこにも行かないから。」
あなたが、私の前から消えない限り。
「だから、私を使って、現実を忘れてね。」
正しいかどうかなんて、分からない。
間違っているかもしれない。
いや、おそらく間違っているのだろう。
それでも、あなたの心が壊れてしまうくらいなら、私の体が壊れるほうが、ずっといい。
「もっと…普通の恋が……したかったなぁ……。」
ふっと、苦笑が混じる。
怖いことや辛いことなんて何も考えず、好きな人と一緒に寝て、起きて、出かけて、食事して、肌を重ねる。
そんな普通の、幸せな恋だったら、どれほど楽だっただろうか。
でも、もう遅い。
彼以外に、そういうことをしたいと思える人はいない。そしてこの先も出てこないだろう。
それくらい、彼のことを好きになってしまった。
素のままの彼の全部が好きになった。そしてその彼が、壊れそうな現実に放り込まれてしまっただけだ。
「どうしたら…あなたは、また笑ってくれるのかな……。」
時間だけでは、きっと足りない。
もし解決できるとしても、どれだけ先になるか分からない。
でも、それが永遠だとしても。
私は、彼のそばにいる。
「あ…。」
ふと、頭をよぎる。
永遠に尽くすって、それはもう…。
「結婚…みたいですね……。」
子どもが生まれたら。
家族が増えたら。
彼は、少しでも幸せになれるだろうか。
……違う。
それじゃだめだ。
そうなっても、これまでの彼の家族は、戻らない。
「だめだ…やっぱり、分かんないや……」
どれだけ考えても、正解は出てこない。
きっと、彼も同じだったのだ。
だから、壊れたんだ。
「でも、時間はある。」
そうだ。
私たちはまだ20そこそこ。
先のことなんて、何も分からないけど。
二人で生きていけば、二人でこの先歩んでいけば。
一緒に歩いているうちに、どこかに落ちているかもしれない…
彼が、また笑えるきっかけが。
「イネスさん…」
眠る彼の額に、そっと唇を落とす。
「一緒に、探しましょうね。」
今は、正解がなくてもいい。
とりあえず今は…私を使って現実から逃げてください。
そしていつか、逃げじゃなく、ちゃんと愛してください。私は、それで十分です。
「その時を、待ってますから。」
そう決めて、二人にかかるよう布団をかけ、彼の隣に身体を滑り込ませた。
彼の腕を、自分の胸に引き寄せる。
「何があっても…私からは離れませんから…。安心してください。」
その言葉を、眠る彼の耳元で、そっと誓うように呟いた。




