29 共に、絶望の底へ
「僕にできること…僕にできること……あっ」
気付いたら、家の前にいた。
玄関の前に、今朝はなかった大きなゴミ袋が二つ置かれている。
「…なんでゴミ袋?」
理由は分からないまま、「ただいま」とドアを開ける。
「おかえりなさーい!」
ソフィーの明るい声が返ってくる。
ああ、そうか。彼女、この家にいたんだった。
ペットボトルとウエットティッシュを机の上に置く。
リビングは、見違えるほど綺麗になっていた。
「おかえりなさい。どう…で……」
ソフィーの言葉が、途中で途切れる。
何で途切れたんだろう?まあ理由はどうでもいいや。
「僕も掃除するね」と言い、兄夫婦の寝室に入った。
中はひどい有様だった。
倒れた箪笥、散乱した衣類、床に転がる小物。割れた陶器とガラス。
「よーし、掃除するぞー。」
とりあえず、手を動かそう。
考えるのはやめて、今僕にできることをしないと。
箪笥を起こし、コートを掛け直し、下着やシャツを箪笥に戻し、散らばった小物を拾い集める。
頭を空っぽにして、ただひたすら今の僕にできることを続ける。
…僕にできること。
…僕にできること。
いつの間にか、手首を強く掴まれた。
「イネスさん!!やめてって言ってるでしょ!!」
叫び声に、はっとする。
見下ろした自分の手は、血で真っ赤だった。
「……あれ?」
血?なんで?誰の血だろう。僕の血ではないよね?だってこんなにも痛くない。
「周り、見てください!!ガラスまみれですよ!!」
床を見る。
割れたガラスや陶器の破片。その中を、僕は這いずり回っていたらしい。
「ああ……そういうことか。」
なるほど、そういうことだったのか。そりゃ手も切れるね。納得納得。
「ごめんね、ソフィー。大丈夫だから。」
そう言って、片づけを再開しようとする。
「ッ!!大丈夫じゃない!!!」
ソフィーが、僕の手首を掴んだまま立ち上がる。
こんなふうに怒る彼女を見るのは、初めてだった。
包帯を巻いた足のまま、松葉杖も使わず、ずんずんと歩き、僕をリビングへ引っ張っていき、ベッドに座らせる。
「待ってて!!」
強い口調で命令された。
「でも僕、できることしないと。」
「私の言うことを、聞いて!!」
有無を言わせない声だった。なんで怒ってるのかな。
訳も分からないまま、ベッドに座り、床を見つめる。
そして両手から、ぽたぽたと血が落ちてることに気づく。
「……あれ?なんで怪我してるんだろう…。」
まあ、いいや。
ボーっとしていたら、大量のタオルと消毒液を抱えたソフィーが、慌てた様子で戻ってきた。
なんでそんな慌ててるの?
僕の前に跪き、血が溜まっている床に1枚タオルを敷いて、別のタオルで僕の手を拭く。拭き終わるとそのタオルも床に置き、消毒液を遠慮なくかけ始めた。
「いっ」
そこでようやく、曖昧だが痛みを感じた。
「傷に、ガラスが入ってる感覚はありますか?」
ソフィーの声が、ひどく遠く聞こえた。
すぐ隣にいるはずなのに、壁の向こうから呼ばれているみたいだった。
問われて、もう一度自分の手を見る。
白いはずの肌は赤黒く染まり、指の隙間から血が滴っている。
「ううん…ない、と思う。」
自分の声なのに、他人が喋っているみたいだった。
ソフィーは短く「そうですか」とだけ言い、それ以上は何も聞かなかった。
彼女は新しいタオルを取り、僕の両手を手際よく包む。
ぐるぐると巻き、そして一気に両手に力を込めて圧迫した。
「っ…。」
思わず声が漏れる。
曖昧だった痛みが、ようやくしっかりした痛みとなり僕に降りかかる。
「もし、ガラスが刺さってる感覚があったら、すぐ言ってください。」
淡々とした声でそう言いながら、彼女は手の力を一切緩めなかった。
僕はソフィーの顔を見ることができず、足元に落ちた血まみれのタオルを見つめ続けていた。
両手を圧迫されるたびに、痛みを感じるたび、現実がじわじわと身体に戻ってくる。
どれくらい経ったのか。
おそらく、10分ほど経過してから、ようやくソフィーの手の力が少し緩んだ。
「…大丈夫そうですね。」
タオルを外すと、さっきまでぼたぼたと落ちていた血は、嘘みたいに収まっていた。
彼女はそれを確認すると、新しい清潔なタオルで、もう一度丁寧に両手を包み、ほどけないようにきゅっと縛る。
その一連の動作を、僕はぼんやりと眺めていた。
感情が、何も湧かない。
「ありがとね。」
自分でも驚くほど、空っぽな声だった。
「じゃあ、掃除し」
掃除してくると言いかけた瞬間、胸をとん、と押される。
力の抜け切った僕は、そのままベッドに仰向けに倒れた。
すぐに、ソフィーもベッドに上がる。
気づけば、彼女の腕が僕の頭を引き寄せ、胸に顔を押し当てる形で、強く抱きしめられていた。
「イネスさん。」
すぐ近くで、声がする。
「病院で、何があったのか…言ってください。」
「…何も、なかったよ。」
やめて。思い出させないで。
「言ってください。」
「何もなかったって。…ほら、掃除、しよ?」
お願い。現実を、見せないで。
僕にはもう、無理なんだ。
「言って。全部吐き出しましょう。約束したじゃないですか。」
「だから…何も……。」
言いかけた、その瞬間。
頭の奥で、何かが音を立てて崩れた。
思い出してしまった。
息が、できない。
喉が引きつり、肺が空気を拒む。
「…っ…ああ…ああああ!」
声にならない音と一緒に、涙が溢れ出す。
病院では、泣けなかった。
あれほどの絶望を突きつけられても、涙は一滴も出なかった。
でも今は違う。
彼女の胸の温かさと、身体を包む感触。
安心してしまったのだと思う。
ただただ、泣いた。
息ができなくなるほど、嗚咽を漏らしながら。
「……父さんが……失明って……」
言葉が、勝手にこぼれ落ちる。
「……兄貴たち……目、覚ますかも分からないって……」
ソフィーは何も言わず、ただ強く抱きしめ続けてくれる。
「……覚ましても……兄貴は下半身不随で……マリアさんは……全身不随で……」
涙で、声がぐちゃぐちゃになる。
「……治療法は……あるって……でも……1人……5億レンって……」
もう、何が何だか分からない。
エマちゃんは、どうする?
母さんは?
僕の家族は、これからどうなる?
「…お願いだから……みんな目……覚ましてよぉ……っ」
なんで、なんで、僕だけこんなに元気なんだ?
「僕も…気を…失いたい……。」
現実を、見なくて済むから。
「…何も…考えたくない……。」
だから、掃除をしていた。
手を動かしていれば、考えなくて済むから。
「…掃除……させてよぉ……お願いだからぁ……。」
不安も、恐怖も、醜い思いも、将来への絶望も。
全部全部、吐き出す。
気づけば、ソフィーの服は、僕の涙と鼻水と、よだれでぐしゃぐしゃになっていた。
それでも、彼女は離れなかった。
「…どう…すれば……いいのか……何も分からないよぉ……。」
全部を口に出し、絶望を再認識してしまった。
何をすればいい?
何から手をつければいい?
父さんは失明。
兄貴は下半身不随。
マリアさんは全身不随。
それが事実。……それで?
それで、僕はどうするんだ?何ができるんだ?
「……これから……どうやって……生きていくんだよぉ……。」
未来のことは考えるなとジョンに言われたが、どうしても考えてしまう。
父さんは、どうやって暮らす?
兄貴は、仕事は?
介護は?
お金は?
というか、みんな目を覚ましてくれるのか?
エマちゃんは、まだ子どもだ。
母さん1人で、全部背負えるわけがない。
もちろん僕は働くけど、1人で全員分のお金を稼ぐの?
「…僕の……家族……どうなるの……?」
治療法はある。
でも、5億レン。
1人、5億。
3人で、15億?
「…そんな……お金……どこにあるのさぁ……!」
努力?
根性?
気合?
そんなものでは何も変わらない。ただただ金が必要なだけだ。
世界は、あまりにも現実的だった。
「……助けたいのに……」
なんとしても。でも、
「何も……できない……」
僕には何もできない。
どこも怪我をしてなくて、ピンピンしてるのに、部屋の掃除なんて何の役にも立たない、どうでも良いことをしてる。それしかできない。
みんな、大変なのに。
「…なんで…なんで僕だけ……どこも怪我してないの?」
代われるなら、代わりたかった。
目でも、足でも、身体でも。
こんな役立たずな僕なんかより、僕じゃない誰かが元気な方が絶対良かった。
「……みんな…は……目を覚ますの……?」
希望なんて、どこにもない。
未来を考えようとすると崖の先に立たされている気分になる。
「……怖い。」
声が震える。
思考がぐるぐる回って、何を話して何を話してないかも分からない。
「……もう全部が……怖いよぉ……。」
考えたくない。
何も考えないでいられるなら、それがいい。
だから、少しでも現実逃避をするために頭を空っぽにして掃除をした。
「…もう…起きたくない……。このままずっと寝てたいよぉ。」
涙は止まらない。
胸が苦しく、息が浅くなる。
それでも、ソフィーの腕は緩まなかった。
「…何も…考えたくないよぉ……!」
そこまで言い放つと、ソフィーは一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと僕の身体を離した。
次の瞬間、逃げ場を与えない力で、泣きわめいたままの僕の唇を塞ぐ。
強く、迷いのないキスだった。逃げる暇も、拒む余裕もないまま、舌が絡み、息が奪われる。
僕の判断力はとうに失われていた。
何が正しいかも、どうするべきかも、もう僕には分からない。
先のことを考えれば考えるほど、胸の奥が崩れていく僕は、ただ何も考えず彼女の行為を受け入れるしかなかった。
「んっ、ふぅ…。ごめんなさい…こんな状況、私も初めてです。」
唇が離れても、ソフィーの顔はキスしてたときと変わらぬ距離で僕の目の前にある。
「正しいことなんて、何一つ分かりません。明日どうなるかも、あなたの家族がどうなるかも、答えなんて持ってないです。ごめんなさい……でも」
ソフィーは僕の頬を両手で包み、無理やり視線を合わせた。
「今は、私がいます。私だけを、見てください。今だけは、何も考えないでください。未来も、家族のことも、あなたが背負おうとしてる全部も、今は見なくていい。」
彼女の親指が、僕の涙を拭う。
「今ここにいる私だけを考えて、感じてください。あなたの頭の中、五感、全部を私で埋めてください」
息を吸うのも忘れるほど、真剣な目だった。
「現実から逃げるのは、悪いことじゃないと思います。壊れるくらいなら、逃げたほうがいい。…私なら、あなたの逃げ場所になれます」
彼女は続ける。
「先のことが怖くなったら、何も考えられなくなったら、私を思い出してください。会いに来てください。呼んでください。どんなときでも、あなたが眠れるように、あなたの不安をなくすために...あなたの思考を全部、私が塞ぎます。」
それは慰めじゃなかった。
救いでもなかった。
それは、覚悟だった。
彼女が、僕という人間のために、生贄になるという覚悟。
「だから今は、私に身をゆだねて。」
言い終わると、また唇が塞がれる。
今度はさらに深く、息ができなくなるほど強く。
思考が、ばらばらに砕けていく。
不安も、恐怖も、焦燥も、現実も、未来も。
一つずつ、強制的に僕の思考から引き剥がされていく。
ソフィーの体温だけが、はっきりと伝わってくる。
声だけが、近くで響いていた。
彼女は、僕が何も考えなくていい場所まで、一緒に落ちてきてくれている。
そう理解した瞬間、若干残っていたであろう抵抗する心が完全に消えた。
あとは流されるまま、委ねるまま。
思考を止め、ただ彼女を見る。
彼女の息遣いを聴き、彼女の存在だけを感じる。
こんな状況だから、絶対最後までできない気と思っていたが、そんなことはなかった。
それほどまでに、僕の頭は空っぽになり、ソフィーで埋め尽くされていたのだと思う。
…そして。
視界が、ゆっくりと暗くなる。
思考も感情も溶けていき、最後に残ったのは、抱きしめられているという感覚だけだった。
彼女のおかげで、僕の頭は真っ白になっていた。
そして、深い、深い眠りに、泥のように沈んでいった。




