28 夜は、夜明け前が一番暗い
病院に着いたとき、建物の中は相変わらず人で溢れていた。だが、昨日のような怒号や罵声は聞こえない。誰もが声を出す力すら残っていないかのようだった。
受付で名前と家族のことを伝えると、看護師は一瞬だけ視線を伏せ、内線で何かを確認する。そのやり取りがやけに長く感じられたあと、「こちらへ」と短く言われ、無言のまま廊下の奥へ案内された。
病室の扉が開いた瞬間、頭が真っ白になった。
三つのベッド。そこに横たわる三人は、誰一人として動いていない。兄夫婦の顔は確認できたが、父さんは顔全体を包帯でぐるぐる巻きにされていて、呼吸しているかどうかさえ分からなかった。
どこかで僕は甘く考えていたんだと思う。
全員が一命を取り留めてて、病院に運べて、お医者さんに優先的に見てもらえたから、なんだかんだ今日はお話しできると、頭のどこかでそんな淡い希望を抱いていたんだ。
そんな現実逃避をしていたんだと思う。
椅子に座る母さんは、まるで何日も眠っていないような顔をしていた。背中は丸まり、目は虚ろで、感情というものが削り取られてしまったみたいだった。
その光景を見た瞬間、今日一度も涙を見せなかったエマちゃんが、その場で立ち尽くしたままボロボロと涙を落とし始めた。声は出ない。ただ、堪えきれなくなった感情だけが溢れていた。
母さんがそれに気づき、慌てて立ち上がってエマちゃんを抱きしめる。
「エマちゃん!無事でよかった…本当に…ほんとうに…」
そんな言葉を、震える声で何度も何度も繰り返していた。
「はっ…はっ…はっ…」
僕は動けなかった。
目の前の光景を現実として受け入れようとしても、頭が拒否する。覚悟していたはずなのに、ただ立ち尽くし、息をすることすら忘れそうになっていた。
母さんはエマちゃんを抱いたまま、僕のほうを見ながら説明してくれた。
容体はとても悪いこと。父さんは命に別状はないらしいが、兄夫婦はまだどうなるか分からないこと。詳しい話は家族全員が揃ってから聞きたいと医師に伝えたため、母さん自身も全ては把握していないという。
言ってる内容は理解できたが、それも全て頭から抜け落ちてしまう感覚。
やだ…いやだ…皆目を覚ましてよ…。
しばらくして、ノックの音がして、白衣を着た主治医らしき人物が病室に入ってきた。
「皆さん、揃われましたか」
母さんが小さく頷く。
次に告げられた言葉は、希望と呼べるものを一つ残らず壊す内容だった。
父さんは命に別状はないが、視力は失われている。兄夫婦は意識が戻るかどうかも分からず、仮に目を覚ましても兄は下半身不随、マリアさんは全身不随になる可能性が高い。
その瞬間、それまで大声で泣いていたエマちゃんが静かになった。泣き疲れたのか、衝撃が大きすぎたのか、母さんの腕の中で崩れ落ちるように意識を失った。
母さんも耐えきれず、声を上げて泣き始めた。
僕だけが、泣けなかった。
ただただ信じられず、天井を見上げ、目を見開いたまま動けなかった。
医師が「では、これで」と言って部屋を出ようとした瞬間、ようやく体が動いた。
「待ってください。」
声が自分でも驚くほど掠れていた。
「治せる方法は…ないんですか?可能性があるなら……どんなことでもいいので、教えてください。お願いします。」
そう言い頭を深く下げる。
医師は立ち止まり、少し迷うようにしてから振り返った。
「治療は、あります。ですが…非現実的です。」
そう前置きしてから、医師は言った。
「ネイジス細胞を、聞いたことはありますか?」
聞いたことは、ある。
NAIGIS細胞。別名、神の細胞。
正式名称 Nicholas Adaptive Individual Genetic Improved System。
天才神堕者ニコラス・スタークが開発した特殊細胞で、これまで治療不可能とされてきた失明や全身不随すら回復させることが可能な、ほとんど奇跡のような医療技術。
「それを使えば…治るんですか?」
縋るように聞くと、医師ははっきりと頷いた。
「三人とも、治ります。」
よかった…良かった!!
胸の奥で、何かが跳ねた。
だが次の言葉が、それを粉々に砕いた。
「ですが、この病院では不可能です。専用設備が必要で、この国では首都ハマムにしかありません。」
医師は続ける。
「そして…費用です。1人あたり、総額で5億レン。」
5億レン。
……5億…レン?
この国の30代の平均年収が450万レン。100年分以上の給料。
…それが1人あたり…?3人分でなく…?
「正直に言います。上流階級でなければ受けられない治療です。治療するにしても、頭金だけで20%、1億レンが必要になります。用意可能でしたら、最優先でハマムまで搬送いたしますが…。」
僕は何も言えなかった。
現実が重すぎて、立っていられず、病室の隅にあった椅子までふらふらと移動し、座り込む。
医師は「残酷なことを言ってしまって、申し訳ない」と頭を下げ、病室を出ていった。
残されたのは、大声で泣き続ける母さんと、意識を失ったままのエマちゃんと、…座ることしかできない、僕だった。
どれくらい、椅子に座っていたのだろう。
時間の感覚も、他の感覚と一緒に死んでしまっていたみたいだ。数分かもしれないし、もう数時間経っているのかもしれない。
「あ…そうだ。今、できることはなんだろう。」
声に出したその言葉は、ひどく他人事のように聞こえた。
考えなければいけない。何かをしなければいけない。そう思っているのに、頭の中は霧がかかったように曖昧で、自分でも何を考えてるのか分からないし、掴めない。
『分からないことは考えるな。』
『今、自分にできることをしろ。』
ジョンの言葉が、不意に浮かんだ。
今考えるべきは他にあるかと思う。でも今の僕には、これしか考えられないし、それしか頼れるものがなかった。
「今できること…。」
しばらく考えて、ようやく一つだけ浮かぶ。
「あ、掃除なら…できるかな。」
自分でも驚くほど、軽い答えだった。
でも、それしか思いつかなかった。
椅子から立ち上がり、エマちゃんを抱いたままの母さんに近づく。
「母さん、僕、家に帰って掃除してくるよ。今日は母さんとエマちゃん、どうする?また病院で泊まる?」
母さんは泣き止んでいた。けれど、空っぽになった目で、何も言わずただ小さく頷いた。
「分かった。また、明日来るね。」
それだけ言って、病室を出た。
廊下を歩きながら、頭の中では同じ言葉がぐるぐる回っていた。
自分にできること。自分にできること。
「あ、そうだ。」
ふと思い出す。
「学校に寄って、ウエットティッシュと水を貰わないと。」
よし。また一つ、できること見つけた。
その後も、呪文のように「自分にできること」と唱え続けた。
それを探すことでしか、立っていられなかった。
学校に着き、今朝お世話になった女性の軍人を見つける。
彼女は変わらず明るく挨拶してくれたけれど、僕は必要なことだけを告げ、渡された水とウエットティッシュを受け取り、そのまま背を向けた。
「あ、あの!」
後ろから、多分僕に向けて放った言葉が聞こえてくる。でもよく分からない。
「無理、しないでくださいね…。」
そんな言葉をかけられた気がした。
無理?何が?
家の掃除するだけだよ。




