第三話 新日常
雪は、思ったより早く降り始めた。
例年に比べて一月近く早い初雪に、仮設住宅の住民たちは一様に口をつぐんだ。
山を覆う白の下に、熊たちが静かに息を潜めている――そう思うだけで、誰も夜の水汲みに出ようとはしなかった。
その頃、山の奥では「作戦」が始まっていた。
猟兵大隊 熊掃討作戦【零号】
作戦名は「零号」と名付けられた。
場所は、熊出没が最も頻発していた県北部の山間地帯。旧ダム付近の廃村跡に設けられた仮設前線基地から、延べ百名以上の猟兵が展開した。
猟兵大隊とは、自衛軍の中でも特殊な編成だった。
元レンジャー、狩猟免許保持者、元特殊部隊、志願者――そのいずれもが、山林戦闘と野生動物の知識を兼ね備えていた。
彼らは熊を殺すために、選ばれ、送り込まれた。
だが、作戦は失敗に終わった。
死者は出なかった。熊に襲われた隊員もいなかった。
それでも、作戦は「敗北」とされた。
理由は――熊が現れなかったからだった。
「おかしいんです。痕跡はあるんですよ。糞、毛皮、足跡、食害の跡……だけど、姿は見せない。人の匂いを嗅ぎ取ると、何日も現場に近づかなくなる。まるで、俺たちの行動を予測して避けているようにすら感じます」
報告書にそう記したのは、猟兵大隊小隊長・一ノ瀬誠だった。
赤外線カメラを設置しても映らない。
餌を撒いても、夜明け前には誰かが片付けたように消える。
一度など、無人トラップにかかった痕跡が残っていたが、ワイヤーごと引き千切られていた。
「これはもう、熊じゃなくて、ゲリラ戦だ」
そう言った一ノ瀬に、上官は答えなかった。
三週間におよぶ山岳展開の末、捕獲された熊はわずかに三頭。
投じられた予算は約三億円。
作戦は、政治的にも戦略的にも、完全な失敗と見なされた。
内閣官房は即座に対応を見直し、方針を変更する。
「これより某県を“絶対防衛線”と定める」
防衛相の記者会見で、その言葉が発された瞬間、全国のニュースが一斉に速報を打った。
“新政府、熊封じ込めへ政策転換――対象県を「隔離地域」に指定”
「掃討作戦は無意味だ。あの山に入り、殺すという発想はもう捨てる。
これからは、熊を“出させない”ことに全リソースを注ぐ。
県境の主要道路は封鎖。監視ドローンの常時配備。
県境には常駐兵を配備し、“防衛ライン”を築く。
これは、獣害ではない――国土防衛である」
知事・間宮昭三は、その報道を庁舎の小さなテレビで見ながら、眼鏡の奥で目を細めた。
「……つまり、俺たちは“外に出るな”ってことだな」
県民に向けた防災アプリには、国土防衛省の新しいマップが表示された。
その地図の上で、彼らの県だけが、真っ赤に塗りつぶされていた。
夜。山は沈黙していた。
雪の降る音の奥で、どこかの木々が震えていた。
一頭の熊が、静かに斜面を下りていく。
兵の気配は、とうに見切っていた。
彼らは鉄と人の匂いを纏い、目立ちすぎる。
熊たちは、その音を知っていた。
その個体は、繁殖期でもないのに二頭の幼熊を連れていた。
そして、奇妙なことに――その三頭は、月明かりのもとで、同じ方向を見つめていた。
山の向こう。人のいる集落の方角を。
==============================================
朝、町のスピーカーから流れるのは、旧防災無線を転用した警告だった。
「本日は町内全域で熊の徘徊が確認されています。ごみ出しは正午以降、許可が出てから行ってください」
これが、日常になったのは、いつからだっただろうか。
小学校の運動場には、見張り台と金属柵が設置されていた。
登下校は防犯ブザーではなく、熊撃退用の空砲と閃光弾が支給されていた。
生徒たちは日々、「背中を見せないこと」「走らないこと」「目を逸らさないこと」を習って育った。
熊と目が合ったらどうするか? という問いに、彼らは無表情で答える。
「無理なら、諦める」
5年前、猟兵大隊は撤退した。
作戦失敗の責任問題と、費用対効果の著しい悪化、そして戦略的優先順位の変更という名目で、国はあっさりと手を引いた。
代わって残されたのは、武器も訓練も持たない――猟友会と県警だった。
「……笑うしかねえよな。熊が百頭いて、うちの隊員は四人。ライフルの弾だって税金で賄えなくなってきた」
地元の猟師、古庄重明はそう言って苦笑した。
彼は今、住宅街に出没した親子熊の痕跡を追っていた。だがその行動範囲は広すぎ、足跡は翌朝には別の個体のもので上書きされる。
「こんなに熊の足跡が密集してんの、戦後初だろ……」
警察も変わった。
当初、拳銃で熊に立ち向かおうとした機動隊員は、あっけなく吹き飛ばされた。
手足を失い、病院で「撃ってはいけなかった」と口にした彼は、後にこう証言した。
「目の前のそれは、完全に“ただの熊”でした。ただ、でかすぎて、早すぎて、こっちが現実だと思えなかった」
それ以降、県警は拳銃の代わりにH&K製の短機関銃を常備するようになった。
警察官の訓練内容も、射撃と熊行動予測が主となり、山岳勤務ができない者は配属されなくなった。
「警察というより、もう“民兵”じゃないか」
ある若手警官がそうこぼすと、上司はただ苦く笑った。
町では、カラスの代わりに熊がごみを荒らすようになった。
市民は、朝に戸を開けて熊と目が合わないことを祈り、夜は窓に閃光センサーを取り付けて眠った。
電力不足の中でも、それだけは手放さなかった。
スーパーでは、**「熊よけ用唐辛子スプレー」がレジ横に並ぶ。
幼稚園では、「おにぎりを落とさない訓練」**が日課になっていた。
誰かが、ぽつりとつぶやいた。
「ねえ、人と熊って、どっちが多いのかな……?」
それは冗談ではなく、真顔で交わされる会話だった。
山のふもとには、**「対熊防衛線」**と呼ばれる軍事的境界線が築かれていた。
旧高速道路を転用した防衛帯は、無人監視塔と自動照射ドローンが昼夜問わず巡回していた。
その内側に入るには、IDと特別通行証が必要だった。
県は、もう「日本」ではなかった。
地図上では存在するが、制度的には半独立の自治圏。
政府はもはや、熊害に直接関与しない。防衛線さえ維持されていれば、それでいい――それが今の国策だった。
真壁涼介は、研究ノートにこう書き記した。
繁殖時期が四季を問わず、妊娠期間が短く、成熟も異常に早い。
成体になるまでの期間は、平均8か月。
メス熊の約75%が二頭以上の仔を年2回産む。
単純な話だ――数が、抑えきれないのだ。
夕暮れ、町の屋根の上に、一頭の熊が現れた。
餌を探していたのか、屋根瓦の上でこちらを見下ろしていた。
住民が誰も声を上げないのは、もう慣れきっていたからだ。
何も起きない。撃たれない。追われない。
それを知っているのだろうか。熊は、ゆっくりと去っていった。
誰かがつぶやく。
「また、来るな。明日も」
=============================================




