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第二話 終わりの始まり

2025年8月――

連日の日照りが、県内中の水田を干上がらせていた。

地球の気候は狂いつつある――そう、誰もがニュースで聞いたことがあった時代だった、そう祖父は言っていた。

しかし――今の私たちからすれば、まだ狂っていたのが気候だけだった時代のことだ。

その日、記録的な豪雨が、県を襲った。

終わることを知らないほどの雨だった。町も山も田んぼも、一緒くたに沈んだのだとか。

しかし、それは序章にすぎなかった――山に囲まれた私たちの県は、この日、陸路を寸断された。


雨が止んだ時、人々は唖然としたという。


当時は、まだ誰も、この封鎖がその後五十年も続くとは思ってすらいなかった。

その日からだ――熊が出るようになった。


荒れ果てた山から下りてきた無数の熊は、想定をはるかに上回る数であったという。

今からしてみれば、その時点で何かが根本的におかしかったのではないかと思う。


「……よって、県としては、熊の一斉駆除を視野に入れた特別措置を――」


「反対です!」


会議室の空気が凍りついた。

県庁本館、第五会議室。壁には地図、床には泥の匂いがまだ残る。記録的豪雨から三週間が経ったこの日、ついに県は「熊害」対策に関する会議を開いた。


発言者は、県議会野党・環境共生会の若手議員、秋田美咲だった。

彼女の発言は、あらかじめ用意されていた県の災害対策案を真正面から否定したことになる。


「熊は確かに出ています。けれど、現段階で確認されている被害は人的接触ゼロ。あくまで田畑の荒らしです。しかも、この異常事態の原因は、私たち人間が生態系に与えた長年のストレスと、今回の水害による山林破壊です。駆除は問題の“結果”に手を出しているにすぎません」


「結果に対応しなければ、再建作業が一歩も進まんのだよ!」

声を荒げたのは、県土木局のベテラン技監、神林卓也。

彼は現場を統括する立場にあり、度重なる熊の出没により、作業員が山間部に立ち入れない現状に苛立ちを募らせていた。


「ダムの補修も、林道の復旧も止まったまま。インフラが機能しなければ、避難所が恒久施設になってしまうぞ。これは人道の問題だ。土砂を取り除くために投入されたショベルカーが、熊の襲来で放棄されてるんだ!」


「でも、銃を持った猟友会を山に入れるのは、住民にとっては別の不安です。子供たちが山を怖がって登校拒否になっている例もあります。今、駆除を許可すれば、メディアは一斉に『人間による虐殺だ』と騒ぎ立てるでしょう」


誰もが黙った。


県知事・間宮昭三は、苦い表情で腕を組んだまま黙していた。

全国から注目を集める災害対応で、一つの誤りが次の選挙に響く――。その重圧が彼の額に汗となって滲んでいる。

「熊の数が、今後もこの調子で増えると仮定したら……秋にはどうなっている?」

彼は沈黙を破り、対策室の生態学顧問、真壁涼介に目を向けた。


真壁は机上のノートPCを閉じた。


「今のところ、熊の行動は極めて“通常”です。つまり、繁殖期ではなく、あくまで食糧難からの出没。水害で山の果樹や昆虫が全滅しているため、里山に降りている。ただし、問題は頭数です。今、県全体でおよそ180頭が確認されています。通常なら20~30のはずです」


「……なぜ、そんなに多い?」

「わかりません」


その言葉が、会議にさらなる重さを与えた。


知事は静かに立ち上がり、窓の外を見やった。遠くの山肌には、まだ雨に崩れた斜面が見える。その下の仮設住宅には、毎晩“熊の足音がする”という噂が絶えなかった。


「……このままじゃ、県民の怒りも、自然保護派の抗議も、両方を敵に回すことになるな」

彼の呟きに、誰も答えなかった。


最初の死者は、中学生だった。


その少年は、山間の仮設住宅に家族と避難していた。断水が続き、水道はまだ復旧していなかったため、彼は裏山の湧き水を汲みにいったのだという。

戻ってこなかった。


翌朝、捜索に出た地元猟友会が遺体を見つけた。頭部と腹部を食い破られ、遺棄されたその姿に、男たちは言葉を失った。獣の足跡はすぐそばに残っており、爪痕と歯形からツキノワグマと断定された。まるで人を恐れる様子もなく、堂々と、そこにいたのだ。


新聞がそれを一面で報じた。「仮設住居に迫る熊の恐怖」。

だが、誰もそのときは、これが始まりにすぎないとは思っていなかった。


翌週には、4人が襲われ、2人が死亡。さらに7人が行方不明。

死体の発見には時間がかかり、遺族の葬儀もままならなかった。

「一時的な異常出没です」――県の危機管理課はそう説明したが、人々の不安は拭えなかった。


そして、県庁の会議室で、知事・間宮昭三の携帯電話が震えたのはその翌日だった。


「自衛隊派遣を、改めて要請します」

知事は静かに言った。通話の相手は内閣府危機管理監の秘書官だった。


しかし、返ってきたのは、平坦な声だった。


「申し訳ありません。現在、函館の山崩れによる孤立集落への救助が最優先です。現地では死者が出ています。それに、新潟、四国南部、近畿、九州北部、沖縄……干ばつ被害が広域に及び、全国的に水利制御が機能しておりません。仮設住宅が熊に襲われた件については承知しておりますが……優先順位としては、二次対応に分類されます」


「……人が、死んでいるんです」


「ええ。しかし、それが“野生動物による被害”である限りは、災害の主要件ではなく、局地的な“環境要因”として扱われます」


沈黙が流れた。知事は言葉を探したが、どれも陳腐に思え、受話器を握りしめる指先にだけ、悔しさが滲んだ。


東京では、違う種類の地獄が展開されていた。


三週連続で台風が本州を縦断し、いずれも関東直撃。都内は冠水し、地下鉄の通路から滝のように水が噴き上がった。霞が関の官庁街も例外ではなかった。

テレビでは、国土交通大臣が長靴姿でぬかるみを歩く姿が放映されたが、SNSではその数分後に、**「国会前、水没30センチ。官僚が膝まで浸かる映像」**が世界中に拡散された。


CNNは報じた。「Tokyo is drowning.」

観光庁の予約キャンセル率は過去最悪を記録し、外国人観光客は急減。誰もこの国に“安全”を感じていなかった。


その間も、熊は出続けていた。

いや――他県では熊は出ていなかった。

なぜか、この県にだけ、熊が集中して出現していた。


生態学者・真壁涼介は、仮設ラボで山から回収した糞便や足跡、映像記録を前に黙り込んでいた。

彼が見ているのは行動データだった。特に異常はない。

朝夕の移動、餌場の滞留、人的領域への接近――すべて、従来のツキノワグマの範疇だった。


ただし、ひとつだけ違っていた。


「……多すぎる」

真壁は呟いた。


通常、この山系に生息するツキノワグマの個体数は30~40頭程度。だが、最新のドローン観測では、100を超える個体の活動が確認されていた。

しかも、繁殖期ではない。

この時期に、群れるように行動するなど、本来ありえない。


「まるで、何かに追い立てられているみたいだな……」


何に? 水か? 餌か? あるいは、人間の気配そのものか?


その日、知事室に一本の報告が入った。

都心で、配給所への暴動が発生。主食用の米がすでに底をつき、北海道・東北での不作により、食料調達は不可能になったと報道されていた。


また、函館の土砂災害では死者数が50名を超え、救助活動は遅延。

新潟では川が干上がり、灌漑不能に。

沖縄の海では、赤潮によって養殖魚が大量死。

対馬沖では、中国人民統合軍の艦艇が「難民救援訓練」の名目で、日本の経済水域に一時進入。

宗谷岬沖では、東露連邦の哨戒機が空自機に数メートルまで接近。

防衛庁が「重大インシデント」として国会に報告したが、その国会も冠水のため閉会中だった。


“中央”は、沈みかけていた。


そんな中で、間宮昭三は、県庁の屋上から山を見下ろしていた。


青々とした森。その奥に潜む黒い気配。

熊が出る。何頭も。何度も。止まらない。


遠くで、ヘリが一機、斜面を旋回していた。仮設住宅への物資搬送だった。

風の音が過ぎ去ったあと、静けさが戻る。

どこかで、かすかに何かが歩く音がする――それはただの風かもしれなかったが、彼には、足音に聞こえた。


彼は呟いた。


「この国の外縁が、音もなく、崩れていく……」


熊は、まだ普通の熊だった。だが、明らかに数が異常だった。

そして、その事実すら、もう政府には届かない。



投票日の朝は、嵐のような風が吹いていた。


避難所に指定された旧中学校の体育館には、仮設住宅から早朝に歩いてきた若者たちが列を作っていた。投票所に人が並ぶ光景など、もう十年以上見ていなかった。

だがこの年の選挙は、何かが違っていた。


若い男が言った。


「今回は、変えなきゃって思ったんすよね。上の世代がぐずぐずしてる間に、熊が人殺してる。田んぼは全部だめ。国が何もしてくれねえ。だからもう、強い政府にしてほしいっす」


その声は、列の中のいくつもの頷きに重なっていた。

誰もが、自分たちの人生を自分たちで守らなければならない時代に入ったことを、言葉にしなくても感じ取っていた。


そして――

第55回衆議院選挙の結果は、戦後最大の投票率と、政権の大転換をもたらした。


勝者の名は、「大日本共和」。


徹底したメディア戦略とSNS世論操作によって若者世代を取り込み、かつて政治に見向きもしなかった層の怒りと不安を票に変えた新党は、**「小さな政府で強靭な日本を」**というスローガンのもと、圧倒的な議席数を獲得し、一夜にして与党に躍り出た。


就任早々、内閣は九条の破棄を閣議決定。

自衛隊は、即座に**「自衛軍」と改称され、さらに国内外の戦略任務に特化した「戦略軍」が新設された。

そして、獣害多発地域への対処として、「猟兵大隊」**が創設される。


その第一報を聞いたとき、知事・間宮昭三は、皮肉のように笑った。


「とうとう、クマ狩りに軍隊を使う時代になったか……」


隣にいた真壁涼介は、ただ黙って首を横に振った。

猟兵大隊の実働部隊は、元自衛官と狩猟免許保持者、そして「志願兵」で構成されていた。

動物を「敵性生物」としてマークするルールが作られ、県境には検問所が設置された。


しかし――


中央政府は、同時にこう宣言した。


「獣害対策は国土防衛であるが、災害・気候危機への対応は、地方自治の責任とする」


新政権は、**「分権」**という言葉のもとに、国家による災害支援を縮小。

全国の県知事たちは、突如として自立的な“防災総司令官”となるよう求められた。

そして、予算は限られたまま。


医療もまた、崩れていった。


新政府は、「持続可能性」を理由に、社会保障費の大幅削減に踏み切った。

国民健康保険の枠組みは再設計され、高額治療や慢性疾患は「自費」対象となった。

都市部の大病院は倒産し、地方の診療所は閉鎖が相次いだ。


「医療大国日本」――その名は、静かに消えていった。


病院に代わって建てられたのは、防衛拠点と給水所だった。


都心では、新しい国防ビルに入る大日本共和の新首相が、テレビで高らかに語った。


「この国は、あまりにも守るべきものが増えすぎた。

これからは、本当に必要なものだけを守ります。

我々は、しなやかで、強い日本をつくる。災害にも獣害にも、負けない国家を」


スタジオにいた若いコメンテーターが、拍手を送った。


だが、その演説を、山の奥の仮設住宅で見ていた者たちは、冷たい視線をテレビに向けていた。


「じゃあ、俺たちはもう、守る価値のない側なんだな」


夕方、県庁の会議室で、防災局長が静かに資料を置いた。


「次の災害計画についてですが……補助金は廃止、県債も凍結。代わりに、柔軟な自治裁量を発揮せよとのことです」


「柔軟ってのは、つまり“勝手にやれ”ってことか」

知事は苦笑した。


「ええ」

局長も笑った。

「つまり、我々は今から、国家の末端じゃなく、国家の代わりになるということです」


山では、熊が冬を前にしてなお出没していた。

しかも、いまだに“普通の熊”のままだった。


ただ、異様に増え、集まり、時に人の生活圏を囲むように出現する。

一頭一頭は普通でも、その集団としての振る舞いが、どこか“意図”を持っているように見えた。


真壁涼介は、その晩の記録にこう記した。


「熊は変わっていない。

変わったのは、この国のほうだ。

彼らはただ、“今の日本”に反応しているのかもしれない」

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