第十話 肉喰熊
山が、静かだった。
静かすぎた。
その日、救助隊が捜索に入った山間部の集落では、一家五人が姿を消していた。
残された住居の中には、割られた窓、土足の跡、流し台に投げ捨てられた炊飯器と、血のしみ込んだ床があった。
冷蔵庫は無事だった。
ワルファリン入りの食材も、未開封のままだった。
それが、何を意味するのか――
県警の捜査官は、言葉を失って立ち尽くしていた。
「人間を食ったんだ」
「熊が……」
「いや、“肉”を選んだんだ。毒を避けて」
かつて熊は雑食性だった。
ベリー、昆虫、木の実、魚、米、果実。
だが、毒が蔓延し、山の自然が枯れ、里に降りた先の食糧すらワルファリンまみれになった今、
熊が最終的にたどり着いた資源は、“人間”だった。
人間は大きく、動きが遅く、何より毒を含まない。
熊たちは、学んだ。
いや――選んだのかもしれない。
真壁涼介の研究室に運ばれてきたのは、捕獲された“肉食熊”の遺体だった。
胃の中には、人間の大腿部とみられる未消化の筋組織。
腸内はKに富み、ワルファリン投与実験にも反応なし。
さらに――
肝臓の細胞群から、CRISPR/Cas9の認識配列が検出された。
それは、自然進化ではありえない、あまりにも整った遺伝子編集の痕跡だった。
“CCAGG-NNNNNNGG”
“TTGTC-Cas9 scaffold-seq”
“anti-coagulant degradation module”
“muscle fiber preference toggle”
ファイルの隅に並んだ行が、真壁の顔色を変えた。
「これは……人間が組んだコードだ。
そして、これは“肉を選ぶ”ために設計された配列だ」
その認識配列は、熊友団の初期研究ノートと一致していた。
彼らが当初目指したのは、熊の「毒耐性」だった。
だが耐性だけでは足りなかった。熊は飢える。
ならば、選ばせるしかない――
“毒のない餌”を、“毒のある世界”から識別させるには、どうするべきか。
答えは一つ。肉食化。
白咲イサナ――熊友団の“預言者”と呼ばれた科学司祭は、ある講話でこう言っていたという。
「我々は毒を拒んだ。そして熊も毒を拒んだ。
だが、熊はただ拒むだけでは生きていけない。
熊は人を食べることで、毒から解放された。
我々が熊を導いたのではない――
熊が、人間を超えたのだ。」
県警はこの肉食熊の出現をもって、県内全域に**「人食熊出没警報」**を発令。
同時に熊友団の拠点を「生物兵器開発施設」として正式に認定、国家非常事態宣言の対象区域に申請した。
しかし遅すぎた。
熊はすでに数千頭に及び、その中で**“人肉を覚えた群れ”**が、別の熊たちを牽引するようになっていた。
まるで、知識が伝播しているかのように。
真壁は静かに言った。
「この熊たちは、ただ進化したんじゃない。
我々の手が、彼らを“人喰い”にしたんだ。」