06 公爵夫人の一日
朝の陽射しがカーテン越しに差し込み、レティシアは自然と目を覚ました。
「……ふわあ。今日もいいお天気ですね」
窓を開けると、さわやかな風が頬を撫でる。公爵領の空気はどこか甘くて、レティシアは深く息を吸い込んだ。
(さて、今日はどんな一日になるでしょうか?)
諦めと好奇心に満ちた瞳で身支度を整えると、昨日届けられたドレスではなく、着慣れたよれよれのワンピースを引っ張り出して袖を通す。
上等な服は特別な日にとっておくべきだ。汚れても良い服で過ごすのが一番気楽。
「おはようございます」
食堂に入ると、先に席に着いていたアルベルトが、いつもの涼しい表情でレティシアを見やった。
ちょっとだけ、ぎょっとした顔をした気もしなくもない。
「……おはよう」
それだけ言うと、彼は視線を戻してナイフとフォークを手に取る。
朝食のテーブルには、香ばしい香りの立ちのぼるベーコン、ふわふわのスクランブルエッグ、甘く煮詰めたトマトと新鮮なサラダ、焼きたてのパン……見るからに豪勢な食事が並んでいた。
「……!」
席に案内されたレティシアは、そのベーコンを一口、恐る恐る口に運んだ。
(か、カリカリなのにジューシー……なんてすてきなハーモニー……!)
頬を輝かせながら、モグモグと小動物のように咀嚼している。
向かいに座るアルベルトは、その様子をちらと見たが、すぐに視線を落としてスープを掬った。
「……味はどうだ?」
「とっても美味しいです! 私、ベーコンってあんなに感動できる食べ物だなんて知りませんでした!」
もっとこうカラカラで、たくさん噛まないと味がしないものだと思っていたのに!
「……そうか」
彼はちらりと料理人の方を見た。どうしたのだろう。
(せっかく旦那様がいらっしゃるのだもの。聞かないと)
こうして嫁いできて、愛されないとはいえ立場はある。公爵夫人として必要なことがあるかどうか確認しなければ。
そう思ったレティシアが「公爵夫人としてやるべきことはございますか?」と尋ねる。
「君は何もしなくていい」
「そう……ですか」
「ああ。好きに過ごしてくれ」
素っ気ない言葉だ。
後継ぎのことも含め、公爵夫人としての役割はレティシアに求められていないのだと理解する。
それでも、誰にも危害は加えられていないし、美味しい食事は出してくれる。寝具もふかふか。
(……これ以上を望むのは、高望みです。十分です)
レティシアはぱくっと口を開け、朝食の続きを食べ始める。
それをアルベルトや使用人たちが目を細めて見ていることには、まるで気が付かなかった。
*
朝食を終えたレティシアは、そのまま庭に出て、昨日教えてもらった野菜畑の一角へと向かった。
ワンピースの裾をたくしあげ、土にひざをつき、夢中で雑草を抜きはじめる。
「……このあたりは水はけが悪いから、土を入れ替えた方がいいのかもしれませんね」
独りごとのように呟きながら、まるで生まれた時から土と親しんできたかのように手際よく作業を進めていくレティシア。
その様子を、庭の奥からこっそり見守っていた侍女たちは顔を見合わせた。
「あの……奥様が畑仕事を……!」
「止めた方がよろしいのでは……!?」
「でも、すごく楽しそうですよ?」
心配と驚きの混ざった声が交錯する。
「このお野菜、収穫の時期にはどなたが食べるのでしょう? ふふっ、できれば私もひと口いただけたら嬉しいですね」
レティシアはそんなことを呟きながら、汗をぬぐうことも忘れて無心に土と向き合っていた。
*
屋敷に戻って刺繍をしていたレティシアに、おやつの時間が訪れる。
庭仕事でドロドロになっていたら、顔を青くした侍女たちに丸洗いされ、この前とは別のサイズピッタリの桃色のワンピースに袖を通している。
「奥様。本日はラズベリーのタルトとミルクティーをご用意しました」
「まあ、かわいらしい……!」
ティーカップの中でくるくると渦を巻くミルクの模様にうっとりしながら、レティシアはタルトをひと口。
「ん〜! 果実が弾けて、香りがふわっと……! これは、幸せの味です!」
目を閉じてしみじみと味わうレティシアを、侍女たちも微笑ましく見守る。
*
そして、夜になった。
厨房の扉が開いた瞬間、ぱあっと広がる香ばしい匂いにレティシアの鼻がくすぐられた。
香ばしく焼かれたパンの香り、煮込まれた野菜の優しい匂い、そして香草バターで炒められたお肉の、食欲をそそる香り――。
「わあ……すごく、いい匂いです……!」
思わず漏れたレティシアの声に、厨房にいた料理人たちや侍女たちが一斉にこちらを振り向く。そして、彼女の姿を認めた瞬間、みな軽く頭を下げながら、どこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「お、お奥様!? 本当にこちらでお召し上がりになるのですか……?」
目を丸くして声を上げたのは、見習いの小柄な料理人だ。
「はい。食堂では少し寂しいので、もし皆さまのご迷惑でなければ、ご一緒させていただけたら嬉しいのですが……」
恐る恐る口にしたレティシアの言葉に、ひときわ大きな笑い声が響いた。
「迷惑だなんてとんでもない! さ、奥様、こちらへどうぞ!」
ふくよかな体に快活な笑みを浮かべた中年の女性――料理長のベルナが、厨房の端にある大きなテーブルを指さす。
「本来ならお客様を通す場所ではありませんが、奥様はもうこちらの一員のようなものですからね!」
レティシアは少し照れながら、促されるままにテーブルにつく。
その隣に侍女のマティルダが当然のように腰を下ろすと、他の使用人たちも控えめにではあるが安心したような顔で席に着いていく。
「奥様、こちらが今夜の夕食です。ローストチキンと根菜のグリル、そして焼きたてのパンです。スープはかぼちゃですよ」
「わあ……すごく美味しそうです……!」
目の前に並んだ料理を見て、レティシアの瞳がきらきらと輝いた。
一口スープをすすると、ほんのり甘いかぼちゃの香りが口いっぱいに広がる。グリルされたにんじんやじゃがいもはほくほくで、ローストチキンは皮がパリッと、中はジューシー。
「とっても……美味しいです!」
小さな幸せに頬を緩ませるレティシアに、周囲の使用人たちも自然と笑みをこぼす。テーブルの空気が和やかになり、次第に笑い声が増えていった。
「奥様、よろしければこの後、おやつにシャーベットをご用意いたしますね」
「まあっ! そんな、いいのですか? 楽しみです!」
「奥様、おやつは欠かさず召し上がるご予定で?」
意地悪くない冗談めかした問いに、レティシアはくすっと笑った。
「はい、私、おやつのある暮らしに憧れていたのです」
すると、厨房中が「いいですねえ」「わかります」とあたたかな笑い声に包まれる。
そうしてその夜、レティシアは初めて「家族のような食卓」というものを味わった。
旦那様はいないけれど――。
この場所は、自分にとってかけがえのないものになるかもしれない。
寝室に戻ったレティシアは、大きなベッドの真ん中で丸まって眠った。
これだけ広いのだから、小さくなることなんてないのに――癖でどうしても。
「……」
その夜、誰かに頭を撫でられたような気がした。幸せな夢だった。