05 庭園
パンケーキと紅茶を堪能したあとの庭園は、朝の陽ざしを浴びて、いっそう清らかに輝いていた。
淡いクリーム色のバラが花開くアーチの下、レティシアは椅子に座ったまま、少しだけ首を傾げる。
「……あの、旦那様は今、お部屋に?」
問いかけに、後ろに控えていた年嵩の侍女が、わずかに目を伏せた。
「……旦那様は、公務に出かけられました。お仕事でございます」
「まあ、そうでしたか。やはり旦那様はお忙しいのですね」
レティシアはこくりと頷きながら、ふむふむ、と呟くようにひとりごちた。
(なるほど、公務というのはこちらの国でも日々大変なのですね)
冷たいのではなく、仕事熱心。そう思うと少しだけ、アルベルトへの印象が変わった気がした。
カップを置いたレティシアは、侍女に尋ねる。
「あの、このまま少し……庭園を散策してもよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです。庭師たちにも伝えておりますので、何かあればお声がけくださいませ」
「ありがとうございます」
ドレスの裾を気にしながら立ち上がると、朝露の残る小道をそっと歩きはじめた。
どこか懐かしい花の香り。手入れの行き届いた植え込みに、花壇のひとつひとつまでが絵のように整っている。
(すごい……これを管理している人がいるなんて……)
足音を潜めるようにして小道を曲がると、そこにひとりの年配の庭師がいた。
手入れ中だったらしい彼は、ふいに視線に気づき、帽子をとって会釈する。
「おや、おはようございます。奥様でいらっしゃいますね?」
「はい、レティシアと申します。お邪魔してしまってすみません」
ぺこりと頭を下げるレティシアに、庭師は目を細めて穏やかに笑った。
「とんでもない、歓迎いたします。ここは奥様のお庭ですから。……ところで、お好きなお色はございますか?」
「色……ですか? そうですね、薄紫が好きです」
思わず即答した自分に少し驚いた。けれど、それはたしかに心に浮かんだ色だった。ラベンダーや、薄暮の空のような、静かで優しい色。
「薄紫ですか。それはまた、優しいお色ですな。ありがとうございます」
風に揺れる花々を眺めながら、レティシアは庭園の奥に目を留めた。
華やかな花壇の向こうに、何か違和感のある一角が目に留まる。花ではない、でも整然と並んだ緑の列……。
「あれは……?」
その声に気づいたのか、すぐそばで作業していた庭師の男性が顔を上げ、やわらかく微笑む。
「おや、奥様。気がつかれましたか。あちらは屋敷の菜園でございます」
「菜園ですか……! 見せていただいてもいいですか?」
「もちろんでございますとも、奥様。どうぞ、こちらへ」
庭師に促されるまま、レティシアはそっと菜園に足を踏み入れた。
(わあ……とっても綺麗に実っています)
レティシアの瞳がぱっと輝く。
よく耕された土。整然と並ぶ畝には、小さな芽が顔を出していたり、立派に実をつけているものもある。
小さな実をつけたトマトや、ふわりと葉を広げたレタス、ハーブの柔らかな香りが風に混じる。
――そのひとつひとつが、丁寧に手をかけられているのが伝わってくる。
「ここで野菜を育てていらっしゃるのですね……!」
「はい。毎朝収穫して、厨房に届けております。お食事の材料になる、新鮮なものばかりですよ」
「すごいです……まさか、こんな場所があったなんて」
「奥様は、菜園にご興味を?」
「はいっ! わたし、以前から植物を育てるのが好きで……」
そう言いながら、しゃがんで土をじっと見つめる。懐かしさと高揚感が入り混じり、レティシアの心はどこか浮き立っていた。
「手が空いたときにでも、いつでも見に来てくださって構いませんよ」
「本当ですか!? ……あっ、でも、お仕事の邪魔にはなりませんか?」
「それはもう、お好きなだけ。奥様の歩いた後は土の調子もよくなる気がしますな」
「ありがとう、ございます」
冗談めかした庭師の言葉に、レティシアは照れくさそうに笑う。
(私もここで、土いじりをさせてもらう事にしましょう!)
草花と野菜の香りに包まれながら、レティシアは胸いっぱいに深呼吸をした。
***
庭園での心地よい時間を終え、部屋に戻ってきたレティシアは、心なしか少しだけ名残惜しそうにドアをくぐった。
侍女の一人がそっと扉を閉めると、控えめに声をかけてくる。
「奥様、何かご入用のものがございましたら、どうか遠慮なくお申し付けくださいませ」
「必要なもの、ですか……」
レティシアは少し考えてから、ふわりと笑みを浮かべた。
「では、布と糸をいただけますか? 刺繍が趣味なのです。もしお時間をいただけるなら、少しだけ、縫い物をして過ごしたくて」
侍女はぱっと顔を明るくした。
「もちろんでございます。すぐに布と絹糸をご用意いたします」
そうして届けられた布と糸を受け取ると、レティシアは窓際の陽の当たる椅子に腰掛け、さっそく針を手に取った。
するすると動く針先。馴染んだ感触が手のひらに戻ってきて、心が少しほぐれる。
(ここでは、こうして針仕事をしていても誰にも咎められないのですね……)
離宮ではこんな静かな時間を過ごしていると、決まって姉たちが現れて邪魔をした。
だけどここでは、ただ静かに糸を重ねるだけで、誰も怒らない。誰も笑わない。
そうして刺繍に集中していると、窓の外の景色が茜色に染まりはじめた。
やがてノックの音とともに、「お食事のご準備が整いました」と案内され、レティシアは食堂へ向かう。
案内されたのは長く重厚な食卓──けれど、その場には自分ひとりだけだった。
「……あの、旦那様は……?」
思わずそう尋ねると、侍女は少し気まずそうに口を開いた。
「公爵様は執務にて、食事は別にされるとのことで……」
「そうですか」
整えられた食卓には、ローストされた鴨肉に焼きたてのパン、香り高いスープ……どれもとても美味しそうだ。
けれど、広すぎる席にぽつんと座って食べるのは、少しだけ心細い。
(せっかく美味しいのに……)
ナイフとフォークを手に取りながら、レティシアはふと思い立つ。
「……あの、こんなお願いは場違いかもしれませんけど、私……もし可能でしたら、使用人の皆さんと一緒に食事を取ることはできませんか?」
その場の空気が、少しだけ静止した。
けれど、レティシアの表情はいたって真剣だ。
「もちろん、皆さんのご都合があることは承知しています。でも、こうして誰かと一緒に食事ができるなら……とても嬉しいなって」
微笑むレティシアの声は静かだけれど、その思いは確かだった。ずっと一人だったから、誰かと食事をする事に憧れていたのかもしれない。
「……承知いたしました。奥様」
年嵩の侍女がキリリとした表情で告げる。
こうして、レティシアと屋敷の人々との小さな繋がりが、ここから芽吹いていくことになる。