03 初夜?
隣国リューべルク公爵領にある古くから受け継がれてきた厳かなチャペルに、しんとした空気が張り詰めていた。
白を基調とした石造りの堂内には、荘厳なパイプオルガンの音が低く響いている。
磨き上げられた石畳の床には、陽光がステンドグラスを通して降り注ぎ、淡い光の模様が浮かび上がっていた。
参列者はごく限られた面々――アルベルトの側近や一部の貴族たち、そして新婦レティシアに随行を許された最小限の侍女のみ。
祝福の言葉は控えめに、だが真摯に交わされる。
その場には王族の派手さや賑やかな演出などなく、代わりに静謐と格式があった。
白いヴェールを纏ったレティシアは、細く深呼吸をしてからチャペルの入り口を一歩踏み出す。
足音が反響するなか、彼女の心は静かだった。
これが「白い結婚」だと、彼女は知っていたからだ。
婚前に交わした手紙に記された一文を、彼女は何度も思い出していた。
『これは形式的な結婚だ。私は君を愛するつもりはない』
その言葉を見たとき、「やっぱり」と思った。その言葉に、逆に安心すらした。
その手紙の最後には、『この手紙を捨てるように』と指示が記されていた。
だが、レティシアはそれには従わなかった。大事な証拠なのだから、燃やすわけがない。小さな荷物に紛れ込ませ、こっそりと持ち込んだ。
(これさえあれば、離縁もスムーズに進むはずですし。捨てるなんて、滅相もない)
式は静かに進んだ。誓いの言葉も、指輪の交換も、粛々と終わっていく。
整然とした空気の中で、新郎新婦は形式的に夫婦となった。
(綺麗な御方ですね)
花嫁のヴェール越しに見るアルベルトの横顔は、静かに整っていて、まるで石像のようだった。
何にも染まらない濡れ羽色の髪、すっと通った鼻筋に、凛とした紫紺の瞳。
これまでに見たどんな人間よりも美しい人だった。
結婚式のあと、公爵邸に迎えられたレティシアは、静かに与えられた寝室へと案内された。
そこは、彼女がかつて暮らしていた離宮とは比べものにならないほど広く、美しく整えられていた。
天蓋のついたベッドに、柔らかな絨毯、壁には繊細な刺繍が施されたタペストリーが飾られている。
(まるで夢のようですね……)
ふわりと微笑むものの、胸の内は静かに波立っていた。さきほどまで交わされた結婚の誓いは、形式的なもの。
そして――
レティシアの記憶に、何度も思い返した文面が浮かぶ。
『これは形式的な結婚だ。私は君を愛するつもりはない』
あの手紙の言葉だ。
(……まあ、自由が得られるなら、それで良いのですけれど)
ベッドの端に腰掛けて、ひとつ息を吐く。ふと、幼い頃に世話をしてくれていた乳母――マーサのことを思い出した。
「……女は度胸、ですね」
彼女の口癖だ。ある日を境に姿を消してしまったけれど、今でもレティシアの心の中で生きている。
レティシアはベッドから立ち上がり、寝室の扉の方を見た。
やがて、奥の扉が静かに開く音がして、ひとりの人物が現れる。
ベルベットのガウンに身を包み、濡れ羽色の髪を持つ若き公爵――アルベルト・フォン・リューベルクだ。
婚礼の際、ちらりと見たその横顔は、絵画の中から抜け出たような美しさだった。
そして今、彼はレティシアをまっすぐ見つめたまま、静かに言葉を紡いだ。
「……この部屋は君に譲る。必要があれば扉を叩くように」
「……はい?」
レティシアが聞き返す暇もなく、アルベルトはくるりと背を向け、自室へと戻ってしまった。
ぽつんと寝室に取り残されて、レティシアはしばし呆然と立ち尽くした。
「…………ええと……?」
何が起きたのか分からない。
けれど、言葉通り受け取るのならば――お飾りの妻として距離を取るつもり、ということだろう。
レティシアはほっと息を吐き、静かにベッドに横たわった。
「さすが、素晴らしい冷遇スタートですね! これでいいのです……ふわあ」
緊張と疲れがどっと押し寄せ、レティシアは目を閉じる。
心地よいベッドに体を沈めると、すぐにまどろみが彼女を包んだ。
(愛されなくても構いませんが、美味しいご飯が食べられたらいいな)
レティシアはそんなことを考えながら深い眠りにつく。
その夜、公爵邸には月の光が柔らかく差し込んでいた。