閑話 郊外の屋敷にて
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雲が低く垂れ込め、空気が重い。
馬を進ませていたバルナバスは、湿った風の匂いに眉を寄せた。
(そろそろ降るな)
ここはヴァルテンシュタイン王国の王都から二日ほど離れた南方の郊外。
かつて南宮と呼ばれ、王族の静養地として使われていた区域らしい。
今はひっそりとした森に囲まれ、鳥の声と土の匂いが静かな時間を支配している。
森を抜けると、小さな庭を持つ一軒の家が見えた。
白い壁に蔦が絡まる、質素だが温かみのある家だ。
そして――その庭で、全身泥だらけになりながら畑を耕している人物がいた。
「……マーサ様らしい」
バルナバスは静かに馬から降り、土を踏みしめる。
その音に気づいたのか、マーサがひょいと顔を上げた。
「あら。今日来るとは思っていなかったわ」
笑った顔の頬には泥が跳ね、エプロンは茶色と緑色の斑点で覆われている。
宮廷で見ていた華やかな衣装の面影はどこにもない。けれど、その柔らかな笑みはあの頃と何ひとつ変わらなかった。
「定期の見回りです。……お変わりないようで、何よりです」
「変わりまくっていると思うけれどね?」
マーサはくすくすと笑い、また鍬を振るった。
跳ねた泥がバルナバスの外套にべしっと着地する。
「あっ、ごめんなさいね。今日は畑の土替えの日なの」
「相変わらず……いや、これ以上は申しません」
「言いたいことは分かるわ」
マーサがじとっとした目で見上げる。
その視線に、屈強な騎士は思わず姿勢を正した。
そのとき、空からぽつりと雨粒が落ちた。
「……来たわね!」
マーサは鍬を投げ捨て、急に走り出す。
「洗濯物が全部外なの! バルナバスも手伝ってくださらない?」
「了解しました!」
反射的に騎士らしい声で返事をし、バルナバスは裏庭へと駆ける。
物干し台には、大きなシーツやリネン、そして――繊細なレースのハンカチや、見てはいけない類の薄布まで揺れていた。
バルナバスは一瞬固まった。室内に干してほしい。
だが雨脚が強さを増し、そんなことを言ってもいられない。
「……」
無表情を装いながら、そっとそれらを籠へ入れる。
その瞬間、背後からマーサの声がする。
「こっちも全部お願いね! ああ、また泥を踏んじゃった!」
振り返れば、スカートを泥水に浸したまま走るマーサ。
騎士は思わず天を仰いだ。
(跳ねっ返り公女の頃と、何も変わらない……)
雨音が強くなる。
やがて洗濯物を抱えたバルナバスが戻ると、素早く着替えを済ませたらしいマーサがひと息ついて空を見上げていた。
「ありがとう、バルナバス。ほら、早く入ってちょうだい。風邪を引いたら厄介だわ」
「はい。マーサ様も、お御髪が」
「また『様』って言ったわね? 全くバルナバスったら」
そう言って、いたずらっぽく片眉を上げる笑顔は――かつて振り回され続けた少女そのものだった。
屋内に入ると、雨音が屋根を叩く静かな響きだけが残った。
湿った服の袖を絞りながら、バルナバスはそっと息をつく。
マーサは濡れた髪をタオルでざっと拭きながら、厨房へと足を運んだ。
「すぐにお茶を淹れるわ。バルナバスはそこの椅子に座っていて」
「手伝います」
「いいの。あなたは座っていてちょうだい。休むのも大事よ」
あまりに自然な調子で言われ、バルナバスはふと目を伏せた。
王宮にいた頃には決して向けられなかった種類の言葉だった。
やがて、湯の沸く音と共に、かすかな茶葉の香りが漂ってくる。
(姫様……)
胸の奥で、押し込めたはずの言葉が浮かんでは沈む。
「お待たせしました」
マーサが盆を運んできた。
素朴な木のトレイの上に、温かな湯気を立てるカップ。横には焼きたての小さなジャムクッキーが添えられている。
「すごく凝ったものじゃないけれど、最近のお気に入りなの」
「……いただきます」
バルナバスは丁寧に礼を述べ、湯気の立つ茶を口に運んだ。
爽やかで甘い香りが舌に広がる。優しい味だった。
「あなたとこうして座っているなんて、少し不思議だわ」
マーサが笑う。
バルナバスは、わずかに照れくささを滲ませて息を吐いた。
「昔は……座る暇もありませんでしたから」
「ええ。いつもわたくしの後ろを追いかけて、怒って、叱って」
「叱る必要がありました。あれは、公女という立場だからこそ、許されていた蛮行です」
「まあ。言ってくれるじゃない」
マーサは肩を揺らして笑ったが、その目の奥には、微かな寂しさが沈んでいた。
「でも。いま思えば、とても楽しかった。あんな風に、自由でいられることなんて、あれ以来なかったもの」
カップを両手で包み込むようにしながら、マーサはぽつりと言う。
「レティシアは、どうしているかしら」
静かに落とされたその言葉は、雨音よりも小さく、けれど強く響いた。
「……お会いにならないのですか」
「いまさら母親ヅラをしても、滑稽じゃない。あの場所であの子をひとりにしたくせに、都合よく『会いたい』なんて……図々しいにもほどがあるわ」
マーサはふっと笑い、視線を落とす。
その笑みは、どこか自嘲めいていた。
「それでも、会えばいいと私は思います」
「……」
「レティシア様は、自分で考えられる方です。まるで昔の貴女を見ているようでした」
バルナバスがそう伝えると、マーサの指が皿の縁をきゅっとつまむ。
「はあ。本当はわたくしが怖いの。あの子の前に立って、胸を張れる自信がない」
「では、胸を張れるところまで、私がお傍にいます」
言ったあと、バルナバスは自分の声に驚いた。
あまりに率直で、あまりに本気だった。
マーサはゆっくりと顔を上げ、彼を見た。
その瞳が、ふっと柔らかく揺れる。
「……また、振り回すわよ?」
「構いません。何度でも」
雨脚が強くなる。
だが室内の空気は、春の陽だまりのように温かかった。
マーサは小さく微笑み、カップを両手で包み込んだ。
「ありがとう、バルナバス」
「こちらこそ」
ただそれだけを交わし、ふたりは静かに茶を飲む。
言葉にしない想いは、まだ形にならないまま、そっと胸にしまわれた。
けれどしっかりと温度を持って、確かに息づいていた。
(まさか本当に、こんな日が来るとはな)
バルナバスは茶をひと口飲み、目の前にいるマルシアーナ――マーサを見た。
かつてのアルメリア公国で、二人は公女とその騎士だった。それだけだ。
公女を失い、国も吸収されてしまったアルメリアの民たちは、それでも生き延びて各地に息づいている。
ヴァルテンシュタインの王太子は、なぜだか最初からこのマルシアーナをなんとかしてグランチェスター王国から取り戻そうとしていたようだった。
彼の腹心である公爵がマルシアーナの娘――グランチェスター王国の第三王女と縁付いたからなのか。
だが、ジークフリートは自由奔放に振舞っているように見えて、実際は鋭く情勢を読み、必要とあれば誰よりも早く決断を下す男だ。
その背には、王となる者の覚悟と胆力が確かに宿っている。
だからこそ、彼の一言一動には重みがあり、多くの者が知らぬ間にその判断に従ってしまうのだ。
(まさか、姫様の方が先に馬車に忍び込んでいるとは思わなかったが)
マルシアーナの行動力は、さらにその上を行っていた。
あのジークフリートが固まる様子など、そうそう見られないものだろう。
「ふはっ」
「まあ、どうしたの? 急に」
思い出し笑いが零れた瞬間、正面に座るマーサが小首を傾げた。
バルナバスは背筋を伸ばし、淡く笑みを浮かべた。
「我が主君は、やはりさすがだと思いまして。貴女の前では、誰もが振り回されてしまう」
その声には、誇りと懐かしさが滲む。
アルメリアの意思は潰えていない。
ひとまずはこの公女が穏やかに暮らせていることに、バルナバスは深く感謝するのだった。
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