閑話 グランチェスター王
「まだ見つからんのか! どうして王妃ひとり、捜せぬ!」
グランチェスター王の怒声が、玉座の間に響く。
その一言が、宮廷の空気を凍らせた。
絨毯を踏みしめる余裕のない靴音が、苛立ちの強さを物語っている。
玉座の脇に控える侍従長と宰相は、互いに視線を交わすことなく、沈黙を守っていた。
第二妃マルシアーナの姿が見えなくなってから、すでにひと月が過ぎようとしていた。
最初の数日は「ご体調が優れず、御所に籠られている」という説明が通用した。
だが十日を超えたあたりから、一部の側仕えや侍女たちの間で囁かれはじめたのだ。
――本当に、妃殿下は王城におられるのか?
誰ひとりとして、マルシアーナ本人の姿を見た者はいなかった。
出入りを許されていた侍女数名は、次々と辞を解かれ、あるいは地方へ異動となった。王の命令により、寝所の扉は二重に施錠されている。
これまでも、ほとんど姿を見せることのなかったマルシアーナではあるが、その人柄は侍女たちにも好まれており、不穏な空気は伝播するように城中に伝わる。
何よりも、苛立ちを隠しきれない王の姿こそが答えだ。
先日のサミットでは、マルシアーナを諸国の使者たちに会わせたらしく、主催国として満足そうにしていたというのに、だ。
寵妃の姿が宮廷から忽然と消えた――それは、城の空気を決定的に変え始めていた。
「出入りの記録はどうした。侍女どもは全員問いただしたのか!」
「はい、すでに寵妃付きの侍女は全員詰問しております。ですが、皆一様に体調を崩して休まれていたとの証言で統一されており――」
「そんな言い訳が通じるか!」
王は王笏を叩きつけるように床に突き立て、白く乾いた指を震わせた。
「誰が連れ出したのだ。あのか弱い妃が一人でどこかへ行けるはずがない。離宮に住まわせて、これまで良くしてやったんだ。あやつに不満があるはずがない!」
その言葉に、宰相が静かに口を開く。
「……陛下。逆に申し上げれば、それゆえに目撃者が皆無であったとも言えましょう。妃殿下の私的空間に近づける者が限られていたため、動向が掴みきれず――」
「黙れ! 無能を棚に上げて何を言う! この失態、誰が責を取るのだ! 今もまだ、マルシアーナが惨めな思いをしているかもしれんというのに……」
王は叫びながらも、自分が信じたい幻想を繰り返す。宰相は深く頭を垂れていた。反論する言葉など持たない。
マルシアーナが決して『か弱いだけの女性』ではなかったことを、彼は知っている。
(あの方が、ただの鳥籠の中で微笑むだけの方なら……こんなことにはなっていない)
思い出すのは、若き日の妃が離宮の庭で土をいじり、笑っていた姿。
うっかり遭遇してしまった時、マルシアーナは『内緒ね』と言っていた。だからそのことを、王には伝えていない。
物事を自分の見たいようにしか見ない王に、わざわざ伝える必要はないと考えたからだ。
沈黙が落ちた玉座の間で、王は苛立ちを隠そうともせずに口を噤んだままウロウロと歩き回っていた。金で縁取られた長衣の裾が絨毯を掠め、窓の外では夕日が塔の影を伸ばしている。
やがて、足を止める。
「宰相。手紙を用意せよ。ヴァルデンシュタイン王国宛てにだ」
「ヴァルシュタイン王国にですか? いかなるご趣旨で?」
宰相が静かに顔を上げた。
「いや、やはりヴァルデンシュタインだけでは足りん! アルメリアと親しかった国々すべてに書簡を送れ。……妃が匿われている可能性がある、と。そう匂わせるのだ!」
宰相が、ゆっくりと顔を上げた。その目は冷静を装いながらも、深い危惧の色を帯びている。
「誤って疑義をかければ、国際関係にも影を落とす懸念がございます。今お名前に上がった国々には、少なからず我が国と友好条約を交わしている国も含まれますが……それでもよろしいと?」
「構わん。やましいことがなければ、書面ひとつで騒ぎ立てるはずがない。余はただ、妃の身を案じているだけだ。誤解される筋合いはない!」
唾を飛ばしながら、王はそう言い切った。
もう何を言っても無駄であろう。宰相は膝を折り、ゆるやかに頭を垂れる。
「……畏まりました。書簡を用意いたします」
淡々と答えながらも、彼の胸には冷たい予感が走っていた。
国内には妃が失踪したことを隠しながら、周囲の諸国に牽制の文を出す。これは外交上、矛盾であり、破綻であり、挑発に等しい。諸国に疑義をかけるのだから。
「我が国には帝国が後ろにいる。正統性は揺るがぬ。どの国も、吠えることしかできまいよ。……アルメリアの亡霊など、いつまでも引きずっているから腑抜けなのだ」
笑う王を見て、宰相はただ深く、低く、沈黙を守った。
(この方の中では、すべてが思い通りに動いているつもりなのだ。……だが、現実はすでに軋み始めている)
彼は心の中で、手紙を受け取る各国の外交官の顔を思い浮かべていた。
その表情の変化と、グランチェスターに向けられるであろう視線の冷たさを。
***
ヴァルシュタイン王国の執務室。
机上に広げられたその文書を、ジークフリートは面倒くさそうに斜め読みした。
「……妃を匿っているのではないかとはな。まるで犯人扱いだ」
ジークフリートは溜息をつきながら、手にしていた文書をぱさりと卓上に落とした。
「面倒だから返答は簡潔にしろ。『お前の妃など知らん』――以上だ」
応接室にいた文官たちが一斉に顔を上げた。だが、王太子の命に、誰一人として異を唱えることはできない。
「失礼ながら、それではあまりに……」
「繰り返すぞ。妃など、俺は知らない。それ以外ないだろう」
改めてそう言い切ると、ジークフリートは大理石の窓辺に腰をかけ、脚を組んだ。
陽光にきらめく金の瞳が、どこか愉快そうに細められる。
「この書簡、サミットに来た他国にも送っているのでしょうね。このような聞き方では角が立つでしょうに」
アルベルトが静かに苦笑まじりに呟く。卓上の文面に目を落とした彼の視線が、一瞬だけ険しくなった。文末に記された謝辞が、冒頭の威圧的な調子とあまりに乖離している。
「ははっ。この混乱で、かの国の宰相が神経をすり減らしているのは間違いないな。だが、それが王を止めるには至らん」
アルベルトも同感だった。あの国も宰相だけはしっかりしているように思えたが、上があれではどうにもならないだろう。
ジークフリートは鼻で笑い、片肘を窓枠に置いた。
「この件に関しては俺が手ずから処理しよう。皆は下がっていい」
その一言で、文官たちは一斉に立ち上がり、頭を下げて部屋を後にした。
重厚な扉が静かに閉まる。
残ったのは、ジークフリートとアルベルト、そして壁際に控えていたひとりの屈強な騎士だけだ。
「さて、ここからは世間話だな。バルナバス、マーサは息災か?」
ジークフリートの問いは、どこか冗談めいて、それでいて本気の響きを帯びていた。その名を呼ぶ声に応じて、バルナバスが一歩進み、片膝をつく。
「はい。昨日も刺繍の続きをしておられました。庭のハーブは良く茂っており、間もなく収穫の予定とのことです。畑では、苗を間引いた土を手にして、たいへん楽しげでした」
「そうか」
ジークフリートは満足げに微笑み、椅子の背にもたれかかった。
「ならば良い。……この国に王妃マルシアーナは存在しない。今いるのはただ一人、田舎でのんびりと暮らすマーサというご夫人だけだ」
そして、机上の書簡を指で弾き、ぱらりと裏返した。
「嘘はついていないからな」
悪戯っぽい声が、朗らかに響く。
アルベルトも肩をすくめながら、ほんのわずか口元を緩めた。
「そうですね。事実ですので問題ありません」
そう答える時、アルベルトの頭にはその渦中の人と全く同じ行動をしていた人が浮かんだ。
そして、うっかり笑顔になってしまったところをジークフリートにニヤニヤと揶揄われてしまったのだった。
お読みいただきありがとうございます。
毎週火曜日更新を目指していましたが、仕事が忙しくなってきたことと、家族のサポートのためしばらく更新出来ません。再開に向けて妄想がんばります!




