17 貴族令嬢
本屋を出たレティシアの手には、布張りの装丁が可愛らしい詩集と、小さな童話集が抱えられていた。
「こんなに素敵なものを、ありがとうございます」
レティシアはアルベルトに再度頭を下げる。
本屋でレティシアが興味を持った本を、アルベルトは片っ端から購入しようとするから驚いた。本は高級品だ。ちゃんと断ったつもりだけど、どうだろうか。アルベルトが店主となにやら話していたような気がしなくもないけれど。
そんなことを考えつつ、レティシアの顔はすっかりほころんでいる。
アルベルトは隣でふっと笑い、その視線をレティシアに向けた。
「読みたいと思える本に出会えたのなら、よかった」
その声色は、いつもより少しだけやわらかくて。目元の陰も、どこか晴れやかに見えた。
(……今日の旦那様、なんだか、いつもより穏やかです)
そう感じた途端、胸がどきんと高鳴った。病気だろうか。すぐに視線を逸らしながら、レティシアは慌てて話題を切り替える。ちょっと顔が熱い気もする。
「この国の王都はとても豊かですね」
そう口にしてから、レティシアはそっと目を細めた。日差しに照らされた石畳は磨かれたように滑らかで、左右の建物は低い屋根が整然と並び、壁には花飾りがさりげなく添えられている。
文具店も本屋も穏やかな雰囲気で、通りには、笑い声がいくつも重なっている。
「人々の顔が、とても安らかです。あちらではどうだったのでしょう。彼らのことをちゃんと知ることができないままで……」
レティシアは、本をぎゅっと胸元に抱きしめる。
自国だったけれど、何も知らなかった。だがきっと、良い治世ではなかったという予感はある。教育係の学者たちが、誰にも聞こえぬようにため息をついていたのを、幼いながらに覚えていた。
静かに足を止めた彼女の肩越しに、アルベルトの声が降りてくる。
「知らなかったことは、罪ではない。閉ざされていたなら、なおのことだ」
その声は、まるで風が背を押すようにやわらかい。
「だが君は今、知ろうとしている。その目で見て、心で感じようとしている。それは、何より尊いことだと私は思う」
レティシアは、はっとして顔を上げた。
彼の表情には、微笑があった。どこまでも穏やかで、けれど誤魔化しではない、真実だけを宿した眼差し。
その言葉に、レティシアの胸がじんわりと熱くなる。
そんな彼がふと通りの奥を見やりながら、言葉を続けた。
「このあたりも、かつては浮浪者が多くいた。通りに影ができれば、どこかで焚き火が灯る――そんな風景が日常だったよ」
「そんな場所が……?」
レティシアが目を丸くすると、アルベルトは静かにうなずく。
「ジークフリート殿下の方針で、貴族に課された特別税が市街の再整備に使われ、行き場のない者たちに職と住まいが与えられた。豊かさというのは、自然に実るものではない。育てる意志があってこそだ」
「そうだったのですね」
そういえば、この国では随分と急進的な改革が進められていると聞いた。それで姉たちはこの国に嫁ぐのを嫌がったのだ。
だが、変化がないままではゆるやかに衰退するだけだ。王侯貴族の利益を追求するばかりでは、民はついてこない。
レティシアはゆっくりと息を吐いて、本をもう一度しっかりと胸に抱きしめた。
「わたし、もっと勉強をがんばります!」
燃えてきた。アルベルトはジークハルトの側近。であれば、レティシアもその支えとなれるように学びたい。そう思って宣言すると、思ったより大きな声が出てしまったみたいで、アルベルトは目を見開いていた。
その目がゆるゆると細められ、破顔する。とても美しくて、胸が騒いだ。
「賢い君にはあっという間に追い越されてしまいそうだ。さあ、馬車に戻ろうか」
アルベルトがそう言って歩き出す。レティシアもすぐにその隣に並んだ。
歩く道すがら、風がさらりと髪を撫でる。街はますます賑やかさを増し、どこからか子どもの笑い声が聞こえてくる。
――と、そのとき。
通りの向こうで、ガラガラという大きな音が響いた。
慌てて振り向くと、動きのおかしい馬車がこちらに向かってくるのが見えた。片方の車輪が激しくぶれていて、御者が馬を制御しきれていない。
「レティシア!」
その一言と同時に、アルベルトの腕が彼女の肩をぐっと引き寄せた。気づけば、彼の胸元に庇われるように抱き寄せられていた。
大きな体が前に出て、彼女をしっかりと包み込む。まるで盾のように、揺るがない存在だった。
レティシアは一瞬遅れて、彼の衣服の香りと、鼓動の近さに気づく。
(だ、大丈夫でしょうか)
震えながらそう思ったときには、馬車はすでに停止していた。御者がようやく手綱を立て直し、道端に寄せている。
それを確認したアルベルトが、ゆっくりと腕の力を緩める。
「無事に停まったようだな。君に怪我がなくてよかった」
その低く落ち着いた声に、レティシアは小さく息を飲み、胸元を押さえるようにうなずいた。
「旦那様、ありがとうございます」
心臓の鼓動がまだ速い。恐怖というよりも、彼の腕のぬくもりに対してだった。
そんな彼女の耳に、再び車輪の軋む音が届く。故障した馬車が、道の端へとゆっくり寄せられていく。
――そして、扉が開いた。
「お、お嬢様、ご無事ですか」
「なんてことだ……!」
震えるような女性の声が馬車の中から聞こえる。御者は狼狽しているようだ。
「ええ、大丈夫よ」
「ひとまず降りましょう。お嬢様」
はじめに見えたのは、絹のような銀の髪だった。
陽の光を受けて輝くその髪は、織物のように滑らかに揺れている。
鮮やかな青色のドレスに身を包み、淡く青みがかった瞳は涼やか。指先の動きひとつ、立ち姿ひとつにまで洗練された気品が宿っている。
(とても美しいお方。馬車が故障していたのでしょうか)
見たところ、目立った外傷がなさそうなことにレティシアはほっと胸を撫で下ろす。整備不良が問題だとすれば、きっとあの御者は咎を受けることになるだろう。
そう考えている時、隣でアルベルトの口から名がこぼれた。
「……イザベラ?」
その響きに、レティシアの胸が、きゅうっと縮こまる。
呼び捨て。それも、ごく自然に。驚きでもなく、礼儀でもなく――馴染みのある名前を呟くような声色だった。知り合いに出会うのは何も珍しいことではない。アルベルトはこの国の貴族なのだ。
(それなのに、どうしてこんなに胸がざわつくのでしょう?)
イザベラと呼ばれた令嬢は、優雅に歩を進め、こちらへと向かってくる。長い睫毛の下から向けられるまなざしは、どこか穏やかで、そして探るようでもあった。
「まあ、お久しゅうございます。アルベルト様。まさかこんな所でお会いできるとは思いませんでした」
その声音もまた、気品と理性に満ちていた。穏やかでありながら、どこか冷ややかな印象を残す。
アルベルトは軽くうなずいた。
「怪我はないか? 馬車の調子が悪かったようだが……」
「ええ、少し手入れが不十分だったようですの。けれど、こうしてお目にかかれたのは幸運でしたわ」
にこやかに答えるイザベラの姿は、あまりにも釣り合っていて、レティシアはぎゅっと本を抱きしめた。
(なんだか、馴染みのある会話に聞こえます……)
当たり前。そう思うのに。
言葉にならない思いが胸の奥でくすぶっていた。
お久しぶりです!
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