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16 お手紙


 その朝、邸の庭にはやわらかな日差しが降り注いでいた。爽やかな風が、庭園の草木を優しく揺らしている。


 レティシアは小さく深呼吸をした。マティルダに相談して決めた淡い紫色のワンピースのふわりと膨らんだ袖には花の刺繍が一針ずつ丁寧に施されている。

 髪は緩やかに編み込まれ、両側から優しく束ねられたそれが、後ろで一つにくるりとまとめられていた。


 いつもより少しだけ時間をかけたその髪型が、今日という日へのささやかな喜びを静かに物語っている。ものすごくそわそわしたのだ。


(アルベルト様は……あっ、いらしたわ)


 玄関ホールに足を運ぶと、そこにはすでに外出の支度を整えたアルベルトの姿があった。


 深い藍色の上着に、銀の装飾が静かに輝く。高貴な雰囲気を纏った横顔は、朝の光の中で一層端整に映えていた。


「アルベルト様、お待たせしました」


 スカートの裾を摘み、丁寧に礼をするレティシアに、アルベルトはわずかに目元を緩める。


「ちょうど私の方も支度が整ったところだ。行こうか」

「はい」


 軽く手を差し出され、レティシアはその手を取って玄関を出る。すでに馬車が門の前で待機しており、二人は並んで乗り込む。


「昨夜は、よく眠れただろうか?」


 車内に座ると、アルベルトがふと尋ねた。

 その声に、レティシアはぱっと笑みを浮かべる。


「はい。ラヴィとくっついて寝ましたから、すごく安心して……ぐっすりです」


 嬉しそうに答える彼女に、アルベルトは一瞬だけ言葉を失ったように瞬きをする。だが、すぐに軽く咳払いをして、視線を窓の外へと逸らした。

 本当は少し寂しかったけれど、レティシアはその気持ちをなんだか口にできなかった。


「……そうか。それは、何よりだ」


 微妙に低くなった声色に、レティシアは首を傾げるが、すぐに明るい声で話題を変えた。


「今日、とても楽しみです!」


 文具店、どんな所なのだろう。ずっと離宮にいたから知らない世界だ。こうして馬車でお出かけするのも、なんだって初めて。


「ああ。存分に楽しもう」


 アルベルトはワクワクとした様子のレティシアを見て、口の端を緩めた。

 馬車はゆっくりと動き出し、穏やかな朝の光の中、ふたりを町へと連れ出していった。



***


 その文具店は、王都の南西区――貴族街にある静かな通りの一角にあった。


 かつて文官たちが出入りしていた古い書庫の跡地を改装して作られたその店は、外観こそ素朴だが、磨かれた真鍮の取っ手や深緑の看板が、控えめながらも品のよさを滲ませていた。


 店の前には細い運河が流れ、小さな石橋がかかっている。窓辺に飾られたドライフラワーのリースが、柔らかな日差しに照らされて揺れていた。


「さあ、レティシア。好きに見ていい」

「ありがとうございます……!」


 文具店の中は、インクの香りと紙の匂いがほのかに混じり合い、落ち着いた雰囲気に包まれている。


 レティシアは目を輝かせながら、小瓶のインクや繊細なレースの縁取りが施された便箋、金の装飾がついた封蝋セットを次々と手に取っては、そっと元に戻すを繰り返している。


「これは、ジゼルに……でも、こっちのほうが落ち着いていて素敵かも……ああ、でもこの色も」


 呟きながら棚の前を行ったり来たりしている姿は、まるで迷子の小鳥のようだった。


 アルベルトはそんなレティシアの後ろに控え、どこか楽しげにその様子を見つめていた。腕を組んで立ちつつ、彼女が迷うたびに目を細め、時折ほんのわずかに笑みを浮かべる。


 「奥様、贈り物ですか?」と、店の奥から現れた老店主がにこやかに声をかけた。


 レティシアは「はい!」と嬉しそうにうなずくと、「友達に手紙を書きたくて、でも、どれも素敵で迷ってしまって……」と頬を染める。


 「それは良いことでございますね。誰かを想って筆を取るのは、心を育てる作業です」


 店主のその言葉に、レティシアははっと目を瞬かせ、それから恥ずかしそうにうつむいた。


 アルベルトはその隣で、そっと一言だけ添える。


 「君の選んだものなら、どれでも喜ばれるだろう」


 その言葉に、レティシアの耳までほんのり赤くなった。

 店主はそんな二人のやり取りに気づきながらも、あえて何も言わず、にこやかに応じる。


 レティシアは棚に並ぶ便箋の中から、小さな小鳥があしらわれた一組をそっと手に取った。やわらかなクリーム色の紙に、春を思わせるような草花と、枝にとまる二羽の青い小鳥。どこか、ジゼルの笑顔を思わせるような、穏やかで温かな雰囲気だった。


「これにします。ジゼルに似合いそうで」


 アルベルトが静かにうなずいた。


「いい選択だと思う」


 レティシアは満足げに笑みを浮かべて、便箋を抱えるようにして胸元に収める。そして、ふと視線を落とし、棚の中ほどに並ぶ封筒やカードをゆっくりと見つめ始めた。


 そんな様子を見ていたアルベルトが、ふと問う。


「どうかしたか?」


 その声にレティシアは小さく肩を揺らし、すぐに「いえ」と笑って首を振った。


「……ただ、アルベルト様とお手紙を交わしていた頃も、こうして文具を選ぶことができたらよかったのにな、と……少しだけ思っただけです」


 与えられた紙に、定型句と社交辞令を並べていたあの頃。アルベルトの人柄も、この穏やかな暮らしも、何ひとつ知らなかった。


 けれど、代わり映えのない日々の中で、彼との文通は唯一の彩りだったように思う。


 何も持たされてはいなかったけれど、アルベルトへの手紙だけは、王妃の指示で優先されていた。だからその時間だけは、誰にも奪われなかった。


(今ならきっと、もっと大切に書けるのに)


 レティシアは、ふと黒猫の模様が入った小さなカードを見つけて手に取る。ふわふわの尾をくるんと巻いた猫が、羽ペンを抱えている姿に思わず笑みがこぼれた。


 「……あの、アルベルト様」


 声をかけた瞬間、自然と頬が熱を帯びる。


 「今度また……お手紙を書いても、よろしいでしょうか」


 その言葉に、店内の空気がふっと和らぐ。


 アルベルトは少しだけ目を見開いたが、すぐに唇を綻ばせて、静かに――けれど確かな温かさをもって頷いた。


 「もちろん。君からの手紙なら、何通でも歓迎しよう」


 その穏やかな笑みに、レティシアだけでなく、やり取りを見守っていた店の主人や店員たちまで、どこか頬を緩めている。

 控えめなやり取りのはずなのに、そこには誰もが温かくなるような幸福が、確かに流れていた。

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