14 穏やかな昼下がり(?)
アルベルトの母、前公爵夫人の名前をクラリスからカトリーヌに変更しています。
昼の陽が差し込む食堂には、温かな香りが満ちていた。
籠いっぱいに焼き上げられたパン、香草のバターが添えられたローストチキン。湯気を立てる野菜のスープには、畑で採れたばかりの豆や人参が彩りよく浮かんでいる。
長旅から戻ったアルベルトのためにと、料理長が腕によりをかけた献立だった。
(とっっってもおいしそうです……!)
白いクロスの上で、磨かれた銀のナイフが光る。
その向かいに座るレティシアは、髪をきちんとまとめ、胸元に小さなブローチをつけていた。
どこか浮き立つような、そんな気持ちだ。
「さて、君はこの数日……どう過ごしていたんだ?」
アルベルトはまずグラスの水を一口飲んでから、向かいに座るレティシアへと視線を向けた。
白のシャツに濃紺のベストを重ねた彼は、すでに着替えを済ませており、いつものように端正で隙のない装いをしている。
緩やかに撫でつけられた前髪の奥、その灰銀の瞳が穏やかに揺れていた。
今まさにチキンを切ろうとナイフを構えていたレティシアは、何事も無かったかのようにお淑やかにそれを置き、にこやかに微笑んだ。
「はい。昨日は、ハーブ畑を整えていました。ノートルさんと一緒に、カモミールとタイムの苗を植えたんです」
「ハーブか」
「はい。乾燥させてお茶にしたり、お風呂に浮かべたりするのにちょうど良くて。摘んでいるとき、香りがふわっと広がって、とても癒されました。摘んだローズマリーはこのお肉に使われていそうです」
レティシアが声を弾ませると、アルベルトはふっと笑みを零す。
一見すると冷たくも見える端整な顔立ちが、今は春の日差しのようにやさしく緩んでいた。
「君らしいな。楽しそうでよかった」
「……先程はお見苦しいところをお見せしました」
よりによって、ここ最近で一番土まみれだったような気がする。ドレスの裾についた泥を思い出しながら、レティシアは苦笑した。
それでも、アルベルトが帰ってきたことが嬉しくて、レティシアはそのまま駆け寄ってしまったのだ。
食事を進める中で、アルベルトが「そうだ」と声を上げる。
レティシアはちょうど、お肉を頬張ったところだった。皮目はパリッと香ばしく焼けていて、弾力のある肉を噛めば肉汁が口いっぱいに広がる。
そこにスパイスの風味も広がり、なんとも言えないおいしさだ。
「君が留守中に困らないように、母を呼んでいたのだが……どうだっただろうか。本当は私が同席するべきだったのだが」
そう言ってアルベルトは、わずかに眉根を寄せた。困ったようなその表情に、レティシアの胸がくすぐったくなる。
彼なりに気にかけてくれていたのだと分かって、思わず唇に微笑みが浮かんだ。
急いでお肉をたくさん噛んで、ごくりと飲み込む。
「とても、楽しかったです。カトリーヌ様との生活は、学びがたくさんありました。領地のお祭り、わたしもとても楽しみです!」
レティシアがそう答えると、アルベルトは少しほっとしたように息をついた。
その姿を見て、彼の優しさが胸に染み入る。
「そういえば、アルベルト様は以前もグランチェスターを訪ねたことがあるのですね」
「ああ。三年ほど前に。その時は父と一緒だったんだ」
その時に、レティシアを見たのかと納得する。
もちろん当時のレティシアは重要な会合や夜会のことなど何も知らされていないから、いつも通り庭園を耕していたのだろう。
囲まれていた花々はきっと、薬草や野菜のものだったのではないだろうか。
「……花の精……」
ふと、あの時カトリーヌから聞かされたことを思い出し、口をついて出てしまった。
言い終わるか否かのうちに、レティシアははっとして口元を押さえた。
それは確か、カトリーヌから「内緒にしておきましょうね」と、こっそり言われた話だったはず。
(やってしまいました……!)
恐る恐る顔を上げると、アルベルトは一瞬きょとんとした後――
静かな表情のまま、ほんのり耳の先を赤く染めていた。
「……そうか。母上はそんなことまで……」
小さく漏らされた声には、怒りの色はなく、むしろどこか照れたような響きがあった。
レティシアは内心ほっとしながら、そっと微笑む。
「ありがとうございます。見つけてくださって」
思っていた冷遇生活とは違って、とても優しく穏やかな日々。その発端が三年前の出会いだったとするならば、なんという奇跡だろう。
レティシアの一言に、アルベルトは少しだけ視線を逸らすようにして、言葉少なに頷いた。
食卓に漂う静かな空気の中、レティシアはふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、カトリーヌ様がお茶会を開いてくださいました」
その声に、アルベルトがゆっくりと彼女の方へ視線を向ける。
何か意外に思ったのか、瞳がわずかに丸くなった。
「お茶会を?」
「はい。小規模なものでしたけれど、侯爵夫人や伯爵家の令嬢の方々がいらして……」
話しながら、レティシアの頬には自然と微笑が浮かんでいた。
あのときの華やかなティーテーブル、初めて交わした丁寧な会話、緊張の中にもあった温かさを思い出す。
「最初はとても緊張しましたけれど……気がつけば、皆さんと少しずつお話ができるようになっていて。お一人とは、今でも文を交わしているんですのよ」
そう語るレティシアの横顔は、どこか誇らしげだった。
彼女にとって友達という存在は、これまで決して当たり前ではなかったのだ。
アルベルトはしばし黙ってレティシアの言葉を受け止めていたが、やがてわずかに目を細める。
「そうか。それは、よかった」
「はい……!」
美味しい昼食と平和な会話。
またとない日常だ。
レティシアはホクホクとしながらも、そういえば、と思い出した。手紙の件だ。
「あの、アルベルト様。以前わたしたちが交わしていた手紙についてなのですが……その、わたしがいつも手紙を預けていた使用人がいて――」
アルベルトが不在の時に気が付いた事だったけれど、伝えた方がいいだろう。
姉たちに強制的にやらされていたとはいえ、アルベルトにとっては手紙の偽造に加担した者に過ぎない。
出来たら彼女に温情をと思うけれど、それを陳情していいものかが悩ましい。
言葉に詰まったレティシアを見て、アルベルトは「ああ」と相槌を打つ。
「グランチェスターで、君のことを心配している使用人がいた。今は口外しないように伝えている」
「お会いになったのですか?」
「ああ。向こうから声をかけてきた。良心の呵責に耐えられなかったのだろう。手紙の件については、時機を見て断ずるつもりだ」
アルベルトは窺うようにレティシアを見ている。彼はきっと、何かの段取りをつけているのだろう。
「……そのメイドは、いつもよくしてくれたのです。姉たちの手前、どうしようもない場面もありましたが。出来たら、幸せになって欲しいと思っています」
幸せを祈る定型文が添えられた偽造の手紙。
彼女なりに、なんとか悪意から手紙のやり取りを守ろうとしていたのだと思う。
レティシアも真っ直ぐにアルベルトを見据える。
「……悪いようにはしない。グランチェスターはそれどころでは無いかもしれないが」
「え?」
どういう事だろう。
そう思ってレティシアが首を傾げると、アルベルトは深くため息をついた。
「――いずれ君の耳にも入るだろうから伝えておく。グランチェスターの寵妃であるマルシアーナ妃が逃亡した……そうだ」
「えっ」
なんだかとってもとんでもない事を聞いてしまったような気がする。
レティシアは目を丸くしてアルベルトを見つめたのだった。
(お母様が逃亡????? えっ????)