13 帰還
澄んだ朝の光が少し高くなりつつある頃、レティシアは裏庭の畑で土にまみれていた。麦わら帽子のつばを押さえながら、芽を出したばかりの芋の苗にそっと指を添える。
種芋からさらに新しい芋が育つなんて、不思議な仕組みだ。春の芋はホクホクとしていて、素揚げして塩をかけただけでも美味しいらしい。
(よし、今日も元気そうです)
泥にまみれた指先が、慎重に余分な芽を摘んでいく。単純な作業だが、不思議と心が落ち着く。毎朝の手入れは、今や彼女の生活の一部になっていた。
「奥様、そろそろお日様が高くなりますよ」
庭の一角で草を刈っていた庭師が、優しく声をかける。レティシアは小さく頷き、手のひらで額の汗を拭った。
「ありがとうございます。でももう少しだけ……」
「しかし、日に焼けてしまっては私がマティルダに叱られますので」
「ふふ。ごめんなさい。ここまでにしますね」
そのときだった。敷地の前方、表門の方から馬車の音が響いてきた。石畳を小気味よく叩く、あの規則正しい蹄の音。
庭師のノートルがそっと目を細めて言う。
「こりゃあ、旦那様のお帰りでしょうな」
「まあ、旦那さまが」
その言葉に、レティシアは思わず顔を上げた。帽子を脱いで抱え、両手の泥をエプロンで拭う。
頬がぱっと明るくなった。
胸の奥が、高鳴っている。ほんの数日会っていなかっただけなのに、まるで何年も待っていたような気持ちだった。
アルベルトが留守の間、この屋敷で公爵夫人のあれそれを教えてくれたカトリーヌは急用が出来たと言って昨日バタバタと帰っていった。
忙しない滞在だったが、彼女の明るいパワフルさに救われもした。
母親というもの、貴族夫人というもの。
レティシアにとって学ぶことばかりの時間だつた。
(旦那様、お戻りは夜遅くかと思っていました)
確かそう聞いていた。
まず城に到着し、執務を済ませた後に家に戻るという予定だったはずだ。
スカートの裾をたくし上げ、レティシアは玄関へと駆け出した。朝露に濡れた小道を踏みしめながら、真っ直ぐに門の方へ向かう。
屋敷の玄関扉が開かれたのは、ちょうどそのときだった。
数名の従者に先導されて、見慣れた長身の男がゆっくりと姿を現す。風に揺れる黒髪。見慣れたコートの裾。
アルベルトが帰ってきたのだ。
レティシアは玄関前に立ち止まり、胸の前でそっと手を組んだ。彼女の瞳は、誰よりも優しい光を帯びて、ただまっすぐに彼の姿を見つめている。
玄関に立ち尽くすレティシアに、アルベルトはひとつ息を吐き、歩を進めた。馬車から降りたばかりの彼は旅装のままだが、その表情はどこか柔らかかった。
「お帰りなさいませ、旦那様!」
そう言って、彼女は丁寧に一礼した。だが次の瞬間には、礼儀を忘れたかのように顔を上げ、思わず口元が綻ぶ。
「ただいま、レティシア」
低く落ち着いた声。その響きに、レティシアの瞳はわずかに潤む。
「ご無事でよかったです」
「ああ、ありがとう。君の方は変わりなかったか?」
「はい! お芋の芽がとても元気に伸びてきて……あ、でも少し間引きが必要なんです。大きく育ったら、まん丸のまま揚げてもらう約束をしました」
「ふ、そうか。それは何よりだ」
レティシアは手のひらを揃えて説明しながら、どこか誇らしげに微笑んだ。土の匂いをまとったまま、それでも彼女は今日も変わらず、庭の恵みを語る。
そんなレティシアの事を、アルベルトは優しく見守ってくれている。
「旦那様。お帰りがご予定よりもお早かったですね」
レティシアの言葉に、アルベルトは頷く。
「ああ。真っ直ぐ家に帰ることにした」
その言葉に、レティシアの胸がわずかに鳴る。
だが彼はそのままじっと、彼女の姿に目を留めた。
レティシアはその視線に気づき、はたと我に返った。
「あっ……!」
思わず声が漏れる。
指先が泥だらけ、腕には土の粉、エプロンにも葉っぱがついていた。
「し、失礼しました! お見苦しいところをお見せして。すぐ洗ってきます!」
「レティシアさま。湯の用意は出来ております」
「そうなのですね。マティルダ、ありがとう」
スっと登場した侍女は、何事も無かったようにレティシアに告げる。さすがだ。
入浴のために慌ててその場を離れようとしたとき、アルベルトがふいに口を開いた。
「一緒に入るか?」
「えっ?」
レティシアの足が止まる。振り返った顔が、ぱっと赤くなる。
一瞬の静寂。鳥のさえずりさえ、どこか遠のいたような気がした。
二人は言葉もなく見つめ合い――
「じ、冗談だ……」
発端のアルベルトが顔をそらして咳払いをする。
「そ、そうですよね、冗談、ですよね。うふふふふ」
レティシアも真っ赤な顔のまま、へんな笑いを浮かべた。
「……」
「……」
その場に、どこか照れたような沈黙が流れる。
なんともまあ、ムズムズとした雰囲気である。
その場にいる使用人、侍女、護衛騎士は皆、存在を消して空気と化すことに徹する。
ここに前公爵夫人が居たら、何かと口を出してしまっていたかもしれない。
「……では旦那様、少し御前を失礼いたしますね」
「ああ」
レティシアがおずおずとそう言うと、アルベルトは柔らかな笑みを浮かべていた。
「君の顔を見て、ようやく帰ってきたという実感が湧いたよ」
その言葉に、レティシアの肩がぴくりと震える。どうしたというのだろう。アルベルトの声がまっすぐに胸の奥に届いて、苦しくなった。
「……あの、ありがとうございます。私も旦那様のお帰りをお待ちしておりました……!」
レティシアは俯いたままぺこりと頭を下げると、くるりと踵を返して屋敷の中へと駆け込んでいった。
土のついたエプロンがふわりと揺れ、アルベルトが静かに見送ってくれているのがわかる。
ただいま。
そして――おかえり。
それはどこか、家族の気配に満ちた、あたたかな空気だった。
(どうしたのでしょう。心臓が痛いです)
アルベルトが無事に帰ってきてくれたことが嬉しい。
ささやかな挨拶を交わすことが、家族と笑顔で会話をすることが、なによりも嬉しい。
あまりにも幸福で、身に余るものに感じてしまう。
「さあ奥様。旦那様と一緒に昼食をご用意しますので、それまでに身支度を済ませましょう」
「は、はい」
湯浴みに着いてきてくれているマティルダは、他にも颯爽と現れたメイドたちにテキパキと指示をする。
「マティルダ様、どのドレスを準備しておきましょう?」
「カトリーヌ様がお持ち下さっていたものの中に淡いラベンダー色の物があったでしょう。それを用意して」
「はい、わかりました」
「食堂の準備を抜かりなく。奥様が育てているマーガレットを飾ってください」
「はい!」
されるがままになりながら、レティシアはどこかほっこりと安心していた。
屋敷にはいつもの温かな日常が戻ってきた。
遅くなりました…!
色々と立て込んでしまったので、しばらく更新ペースが遅れるかもしれません。でも絶対最後まで書きますのでよろしくお願いします⸌⍤⃝⸍⸌⍤⃝⸍⸌⍤⃝⸍