●アルベルトの結婚生活⑧
サミット閉幕を翌日に控え、城の空気にはどこか張り詰めた疲労感が漂っていた。
使節たちはそれぞれの帰国準備に追われ、公式行事もほとんど終了しているはず――だった。
「陛下より、ジークフリート王子殿下とリューべルク公爵閣下にご内命です。王城西棟の応接間へご案内いたします」
告げられた言葉に、客室にいたアルベルトとジークフリートはわずかに眉を寄せる。
(このタイミングで……、まさか)
アルベルトがジークフリートの方を見ると、彼は不敵に微笑んでいる。
「まさか……実現するとはな」
「開幕での言葉を無視できなかったのでしょう」
二人は言葉少なに歩を進めた。案内されたのは、王城の奥――普段使われる謁見の間ではなく、静まり返った私室の一角だった。
扉が開け放たれた室内は、夕焼けの光を受けて、琥珀色の帳が降りている。
中央に立つのは、グランチェスター国王。そして、その傍らには一人の女性が座していた。
ベールの下からのぞく白磁の肌、整えられた白金の髪。
首元には幾重にも宝石が飾られ、手首には細工を凝らした金の装飾。
まさに寵妃の姿――王の寵愛を受けていることが一目でわかるほどの華美さだった。
だがアルベルトの目は、その華やかさではなく、裾に施された刺繍へと向けられていた。
ひらりと揺れたドレスの裾。
そこに隠されるようにして咲く、草花の意匠。
(たしか、翼草だったか。アルメリアの意匠だ)
細密な蔓の曲線と、小さく羽を広げたような草の模様。それはかつて、滅びた公国を象徴するものだったと教えてもらった。
「グランチェスター国王。お招きいただき感謝する」
ジークフリートがやや尊大に腰を折る。
昔から、大胆で肝の座った男である。そばに居たアルベルトが何度冷や汗をかいたことか。
「ジークフリート殿下の要望があったのでな……。会わせぬまま帰らせるのも礼を欠くと思い、こうして場を設けた」
グランチェスター王の声音には、明らかな不快が滲んでいた。
重要な存在を見せる羽目になった――そんな本音が透けて見える。
「ははは。ご容赦ください」
ジークは笑いながら進み出て、王ではなく、隣の女性をじっと見つめた。
彼女は静かに顔を上げ、ゆっくりと頭を下げた。
「はじめまして。マルシアーナと申します」
その声はごく静かで、けれど柔らかな響きを持っていた。
アルベルトは彼女の名を聞いた瞬間、背筋を伸ばした。
マルシアーナという名前の愛称はマーサやシア。かつてレティシアに乳母として名乗っていたのは、確実にこの女性であろう。
肘のあたりまでの手袋に、極端に露出の少ない服装。母として堂々と会うことが出来なかったのは、この王の執着によるものの他はあるまい。
(しかし、どうやって侍女のふりをしてレティシアのところへ……。もしかして、部屋を抜け出していたのだろうか?)
儚げな印象の元公女が、そうしたことをするようには見えない。そう考えたところで、アルベルトの脳裏には庭の畑で嬉しそうに土いじりをする妻の姿が浮かんだ。
……前言撤回である。
(十分ありえるな、うん)
アルベルトが遠い目をしている間も、グランチェスター王とジークフリートが何やら話をしている。
マルシアーナ妃は、ただ頷きながらそれを聞くのみだ。
「……さあ、もう十分であろう?」
グランチェスター国王がさっさと会話を切り上げようとする。よっぽど寵妃を閉じ込めておきたいらしい。
やれやれと言った様子のジークフリートは肩を竦め、それでも椅子を引いて静かに立ち上がる。
アルベルトもそれに続き、二人は王に形式的な礼を取った。
「この度は一席設けていただき感謝します。陛下と妃殿下の御身に、変わらぬ光と安寧がありますよう」
ジークフリートがそう述べる。
会話は不完全燃焼のまま終わったが、もとより、この場で真実を語ることなど叶わないことは分かっていた。
ただ、レティシアの母親が息災であることが喜ばしい。そう思ったアルベルトが扉へ向かおうとしたそのときだった。
「リューべルク公爵様」
背後から、やわらかな声が響いた。
アルベルトが振り返ると、マルシアーナ妃は小さく会釈しながら、静かに口を開いた。
装飾に彩られた手が、膝の上で固く握られている。
「レティシアは、元気にしていますか?」
それは、まるで息をひそめて放たれた祈りのような問いだった。
アルベルトはまっすぐにマルシアーナを見て、小さく頷いた。
「はい。とても元気にしています。毎日穏やかに暮らしております。こちらのハンカチはレティシアが縫ってくれたものです」
アルベルトは懐からあのハンカチを取り出す。
肌身離さず身につけている、刺繍入りのものだ。
「彼女が大切な方から教えてもらったという刺繍を、私にも披露してくれています。ご安心ください」
「っ!」
その一言に、マルシアーナがわずかに震えたように見えた。
涙は落ちない。泣くことさえ許されない立場を、彼女は自分に課しているのだろう。
「では、失礼いたします」
アルベルトはそれ以上、余計なことは言わなかった。ただ一度、深く頭を下げ、扉の向こうへと歩き出した。
***
グランチェスター王都を出て半日。
一行は南へと延びる街道沿いの宿駅に立ち寄っていた。
簡素な造りの宿舎。その一室で、ジークフリートは無言のまま卓上に広げた地図へと視線を落としている。
その指先が、とある南部の町で止まった。
目立たない名だ。軍も商人も通らない、王都から見れば影のような存在に過ぎない。
「国境を越えたら、バルナバスはこの町へと移動するように。後方の馬車をひとつと、この手紙を丘の上の屋敷で見せるんだ」
地図を畳みながら、ジークが呟くように言った。
「……はっ、承知しました」
「馬車の荷を届けてくれ。丁重に扱うんだぞ? かなり大切なものだから、お前もそこに残って警備をしろ」
「了解しました。殿下、お預かりいたします」
命じられた騎士は、表情ひとつ変えずに頷く。
それから、バルナバスは小屋を出た。きっと、例の荷物が乗った馬車へと向かうのだろう。
その背を見送りながら、アルベルトが横目でジークに視線を寄越した。
「全く、とんだことになりましたね」
真顔で言ったつもりだったが、返ってきたのは実に軽やかな声だった。
「こればかりは想像できなかったな。ははっ!」
ジークは肩を揺らして笑った。
まるで旅先で珍しい逸話を拾った旅人のように、実に楽しげだ。
アルベルトは半眼で彼を見やる。
「笑いごとではありませんが」
「わかってるさ。十分すぎるほど大事だ。だがな。こういう時に、笑えるかどうかが王の器ってやつなんだ。そうだろう?」
それは軽口にも聞こえるが、彼なりの覚悟の現れだった。
事態は確かに大きく動いている。
けれど、その重みに潰されず、面白がるだけの胆力をこの男は持っている。
アルベルトは息を吐き、前を向いた。
「せめてこの一件を無駄にしないよう、こちらも動かねばなりませんね」
「ああ。全く、おもしろいことだ」
ジークの横顔は、どこまでも晴れていた。
翌日、予定どおりにバルナバスはジークフリートに命じられた荷物を運ぶために南部へと向かった。
あの大男が荷馬車の荷台へと向ける目は優しく慈愛に溢れていて、なんだか見てはいけないものを見た気持ちにすらなる。
(さあ、どう出るか)
起こってしまったことはもう仕方がない。
アルベルトはひとつため息を着くと、帰路を急いだ。
無性に妻に会いたくなったからである。
グランチェスター王国の寵妃、マルシアーナが忽然と姿を消した――
その衝撃的な話題は、静かに、しかし確実に周辺諸国へと広まっていくこととなる。
お読みいただきありがとうございます。
国名と人名で混乱してきました!私が!
次はレティシア視点に戻ります。