●アルベルトの結婚生活⑦
初日のサミットは、実質的な討議に入ることなく、形式的な挨拶と議題の確認で終わりを迎えた。
「本日の議題確認はこれにて。詳細協議は明日以降に預けられますよう、各国の賢慮を仰ぎます」
閉会の言葉が読み上げられ、重たい扉が開かれる。
使節たちは静かに退出し、控室や休憩所へと散っていった。
「……形式だけとはいえ、骨が折れるな」
廊下を歩きながら、ジークフリートがぽつりと漏らす。
「こちらが冷や冷やしました」
「はは! アルベルトがいい感じに止めてくれるだろうなと思っていたからな!」
「まったく……」
楽しそうに笑うジークフリートにアルベルトが剣呑な瞳を向けたその時――
「ヴェルテンシュタイン王国のジークフリート殿下にリューべルク公爵」
明るく透き通るような声が、廊下の奥からかけられた。
姿を見せたのは、金髪を波のように流し、一見すると気品に満ちた笑みを浮かべている女。
隣には、涼しげな目元で笑う女がもう一人。
これらが第一王女と第二王女なのだろう。
まるで獲物を見つけた猫のように、ジークの元に歩み寄ってくる。
「本日はお疲れ様でした。お時間があれば、ぜひお茶でもいかがかしら?」
アンナが優雅に扇をたたみながら言い、エリザが続ける。
「妹の……レティシアの旦那様に、ぜひご挨拶したくて! ご存じの通り、王族の婚姻は国家間の絆そのものですもの」
アルベルトの表情がわずかに揺れる。
そう言われては、断る理由がない。たとえその言葉の裏に、レティシアを貶めたいという思惑が透けて見えたとしても――
「王太子殿下も、ご一緒に! ヴァルデンシュタインのお話、もっと聞かせていただきたいですわ」
アンナの視線が、ジークにも向けられる。
ジークは眉を上げたが、すぐに肩をすくめると小さく笑った。
「これはこれは。お美しい姫君たちとお茶が飲めるなんて光栄です。行こうか、アルベルト」
ジークフリートがさらりと笑い、軽やかに言葉を乗せた。
「はい、ジークフリート殿下」
アルベルトもそれに続き、王女たちに丁寧な礼を取る。
ふたりの快諾に、アンナとエリザの顔が華やかに輝く。
「まあ、素敵なお茶会になりそうね」
「ええ、本当に。少しでも妹のことをお話できたら嬉しいわ!」
はしゃぐような声音で微笑む王女たちの姿を前に、アルベルトは作り笑顔を浮かべながら、一歩後ろで黙した。
だが、心の内には、別の感情が激しく渦を巻いていた。
この王女たちが纏う豪奢なドレス。宝石のきらめき。磨き抜かれた爪先、手入れされた髪。
それら全てが、まるで「王家の娘に相応しい」と言わんばかりの威光を放っている。
自分のもとに嫁いできたレティシアが、どれだけ質素な衣装で現れたか。侍女も連れていないことに驚いたが、レティシアの前でそれを言うことは憚られた。
(彼女はずっと……どんな気持ちだったのか)
奥歯を噛みしめる。だがそれを顔には出さず、アルベルトは丁寧に笑って見せた。
「……それでは、ご案内いただけますか。姫君方」
その笑顔は、あくまで完璧な公爵の仮面。
だが、その裏にある怒りの熱は、確かにジークには伝わっていた。
ちらりと視線を送ると、ジークはほんのわずかに唇の端を上げ、「落ち着け」とでも言いたげに顎を引いた。
◇◇◇◇
グランチェスターに滞在して、今日で五日目。
明日の閉会をもってこの会議自体は終わる。
陽の高い午後、王宮の中庭に設けられた白いティーテーブル。その前に腰かけたアルベルトは、無表情という名の仮面を、丁寧に整えていた。
「まぁまぁ、公爵様ったら……そんなふうに見つめられたら、恥ずかしくなってしまいますわ」
第一王女アンナが、艶やかに笑いながらカップを持ち上げる。わざと指を滑らせるようにして、茶器を危うく傾けるその仕草には、わざとらしい媚びが含まれていた。
その隣で、第二王女エリザが小首を傾げる。
「本当に、驚きましたわ。まさかあのレティシアが、公爵様のような素敵な方を夫に持つだなんて」
「そちらでなにか粗相はしていないかしら? あの子ったら勉強もてんでダメで……先生も呆れておりましたの」
「そうそう。お人形みたいに黙ってばかりで。愛嬌というものをまるで知らない子でしたものね。その点アンナお姉さまはいつも誉められていて」
「まあエリザったら!」
二人の姉王女が、優雅な笑みを交わしながら、さも他愛ない昔話のように語る。だがその言葉の一つひとつが、アルベルトのこめかみに鈍く痛みを与える。
(……不快だ)
甘い香りの紅茶と茶器の音にまぎれて吐かれる、薄汚れた悪意。
彼女たちは今なお、レティシアを「取るに足らない存在」として見ている。
そしてその上で、自分を気に入らせようと、品のない媚を織り交ぜてくる。
アルベルトはなんとか表情筋を総動員させて、静かに笑みを作る。
(バルナバス、上手くやってくれよ)
穏やかに見える茶会の時間に、護衛として連れて来たバルナバスはこの王宮を散策という名目で調査をしている。
次回この国を訪問する時には、万全の準備をしてアルメリア公女をなんとか救い出そうという作戦だ。
あくまでこの機会は下見。
そのために、反吐の出るような茶会に参加して時間を稼がねばならない。
別行動をしているジークフリートは、各国の大使らと自由に会談をしているようだ。
「お二人は、妹君のご結婚について、事前にお聞き及びではなかったのですか?」
平静を装うアルベルトの問いに、アンナとエリザは顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「ええ、聞いてはおりましたわ。でも、まさか本当に決まるなんて」
「最終的には父上がお決めになったことですから、口出しはしませんけれど――」
エリザが紅茶を口にしながら、まるで愉快な芝居でも見るように肩をすくめる。
「あの子、とっても必死でしたの。『どうしてもこの婚姻を』『公爵様は私にこそ相応しい相手です』って」
「あまりに必死すぎて、わたくしたちは目を丸くするばかりで。昔から美しい殿方に目がない子で、護衛騎士も侍らせていたわね」
「ええアンナお姉様。それにレティシアったら、夜会の度に貴族子息たちを品定めしたりして……」
「まあエリザ。公爵様の御前ですわよ」
クスクスと扇で口元を隠して笑う二人の王女。
――だが、その言葉の一つひとつが、アルベルトの神経を逆撫でしていた。
こめかみのあたりがじわりと熱を帯びる。仮面のような微笑の下で、怒りが脈打つ。
ピクリ、と額に青筋が浮かんだのを自覚しながらも、アルベルトは言葉を呑み込んだ。
今、この場で感情をぶつけても意味はない――そう自分に言い聞かせていた、その時だった。
カンカンと、午後の鐘の音が鳴り響く。
その音にかこつけるように、アルベルトは静かに席を立った。
「王太子殿下との合流の時間ですので、これにて失礼いたします」
「まあ、もう終わりですの?」
「もう少しご一緒にいただけるかと……」
名残惜しそうに声をかける王女たちに、アルベルトは一礼だけを返し、踵を返した。
*
ティールームを出てすぐの廊下。絨毯の上を静かに歩くその背に、こそこそと忍び寄る足音が聞こえた。
立ち止まると、背後から声がかかる。
「……あのっ、リューべルク公爵様……!」
振り向くと、そこにはひとりの侍女がいた。年若い、目元に怯えを宿した少女。制服の袖が小刻みに震えている。
「どうした?」
「は、はい……。あの、第三王女殿下とやり取りをされていた手紙のことで……本当は……わたし……」
喉の奥で言葉が詰まり、彼女は口元を押さえた。
青ざめた顔、伏せられた目。言いたくても言えない、という苦しさが全身からにじみ出ている。
アルベルトはその様子を見て、すべてを察した。
(この娘が、命じられた侍女か)
レティシアの手紙が王女たちの手に渡った経緯に、何らかの形で関わってしまったのだ。
アルベルトは震える侍女にゆっくりと、柔らかく語りかけた。
「今は、これ以上言わなくていい。君の身を守りなさい」
侍女の目に、はらりと涙が浮かぶ。
「も、申し訳ありません……!」
「私が必ず、事実を明らかにする。それまでは、黙っていてくれて構わない」
少女はかすかに頷き、ひとつお辞儀をすると、すぐに足音を忍ばせて立ち去っていった。
誰もいない廊下に立ち尽くしながら、アルベルトは背筋を正す。
そしてゆっくりと歩を進めた。
(これでいい。駒は揃いつつある。――あとは、王家の影を暴くだけだ)