12 タウンハウスのお茶会
数日後、公爵邸では華やかな午後のひとときが始まろうとしていた。
カトリーヌが主催する、小規模ながらも由緒ある貴婦人たちのお茶会である。
長年親交のある旧家の奥方たちや、王都で名の通った上流階級のご婦人方が集まる場――つまり、若き新公爵夫人のお披露目の意味を含んだ顔合わせの席だ。
「まあまあ、懐かしいお顔ばかりで……!」
「カトリーヌ様とご一緒のお茶会なんて、何年ぶりでしょうね!」
艶やかな装いに身を包んだ夫人たちは、次々と訪れ、カトリーヌに笑顔で挨拶を交わしていく。その傍らに控えるレティシアは、緊張しながらも優雅に一礼を重ねていた。
(これは……やはり、私のための場なのですね)
表には出さないものの、レティシアはカトリーヌの配慮にすぐに気がついた。
王都のタウンハウスに住んでいる以上、社交の中での立ち位置は決して軽くはない。だからこそ、こうして名家の夫人たちと繋がりを持つことが重要なのだ。
(ちゃんと振る舞えているかしら)
不安になりかけたその時、カトリーヌがタイミングよく手を打った。
「そういえば、今日は皆さまにどうしてもご覧いただきたいものがあるのですわ」
「まぁ、なにかしら?」
カトリーヌの仕草ひとつで、侍女がそっとトレイを持ってきた。
その上に丁寧に並べられていたのは、淡く染められたシルクのハンカチ。
一枚一枚に異なる繊細な刺繍が施されている。
季節の花、微笑む天使、小さな月と星の意匠――それらすべてが、レティシアの手によるものだ。
「こちら、レティシアが趣味で作っておりましたの。なんでも、アルメリア公国の古い意匠を元にしているとか」
カトリーヌの紹介に、夫人たちの視線が一斉に集まる。
「まぁ、なんて細やかな刺繍でしょう……!」
「この色合い、どこか懐かしくて新しいわ」
「見て、この図案! この小花の曲線――とても素敵!」
目を輝かせて手に取り、歓声を上げる貴婦人たち。
中には「お取り寄せできるかしら?」「お揃いの扇子なんてどうかしら?」と話し合う声まで飛び出す始末だ。
レティシアは思わず戸惑いながらも、頭を下げた。
「恐縮です……あの、余暇のひとときに少しだけ楽しんでいるだけなのですけれど」
「まぁまぁ! これを“余暇”と呼ぶなんて、ご謙遜を!」
「ぜひ広めていただきたいですわ。わたくしのお茶会でも話題になりそう!」
その声に、カトリーヌがにっこりと笑いながら言った。
「レティシアは、まだご自身の魅力に気づいておられないのですのよ。……ね?」
顔を向けられたレティシアは、恥ずかしさに頬を染めながらも、小さく微笑んで頷いた。
刺繍針ひとつから、こんなにも人と繋がることができる。そのことが、何よりもレティシアの心をあたためた。
温かな紅茶の香りが広がる中、話題は季節の流行や新しく開かれる芸術展へと移っていった。
「最近、書物で見かけたのですけれど――西方の異国では、織物に植物染料だけでなく鉱石を用いる技法があるそうですわ」
貴婦人のひとりがそう語ったとき、レティシアは自然に会話に加わっていた。
「はい。私もその文献を読んだことがあります。確か、ルスカノ王国の赤土染めでしたでしょうか?」
遥か南方にあるルスカノ王国では、鉄分を多く含んだ赤土を精製して作る「ルスカノ染め」が伝統として受け継がれている。
深い赤褐色や柔らかな朱色が特徴で、使い込むほどに光沢を増し、肌馴染みがよくなる。
土から得た色で布を染めることは「大地の祝福を纏う」とされ、特に祝祭や婚礼の衣装によく用いられていた。
さらりと出たその言葉に、夫人たちは「まぁ……」と顔を見合わせる。
「そのような文献、よくご存じでいらっしゃるのね」
「はい。実は、刺繍の図案や染色について学ぶうちに、植物や鉱石の性質にも興味が湧いて。少しだけ、資料を読ませていただいておりました」
あくまで姉たちにバレないように。
そういえばあの先生も、レティシアのことを邪険にはしなかったな、と今さらに思う。共犯者のような存在だ。
レティシアの語り口は穏やかで、決して出しゃばることはない。
だが、その言葉には確かな知識と教養が滲んでいた。
「お若いのに……驚くほど聡明なお方ですのね」
「この間まで隣国の第三王女としか知らなかったけれど……とても素敵な方だわ」
貴婦人たちの視線は、好意と敬意を込めたものへと変わっていた。
その様子に、カトリーヌが満足そうに頷く。
「わたくしの息子がどれほど良き伴侶を迎えたか、皆さまにも知っていただけて嬉しい限りですわ」
「まったくですわ、カトリーヌ様。今後の社交界の中心になられる方かもしれませんね」
賛同の声が飛び交い、和やかな空気が広がる。
レティシアは胸の内でそっと思った。
知識も技術も、ひとりで静かに過ごすためのものだった。
けれど今は、それが人と繋がる手段にもなり得るのだと――はじめて実感できた気がする。
お茶会も終盤に差しかかり、貴婦人たちが談笑を楽しむなか――レティシアの隣には、一人の若い令嬢が緊張した面持ちで座っていた。
栗色の髪を編み込んでまとめた彼女は、控えめなリボンのドレスを着こなしながらも、どこか所在なさげにカップを手にしていた。
「こちらのお菓子はいかがですか?」
声をかけたレティシアに、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「……ありがとうございます。あの、リューべルク公爵夫人」
「レティシアで構いませんわ。私も、あなたのお名前をうかがっても?」
「はいっ……。ジゼル・ヴァルモンドと申します」
ヴァルモンドといえば、先程からカトリーヌ様と楽しそうに談笑している伯爵夫人の家名だ。きっとそことのご令嬢なのだろう。
「ジゼル様は刺繍はお好きですか?」
そう問いかけると、ジゼルは目を輝かせて小さく頷いた。
「はい! 実は……さきほどのハンカチ、素敵でした。あんな繊細な模様、見たことがなくて……!」
「もしよかったら今度一緒に刺繍をいたしませんか? マティルダに声をかけていただければ、いつでも」
「えっ、本当に……? い、いえ、ありがとうございます!」
ジゼルの頬がぱっと赤らみ、心から嬉しそうに笑う。
ドキドキしながら、思い切って声をかけてみて良かった。レティシアもほっと胸を撫で下ろす。
それを少し離れた席から見ていたカトリーヌは、グラスを口元に運びながら満足そうに微笑んでいた。
***
その日の茶会は、大成功といってよかった。
夜の寝室にて。
レティシアはベッドの脇に腰を下ろし、膝に手紙の束を抱えていた。文通時代、アルベルトに宛てて送ったもの――そして、受け取った手紙たち。
今になって、何かおかしいと感じる手紙がいくつかある。それは筆跡の微細な違いではなく――言葉の響きだった。
「……“あなたの幸せを祈っています”」
ぽつりと、口に出してみる。
それは、レティシアが一度も使った覚えのない結びだった。けれど、妙に優しく、どこか切なげな温かさを帯びていた。そう――まるで、誰かの祈りのような。
「……あ」
記憶の奥で、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。
アルベルトとの文通が始まった頃、書き上げた文を差し出すと、いつも決まって受け取りに来てくれた侍女がいた。
華奢で、控えめで――そして、いつも顔色が悪かった。
「この手紙、お届けしておきますね」と笑いながら、彼女はどこか焦りを滲ませた瞳をしていた気がする。レティシアが見えなくなったあと、手紙を握る指が、いつも震えていた。
そして――そうだ。
『……殿下の幸せを祈っています』
彼女は一度だけ、そんなふうに囁いたのだった。レティシアは静かに息をのんだ。
(まさか、あの子が……)
確証はない。けれど、思い返せば思い返すほど、その侍女が何かを伝えたがっていたような気がしてならない。
気づいてほしかったのだ。
きっと、姉たちに嫌がらせの片棒を担がされて、誰にも言えないままだったに違いない。
レティシアは手紙を胸に抱きしめ、静かに目を閉じた。