01 花も咲かぬ王宮にて
──時は半年ほど遡る。
グランチェスター王国は、広大な平原と穏やかな丘陵が広がる、温暖な気候に恵まれた国である。
かつては交易で栄えたが、現在は隣国ヴァルデンシュタイン王国の台頭により、国力を少しずつ落としている。
国土はヴァルデンシュタインの西側に位置し、国境には深い森と川が横たわっている。王都は小高い丘の上に築かれた美しい街並みを持つが、宮廷内の空気はどこか冷え切っていた。
その一角、王城の奥に佇む離宮には、ひっそりと一人の王女が暮らしている――。
「そんなに刺繍ばかりして……また下らないものを作っていたのね」
第一王女アンナの冷たい声が、離宮の静寂を切り裂いた。隣には第二王女エリザが立ち、鼻で笑っている。
(またいらっしゃいましたわ……)
第三王女レティシア・グランチェスターは、膝の上で大切に刺していたハンカチをそっと抱きしめる。美しい白金の髪に澄んだ青い瞳。儚げな美貌とは裏腹に、その心は驚くほどしなやかだった。
「そんなものをいくら作っても誰も喜ばないわよ。あんたが王族でなければ、ただの取るに足らない女だったでしょうね」
「……申し訳ありません、お姉さまがた」
「申し訳ないと思うなら、その腕をもう少し役に立つことに使ったらどうなの? せめて私たちのためにドレスの裾でも縫うとかさ」
「ふふっ、アンナお姉さまったら名案だわ! 今度の夜会のドレスはレティシアに刺繍をさせましょう」
「歪さが逆に話題になるかもしれないわね」
「いい考えですわ。夜まで刺繍でもして、余計なことを考えないようにしてもらいましょう」
アンナの言葉にエリザが同調するように笑っている。異母姉妹である二人の冷たい態度は、幼いころからずっと変わらない。
第二妃の娘であるレティシアは、十七になるまで何をしても認められることはなく、常に姉たちの陰にいた。
流行りのドレスに豪華な装飾品を身につけた姉たちは、離宮に追いやられているレティシアのところに定期的に現れては、こうしてひとしきり蔑んで帰っていく。
数着しかないドレスをなんとか繕いながら過ごしているレティシアのことなど捨て置けばいいのに、だ。
嵐が過ぎるのを待つように、ただ早く帰って欲しいと心で願う。
伏せた睫毛の陰で、レティシアの瞳がわずかに揺れる。けれどその実、心の中ではため息をついていた。
(お姉さまたち、ここの所毎日いらっしゃいますね。お暇なのでしょうか)
その儚げな外見とは裏腹に、レティシアの肝はわりとどっしりと座っていた。
「でもまあ、もうすぐこの国を出て行くんだから、そんなことも関係なくなるわね」
姉アンナの言葉に、俯いて床のシミの数を数えてやり過ごそうとしていたレティシアはハッと顔を上げた。檸檬の皮で擦れば取れるかしらなどと考えている場合ではないかもしれない。
「わたしが……この国を出るのですか?」
レティシアが眉を顰めると、珍しく反応したことが嬉しいのか姉のアンナがほくそ笑む。
「ええ。父上が決めたのよ。あなたは隣国の公爵家に嫁ぐことになったわ」
「隣国の、公爵家……?」
レティシアの胸が大きく波立つ。隣国への政略結婚――しかも、公爵家とは。どういう縁談なのか分からないけれど、それが何を意味するのかは、彼女にも分かっていた。
「まあ、私たちにとっては都合がいいわね。隣国の王太子も苛烈で恐ろしい人だっていうし、公爵家も似たようなものだわ。きっと誰もあんたみたいなみすぼらしい姫なんかには期待しないでしょう」
「まあこわ〜い! 盗っ人の娘のあんたが、隣国でふさわしい扱いを受けることを祈っているわね」
エリザが薄ら笑いを浮かべながら言って、二人の姉は満足そうに部屋を去っていった。
扉が閉まる音がして、ようやく部屋に静寂が戻る。
(やっぱりお姉さま方はただお暇だっただけなのね。それにしても、隣国ですか……)
部屋に一人取り残されたレティシアは、手の中の刺繍を見つめながら小さくため息をつく。
自分の存在は誰かの都合で決められる――それがレティシアのこれまでの人生だった。
国王である父は、吹けば飛ぶような小国の美姫だったレティシアの母に異常なほど執着し、半ば監禁するように傍に置いていると聞いた。
だからレティシアは、物心がついたときからずっとひとりだ。
それを元々身分の高い侯爵令嬢だった第一妃がよく思わない気持ちも分かるし、その矛先が寄る辺のないレティシアに向くのも……まあ分かるような気がしなくもない。許しはしないけれど。
「隣国は今、王太子が率先して改革を推進しているのでしたね。公爵家に他国の姫を嫁がせることで、何か得られるものでもあるのでしょうか?」
レティシアはそう考えて首をひねる。
相手に利のある縁談とはとても思えない。後ろ盾なんてないし、母の出身地である小国も数年前に帝国に取り込まれてしまった。
(一体どうしてなのでしょう。わたしでは先方に何のつながりも与えられないのに)
勉強嫌いの姉たちは、レティシアもそうだと思ったらしく、嫌がらせの一環でレティシアに勉強漬けの生活をさせたりしてきた。
本が大好きなレティシアにはもちろん苦痛でもなんでもなかったので、ありがたく享受する。
でも、講義が終わったあとはヘロヘロと困った顔をして、わざと勉強も出来ないように見せるようにした。そうすると、アンナたちは「なんて愚かなの、レティシアは」と醜悪な顔で笑うのだ。
泣きそうな顔を浮かべつつ、レティシアは内心ペロッと舌を出していた。
熱心に教えてくれた先生も黙認してくれたので、勉強の機会だけはまんまと手に入れた。
(ま、分からないことは考えても仕方ないですね! まずはこのハンカチを仕上げましょう)
レティシアは考えるのをやめて、刺繍を再開することにした。刺繍をしている時は、他に何も考えなくて済むからだ。