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11 母親

 翌日の午前。王都近郊にある公爵邸の前に、見目麗しい中型の馬車が到着した。


「ごめんくださいまし〜! レティシアちゃんはいるかしら?」


 エントランスにどこか明るく伸びやかな声が響く。


 その声に、レティシアは刺繍の手を止めて顔を上げた。侍女のマティルダが驚いたように玄関へと駆けていく。


「……まあ! 大奥様でございますか!」


 屋敷に現れたのは、アルベルトの母、カトリーヌ・フォン・リューベルク――前公爵夫人である。優雅なウェーブのかかった金茶の髪、明るく整った顔立ち、笑みを絶やさない表情に、堂々たる気品を湛えた女性だった。



「まあまあ、突然で驚かせちゃったわね! でも手紙は届いていると思うのだけれど!」


 そんな手紙があっただろうか。

 そう思いながらレティシアも階下へと急ぐ。


「は、はい……っ。カトリーヌ様、遠路はるばるお疲れ様でございます」


 レティシアが慌てて姿を現すと、カトリーヌはふわりと両手を広げた。


「まあまあ! ようやくお会いできて嬉しいわ、レティシアちゃん!」


 おずおずと一礼したレティシアを、カトリーヌは包み込むように抱きしめた。


「まあまあ、そんなに畏まらないで。わたくし、長年リューベルク家の女主人を務めてきたけれど、今はのんびり暮らしてるの。アルベルトが長く家を空けるって聞いたから、これは来なきゃと思ってね!」


「えっ……あ、ありがとうございます……?」


「ふふ、秋祭りのお話もしたいし、しばらくお世話になるわね!」


 圧倒的な存在感と共にカトリーヌが室内へと足を踏み入れた、その直後。


 ちょうど邸宅の郵便係が、館の裏口から郵袋を届けに来た。中には――ややくたびれた封筒が一通、挟まっていた。


「……差出人、カトリーヌ・フォン・リューベルク様……?」


 それはまさしく、数日前の日付のまま、領地から送られてきたらしい手紙だった。



 その日から、カトリーヌによるレッスンが始まった。


 教養、嗜み、接客の所作、家族の扱い、社交界での立ち振る舞い、そして――家庭内での気遣いまで。


 決して厳しくはなく、むしろ明るく賑やかに進む教えに、レティシアは驚きながらも心を開いていく。


「夫というのはね、いくつになっても“自分の居場所”があると落ち着く生き物なのよ。特にあの子は真面目で不器用だから、あなたが“おかえりなさい”と迎えてくれるだけで、ものすごく救われているはずですわ」


 カトリーヌが笑顔でそう言うと、レティシアはほんのり頬を染めながら、小さく頷いた。


 昼下がりのティータイム。お茶を淹れながら、カトリーヌはふと懐かしげに言った。


「そうそう、もうすぐ秋祭りですわね。あの子が小さい頃は、屋台で砂糖菓子を買っては両手をベタベタにして帰ってきたものよ」


「……アルベルト様が、ですか?」


「ええ、あの真面目顔で!」


 二人で顔を見合わせて、思わず吹き出す。

 想像すると、なんだかかわいらしい。


 そんな感情が自分に芽生えていることに、不思議な気持ちにすらなる。


「そういえば、随分前のことなのだけれど……」


 カトリーヌはカップを手に取ると、さらに瞳をきらりと輝かせて話し始めた。


「アルベルトがグランチェスターから帰ってきた日、『庭園で花を見ていた姫君がいたんだ』って、ぽつりと言ったことがあったの」


「……!」


 レティシアの手が、ふと止まる。


「“花の精のようだった”ってね。あの子がそんなふうに言うなんて珍しいと思っていたら――まさか、あなたのことだったなんて!」


 カトリーヌは、まるで恋バナに目を輝かせる少女のような顔をして、嬉しそうに手を打った。


「本人には秘密よ? あの子、照れ屋さんだから」


「……はい」


 レティシアは胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じながら、そっと紅茶に口をつけた。


 何度も笑い合う中、レティシアはふと気づく。


(――なんだろう、この感じ)


 カトリーヌの言葉には、優しさと温もりがあった。

 自分の中の「母親」の記憶が遠く霞んでいたせいか、こんなふうに叱ってくれたり、笑ってくれたり、背中を押してくれる存在に戸惑いながらも――心がほどけていく。


 夕暮れのティータイム。カトリーヌは刺繍を覗き込み、ふと真顔になった。


「……この模様。アルメリアの古い意匠ね。懐かしい」


「ご存じなのですか?」


「ええ、昔、お友達がいたの。あの国の人って、みんな職人気質で、優しくて……繊細だった」


 レティシアはそっと目を伏せた。


(――母様は、どんな人だったのだろう)


「あなたも、いい子ね。あの子に、どこか似ている」


 そう呟いたカトリーヌの眼差しに、レティシアは小さく微笑んだ。




 夜。ラヴィが丸くなったベッドの端で、レティシアは刺繍を抱えながら思い返していた。


 カトリーヌに刺繍をしたハンカチを渡してみると、とんでもなく喜んでくれた。


 女神の衣装も、二人で図案を考えている。

 彼女の服飾のセンスには目を見張るばかりで、彼女のような公爵夫人になりたいと思った。


(母親って、あんな風に、温かいものだったのかもしれない)


 柔らかくて、ちょっとお節介で、でも愛に満ちている。


 知らなかったものを、少しずつ知っていくのは、なんだか不思議で、嬉しかった。


 レティシアの記憶に母親はいないが、似た人はいた。

 幼いレティシアを支えてくれた、姉のような母のような人。


 あの侍女には、やっぱりどこかで幸せになっていて欲しいと思う。



(アルベルト様にも……早く、帰ってきてほしいです)


 いつか彼を支えられるような女主人になりたい。


 胸の奥で、柔らかく灯るような感情を抱きながら、レティシアは眠りについた。


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