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10 出立

 その日、レティシアは王都の外れにある養護院を訪れていた。


 手には、小さな裁縫箱。マティルダが付き添いながらも、彼女の足取りは軽やかだ。


「まあまあ、公爵夫人がご足労くださるなんて……!」


 迎えに出てきた院長婦人が慌てて出迎えると、奥から子どもたちが顔を覗かせて、嬉しそうに手を振る。


「レティシア様、こっちこっちー!」

「まあ、みんな元気そうですね!」


 ここに来るのはこれで二度目だ。


 レティシアは笑顔で手を振り返しながら、奥の大部屋へと向かった。そこには、ほころびたシャツやスカート、ボタンの取れた制服などが山のように積まれている。


「お恥ずかしい限りで……お針子たちも手が足りなくて……その、でもこんなこと、公爵夫人にさせるわけには……!」


「いいえ、お気になさらず!」


 恐縮しきった大人たちに一礼し、レティシアはそっと袖をまくった。

 前回来た時に、服のことが気になったのだ。


「このくらい、朝飯前ですわ。むしろ、こういう作業は好きなのです。姉たちのドレスもよく縫っていましたから……ふふっ」


 その言葉に、大人たちの方がぎょっと目を見張る中――


 チク、チク、チク……


 レティシアの指先は迷いなく布をすくい、糸を通す。


 針の動きは驚くほど無駄がなく、まるで長年仕立てを生業にしてきた職人のようだった。


 シャツの破れをなめらかに繕い、スカートの綻びに可愛い小花の刺繍を添え、ほどけた襟元をしっかりと留め直す。


 布の色に合わせて糸を選ぶ目にも、一分の迷いがない。


「えっ……もう終わったのですか?」


「次のをお願いします!」


 次々と直しが終わっていくたびに、大人たちの顔に驚きの色が浮かび、子どもたちは目を輝かせた。


「レティシア様、すごーい!」


「お姫様なのに、こんなことできるの?」


「……うふふ。お姫様っていうのは、案外いろんなことができるものなんですのよ?」


 冗談めかして笑うと、隣で同様の作業をするマティルダがくすりと笑った。

 やはり彼女もベテランなだけあり、丁寧な手仕事だ。


「レティシア様、その速度と手際……まさに神業でございます」


「マティルダったら、大げさです。でも……あの子の袖、少し丈が短いですね。生地が余っていれば少し継いであげたいです」


「こちらにございます」


 笑顔のやりとりの中で、レティシアはふと視線を落とした。


 すり切れた布、穴の空いた靴下、色あせた裾。


(昔の自分と似ている)


 思えば、幼い頃は華やかなドレスに袖を通すよりも、古着の手直しや侍女の端切れで人形の服を縫っていた時間の方がずっと楽しかった。


 そんな記憶が胸の奥をくすぐる。


「少しでも、この子たちが明るく笑ってくれるなら……何着でも縫います」


 そうつぶやくレティシアの頬には、優しい光が差していた。



 風に乗って、どこか甘い焼き菓子の匂いが漂ってくる。

 養護院を後にする頃には、レティシアの籠の中には子どもたちが描いてくれた絵がぎっしり詰まっていた。


「レティシア様、本当にお疲れ様でございました」


 マティルダが傍らで言う。


「ええ、でも……とっても楽しかったわ」


 微笑むレティシアの瞳は、すっかり秋色に染まりつつある空を見上げる。


 実は今朝、前公爵夫人からの手紙を受け取った。結婚式にもいらっしゃっていた、優しげな女性だ。


 前公爵と夫人は現在、領地にいる。

 王都からは馬車で一週間ほどの行程だと聞いた。


『ご機嫌麗しゅう、レティシア様。

 こちらの暮らしにも慣れてこられたころかと存じます。領地では今年も例年通り秋祭りの準備が進んでおり、「ぜひレティシア様に女神役をお願いしたい」と声が上がっております』


 女神役とは、収穫祭の中心で、五穀豊穣を祈る神聖な存在を演じるものであるらしい。

 マティルダが教えてくれた。


 そしてその衣装も、レティシアに任せてくれるという。


 自分の刺す刺繍が、公爵領のお祭りの一角を彩るかもしれないなんて。そう考えるだけで、心がふわふわと浮き立った。


「旦那様はなんと仰るかしら?」

「きっと、お喜びになりますね」


 マティルダは慈愛に満ちた顔をしている。

 そう言われると、アルベルトに報告する時間がとても楽しみになった。



 刺繍針が布をすべり、小さな花模様が形になっていく。

 ちくちく、と静かな音が部屋に響く中――ふいに、外から馬車の車輪が石畳を叩く音が聞こえた。


(……今の、馬車の音かしら?)


 ふと顔を上げたレティシアの耳が、ピクリと反応した。


 今日は早く帰ってくるとは聞いていたけれど、思ったよりもずっと早い時間だ。


 レティシアは針を布の上に置き、そっと立ち上がった。刺繍枠を長椅子の上に置いて、パタパタと玄関ホールへと向かう。


 扉の向こうで、馬のいななきが一声。間もなく、屋敷の扉が執事の手で開かれた。


「おかえりなさいませ、公爵様」


「ああ」


 その声に、レティシアの心がふわりと温かくなる。やっぱり、アルベルトだった。


 だが次の瞬間、もうひとつの影が彼の後ろに立っていた。


 鍛え抜かれた体格に、年季の入った軍靴。落ち着いた身なりながら、ただならぬ威圧感を纏った男だ。


(……どなたかしら?)



 レティシアは立ち止まり、小さく息を呑む。

 アルベルトがこちらに気がつき、柔らかく微笑んだ。


「レティシア。今戻った」


「旦那様、おかえりなさいませ」


 レティシアが小さく会釈をすると、その壮年の男性も丁寧に一礼する。


「こちらは騎士のバルナバスだ。仕事のことで盛り上がってね。ぜひ我が家で晩餐を取ってもらおうと思ったんだ」


「まあ、そうでしたか」


 アルベルトの言葉に、レティシアは目の前の大柄な騎士を見つめ、礼をした。


「レティシアと申します」


 エントランスの静けさの中で、バルナバスはレティシアの顔を見るなり、小さく目を見開いた。


「……っ」


 その鋭い視線が、一瞬だけ震える。歳月を重ねた騎士らしく、表情の揺れは一瞬だったが――わずかに伏せた目元が、光ったように見えた。


「……公女殿下に、よく似ておられる。バルナバスと申します、公爵夫人」


 かすれるような低い声が落ちる。

 目元が光ったように見えたのは気のせいだったのかもしれない。



 そのまま、三人は晩餐へと移った。


 今宵の食卓は穏やかで、淡々と過ぎていった。バルナバスは礼儀正しく、食事の間もほとんど口を開かなかった。


 ただ、レティシアが食事を取り分けた時、ほんの少しだけ、彼の眼差しがやさしく揺れたような気がする。


(お母様のことを、知っている御方なのね)


 どういう関係だったのだろう。

 母はどんな人だった?

 何が好きで、どういう風に暮らしていた?


 聞きたいことはあっても、聞く勇気が出ない。


 客人が帰ってレティシアと二人きりになると、アルベルトはようやく少しだけ肩の力を抜いたようだった。


 寝室でのいつものお話の時間だ。

 レティシアはふと思い出したように笑みを浮かべる。


「旦那様、今日養護院で領地のお祭りの話を聞いたんです。秋祭りに“女神役”があるそうで、ぜひお願いしたいと頼まれてしまいました」


「君が女神役か。とても素晴らしいものになるな」


 静かに微笑むアルベルトの言葉に、レティシアの頬がふんわりと赤らむ。


 二人は並んで部屋へと戻る。日中は騒がしい子猫も、すでにベッドの上で丸くなっていた。



「明日からしばらく、私はこの国を離れることになった。出立は早朝だ」


「えっ」


「グランチェスター王国での会談に出席する。いくつかの国を交えた多国間の場だ。……十日ほどで戻るつもりだが、予定は前後するかもしれない」


「そうなんですね」


 アルベルトが不在になる――その事実に、レティシアの胸がすこしだけ寂しさで満たされる。


「無事の帰還をお待ちしております」

「ああ。その衣装の完成も楽しみにしているよ」

「はい。任せてくださいませ、旦那様」


 微笑み合って、灯りが落ちる。


 柔らかい寝具の中、レティシアは静かに目を閉じる。ベッドの端には黒猫ラヴィが小さく丸まり、いつものようにそっと寄り添ってくる。


 ――けれど今夜は、ほんの少しだけ、この時間が惜しいような気がした。




 空が白み始める頃――


 玄関前の石畳に朝露が光るなか、アルベルトは馬車の前でレティシアを振り返った。


「……では、行ってくる」


「はい。お気をつけて、旦那さま」


 なんとか早起きして、間に合って良かった。


 重い車輪の音とともに、馬車はゆっくりと公爵邸を離れていく。


 その後ろ姿を、レティシアはそっと見送った。


 いつもなら、朝食の席にはアルベルトがいた。けれど、今日はその席がぽつんと空いている。


 料理は変わらず丁寧に用意されていたが――美味しいはずのスープも、ふわふわのパンケーキも、レティシアの舌にはいつもより少しだけ味気なく感じられた。

間が空いてしまいました!

またよろしくお願いします…!!


※公爵領関係で少し調整しました。

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