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●アルベルトの結婚生活⑤


 夜も更けて、屋敷はしんと静まり返っていた。


 厚手のカーテンの向こうには月が昇り、微かな月明かりが部屋の片隅をやさしく照らしている。


 アルベルトは、そっと寝室に足を踏み入れた。


 仕事の山に追われ、ようやく帰ってこられたのは、すでに深夜を回ってからだった。

 どうかしている、あの王太子。


『我が国とアルメニア公国を侮ったグランチェスター王国には痛い目に遭ってもらわないとな?』


 そう言いながら、ジークフリートは子供の頃のような悪い笑顔を浮かべていた。

 そこからあれやこれやとバルナバスも交えて会議をして――またしても深夜である。


「……レティシア?」


 ベッドは空っぽだ。

 きょろきょろと周囲を見ると、代わりに部屋の隅にある長椅子に小さな影を見つけた。


 レティシアが毛布を肩にかけ、膝を抱えるようにして眠っている。


 金糸のような髪がゆるく広がり、頬にも少しだけ長い髪がかかっている。そんな彼女の膝の上で、黒猫が丸くなって眠っていた。


「……どうして、こんなところで」


 囁くように呟きながら、そっと彼女の前に膝をつく。

 近くで見ると、指先はうっすら赤く、手には刺繍の布を握ったままだった。


(――彼女は私を待っていたのだろうか?)


 その想いの一つひとつが、アルベルトの胸に響く。


「……レティシア」

「ん……」


 名前を呼ぶと、彼女はゆっくりとまぶたを開いた。

 まだぼんやりとした目でアルベルトを見上げ、そして――はっとして姿勢を正した。


「旦那様……! おかえりなさいませ。お疲れ様です……!」


 すぐに起き上がろうとするが、長時間同じ姿勢でいたせいか、ふらつく。

 それをアルベルトが自然に支えた。


「そんなに無理をしなくていい。ベッドで休めばよかったのに」


 優しく言う彼に、レティシアは微笑みながら首を振った。


「おかえりなさい、と言いたくて。朝のお見送りは出来たので、今度はお迎えを」


 寝ぼけ眼のレティシアがふにゃりと微笑む。


 なんだこれは。今日も私の妻がかわいい。


「ああ、ただいま。ありがとう。だが、針仕事をしたまま眠るのは危険だ」


 アルベルトの指摘に、レティシアは小さく「あ……」と声を漏らした。

 視線を落とすと、自分の膝には完成したばかりの小さなハンカチがある。角にはささやかな刺繍が施されていた。


「気をつけます。うっかり針が落ちていたら、ラヴィが怪我してしまいますものね」


 膝の上で丸まっていた黒猫――ラヴィが、まるでその名前に反応するように身じろぎした。レティシアは毛布を整えながら、ふふっと笑う。


「この意匠も美しいな」


「これも離宮で侍女が教えてくれた図案なんです。でも……あまり見たことがない意匠ですよね? 私も、他では見かけたことがなくて」


「その侍女の名は覚えている?」


「えっと、マーサと呼んでいました。とても優しい方で……それから、少し変わっていて、よく“女は度胸”とか“縫い目には願いを込めるのよ”って、教えてくれて」


 淡い記憶を辿るように語るレティシアの声は、どこか懐かしさに震えていた。


「突然いなくなってしまって、それから会っていないのです。今は……どこかで元気にしているといいなと思っているのですが」


 ふと、レティシアの声が揺らぐ。眠気もあるのだろうが、その目には幼い頃の不安と寂しさがにじんでいた。


 アルベルトは手の中の刺繍を見つめる。


 グランチェスターに渡ったアルメリア公女は、侍女を一人も連れて行かなかったとバルナバスが言っていた。

 グランチェスターに元々いた人間が、アルメリアの伝統的な刺繍を習得していた可能性はかなり低い。


 もしかしたら、その侍女は――。


 ひとつの可能性がアルベルトの脳裏によぎるが、確信がないままレティシアに伝えることはできない。


「……君の刺繍からは、祈りのようなものを感じるよ。きっと君にそれを教えた人は、君をとても大切に思っていたのだろう」


「そうでしょうか」


 レティシアは少しだけ目を細めて、ラヴィを撫でる。

 アルベルトは彼女の隣に腰を下ろし、静かに言葉を紡いだ。


「そして、その方は君にとって、とても大切な存在だったんだろうな」


「はい。いなくなってしまった日からしばらくは泣きました!」


 照れたようにカラッと笑うレティシアの瞳の奥に、強さと寂しさの色が見える。


 アルベルトはその笑顔を見つめながら、どうしても胸の奥に引っかかる感情を抑えきれなかった。もっと早くに、レティシアをこの屋敷に、いや、自分のもとに迎えることができていたら――。


 彼女がひとりで泣く時間を、少しでも減らすことができたのではないかと、考えてしまう。


「……そうだわ!」


 突然、ぱっと顔を上げたレティシアの声に、アルベルトは目を瞬かせる。


「今日、ノートルさんと一緒に畑に行って、ラディッシュを収穫したんです。まんまるで、赤くて、すごく可愛くて!」


 手振りを交えて語るレティシアの目が、ぱあっと輝いている。ラヴィも彼女の足元で、ぐるりと丸くなって毛繕いを始めた。


「それで、副料理長さんが『これはいいラディッシュだ、明日の朝に出そう』って言ってくれました! 朝食が楽しみですね、旦那様!」


「ああ。楽しみにしていよう」


 そう返しながら、アルベルトの胸の奥がじんわりとあたたかくなる。


 今日起こった何気ないことを、こうして目を輝かせながら話してくれる人が、今、自分の傍にいる――

 それは、想像していたどんな未来よりも幸福な時間だった。


「ふふ、明日の朝はどんなお料理になるんでしょう。わたし、サラダも好きなんですけど、酢漬けもさっぱりしていて……」


 レティシアがすごくうっとりしている。

 食事を楽しみにしてくれていて、嬉しいことではあるのだが。


「もう遅い。続きは明日の朝にしておこう」

「あっ、そうでした。すみません、ついお喋りが……!」


 ばつが悪そうに肩をすくめたレティシアに、アルベルトはやわらかく笑う。


「明日も早い。眠ろうか」

「はい、旦那様。ラヴィ、行きますよ」


 レティシアがそう声をかけると、黒猫ラヴィもぴょんと軽やかに跳び上がってついてくる。

 アルベルトはその様子を微笑ましく見ながら、静かに寝室の明かりを落とす。


 レティシアがベッドに入り、毛布を胸元まで引き寄せる。ラヴィも彼女の足元にぴたりとくっついて丸まり、すでに目を閉じていた。


「では、おやすみなさいませ、旦那様」


 そう言って微笑んだ彼女は、すっ、と上半身を起こし――


「……?」


 何かと思った次の瞬間、レティシアの柔らかな唇が、アルベルトの頬にそっと触れた。


「マティルダに、ヴァルデンシュタインの夜のご挨拶を教わりましたので……!」


 ぱっと身を引いたレティシアは、顔を真っ赤に染めながらベッドの中に潜り込み、すぐに毛布の中に隠れてしまった。


 アルベルトはその場で硬直する。


(……っ、これは……!)


 心の準備が――いや、心どころか全身の準備がまるで整っていなかった。


 理性という名の防壁がぐらりと揺れる。


 おそらく自国で冷遇されていた彼女が、この国で心から安心し、笑顔を見せてくれるようになるまでは――決してその一線は越えない。焦らず、急がず。これは自分なりの誠意であり、彼女への敬意だ。

 グランチェスターの問題が解決したら、レティシアと話をしようと思っていた矢先。


 ……マティルダ。後で話がある。


 アルベルトはぐっと拳を握りしめ、深く息を吸い込んでから吐き出した。


「おやすみレティシア、よい夢を」


(……これは試練だ)


 月明かりの差す寝室の隅で、アルベルトはただひとり、虚無の顔をして天井を見つめていた。

読んでいただきありがとうございます。

4月に翻弄され、更新が遅くなって申し訳ありません。

アルベルトの不憫な生活は後少し続きそうです。

感想、★、ブクマありがとうございます。ニヤニヤしながら見ています〜!!!!*ˊᵕˋ*

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『転生王女はナレ死の未来を回避したい!』
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― 新着の感想 ―
マティルダ… グッジョブ!!
 まさかの侍女長からの痛恨の一撃(笑)  というかマーサさん、もしや?
お仕事がんばって帰ってきた旦那様にこの仕打ち。試練がんばって…
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