08 夕食
プロローグ回!!
レティシアがリューべルク公爵家に嫁いでから、もうすぐ一ヶ月が経つ。
形式だけの政略結婚――そう思っていたのに、思いがけず、レティシアの新しい生活は穏やかで、心満たされるものだった。
広くて清潔な部屋、美味しい食事、優しい侍女たち、そして小さな畑での作業。誰にも怒鳴られず、意地悪もされず、自分の好きなことを好きなようにできる毎日。
使用人たちともすぐに打ち解け、今では夕食を一緒に囲むのが日課になっていた。
朝は公爵――アルベルトとの食事で始まり、日中は畑に出たり、刺繍をしたり、最近では拾った黒猫ラヴィのお世話も加わった。
誰にも縛られず、笑顔で過ごせる日々。
――理想の冷遇生活とは、こういうものだったのかもしれない。
夕刻の光が赤く差し込みはじめた頃、刺繍に夢中だったレティシアの部屋に、マティルダが静かに入ってきた。
「奥様、旦那様がただいま屋敷にお戻りになりました」
「えっ、旦那様が……?」
レティシアは思わず顔を上げ、膝に置いていた布地を落としそうになる。普段は遅くまで執務に追われ、滅多に屋敷に戻らないアルベルトが、こんな時間に帰ってくるなんて。
「今から、玄関までお出迎えに参りませんか? 旦那様、今朝も奥様のお話を気にかけておられましたよ」
「……はい、すぐに参ります!」
胸がきゅっと高鳴るのを感じながら、レティシアは急いで鏡の前に立ち、なんとなく髪とリボンを整えた。
ドレスは今朝マティルダに言われてクローゼットから選んだもののままだが、シンプルながら上品な一着だ。
(……変じゃないといいのだけれど)
小さく息を整えて、マティルダに付き添われながら玄関ホールへ向かうと、ちょうど重厚な扉が開かれるところだった。
夕陽を背に現れたのは、紛れもなくアルベルトだ。
肩に軽くかかった黒髪が風に揺れ、凛々しい横顔が赤く染まる光に照らされている。手にしていた手袋を外しながら彼が顔を上げたその瞬間、レティシアと視線が合った。
「旦那様、おかえりなさいませ」
少し緊張した面持ちで丁寧に頭を下げるレティシアに、アルベルトはわずかに目を細め、深く頷いた。
「ああ、ただいま。……出迎えてくれて、ありがとう」
その声音はどこか柔らかく、昼間の冷たい表情とは違っていた。
彼女を見た途端、肩の力が抜けたように感じるのは、きっと気のせいではない。
玄関に控えていた執事が進み出て、一歩下がりながら告げた。
「本日は旦那様のご希望により、奥様とご一緒に夕食をご用意しております」
「えっ……あ、はい!」
思いがけない言葉に、レティシアは目を瞬かせてから、ぱっと顔を明るくする。
夜はずっと使用人たちと厨房横のテーブルで楽しく食事をしていた。
身分にこだわらず、皆と賑やかに過ごす食事の時間は、レティシアにとって楽しいものだった。
いつもの使用人たちとの食事も好きだけれど、こうして二人きりの夕食は――なんだか、とても不思議な気がした。
緊張する。すこし。
(朝食では旦那様とお話もしていますし、大丈夫。今日もまたプリンを分けてくださるかもしれません)
そんな淡い期待を胸に食堂へ向かう。
少しすると、寛いだ雰囲気になったアルベルトが遅れて入ってきた。
二人が揃うと、前菜から料理が運ばれてくる。
(あら……そういえば)
久しぶりにまじまじと眺めたアルベルトはいつも通りの整った容貌――けれど、疲れの色が濃い。
「旦那様……顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
心配そうに尋ねたレティシアに、アルベルトは視線を上げた。何か言いかけて、言葉を呑み込み、それから――
「……君は、夜は何をして過ごしているんだ」
ずん、と重く落ちるような声音だった。
「えっ? そうですね……刺繍が趣味なので、のんびりハンカチを作ったり……。あとは、三日前に子猫を拾ったので、そのお世話をしています!」
レティシアはいつも通りに朗らかに答えた。
手製の刺繍入りハンカチは、いつも世話になっている侍女や使用人たちに贈るために作っている。拙くても、感謝の気持ちは伝えたいからだ。
それと――最近、畑で出会った黒猫。
痩せっぽちで毛並みは乱れていたが、どこか気品のある顔立ちで、すぐに懐いてくれた。
名前は「ラヴィニア」。今では毎晩、部屋の隅で丸くなって眠っている。
「……俺は、もらっていない……。それに、君の部屋に……?」
アルベルトは低く呟き、眉間に皺を寄せた。
レティシアの耳には届かない。
(……あれ? なんだかすごく、ショックを受けたような?)
「旦那さま、もしかして……猫がお嫌いでしたか? アレルギーがあって体調を崩されたのでは――」
ラヴィは甘えんぼうで、夜はレティシアの隣に来て丸まって眠る。ベッドは広くて安心だし、可愛いもふもふのぬくもりと共に暮らすのも初めてで、毎晩幸せだ。
だがその分、目には見えない毛が屋敷に漂っていて、それでアルベルトが体調を崩してしまっているのかもしれない。
「……嫌いではない」
遮るように呟いたアルベルトは目を逸らした。その仕草が、どこかぎこちない。
「だが、夜は使用人たちに世話を任せるべきではないか? 君の負担になるだろう」
「いえ、全く問題ありません! ラヴィと一緒に寝るととても温かいんです。ふわふわで、幸せで……」
そう胸を張って笑顔を見せた瞬間、アルベルトの表情がぐにゃりと歪んだように見えた。
「……夜は冷える。風邪を引くかもしれない」
「大丈夫ですよ、ちゃんと避けて丸くなって眠っていますもの」
(ラヴィのことを心配してくださっているのですね。旦那さまもお優しい……)
レティシアはほくほくと嬉しそうに笑った。
使用人一同、気配を消してはいるが二人の会話にハラハラとしていることにまるで気が付いていないようだ。
その後も、アルベルトは何度か言い淀んでは言葉を飲み込むような仕草を繰り返し、やがて――
「……どうして」
「え?」
「どうして君は、俺のところに夜這いに来てくれないんだ!?」
その言葉は、あまりに唐突で、あまりに直接的だった。
場にいた全員が時間ごと静止したように固まり、レティシアの頭の中も真っ白になる。
「……ヨバイ、ですか?」
ぽつりと復唱したレティシア。何かの聞き間違いだろうかと首をかしげる。
(よばいとは、四倍なわけはあるまいし、よばい……よばい……?)
とにかくアルベルトの顔は耳まで真っ赤なのだが、レティシアには何もピンと来ない。
だがアルベルトは顔を真っ赤にしながらも、目をそらさない。
「こちらに来てくれ」
「えっ? でも、お肉……」
「いいから」
首を傾げていると、アルベルトはレティシアの手を掴んで食堂を出た。
「どういうことですか?」
「……話がある」
「お肉はあとで食べられますか?」
「ああ」
向かっているのはどうやら寝室の方向だ。
レティシアはお肉が食べられることに安堵しつつ、なぜアルベルトがこんなに急いでいるのかが分からずにいる。
そのまま寝室に連れ込まれたレティシアは、アルベルトから一通の手紙を差し出された。