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07 刺繍と黒猫

 お昼ご飯を食べた後、レティシアは部屋の窓辺にある長椅子に腰かけ、静かに刺繍の針を進めていた。


 薄い藤色の糸をすべらせるたび、布の上に小さな花が咲いていく。


 今日は、あの模様に挑戦してみた。昔、離宮の片隅でそっと教えてくれた侍女がいた。優しい目をした人だった。


 その人が「これを知っている人は、もうあまりいない」と、こっそりレティシアに教えてくれた模様。

 くるりと丸まる蔓草に、小さな羽のような葉を組み合わせた不思議な形だ。


 当時は何となく好きで繰り返し縫っていたけれど、こうしてあらためて見ると、どこか異国の趣がある。


「……綺麗にできました」


 そっと布を持ち上げて光にかざすと、刺繍糸の光沢がきらりと揺れた。


 そのとき、ノックと共にマティルダが部屋に入ってきた。


「奥様、お加減は如何ですか?」


「ええ、とても静かで過ごしやすいです」


 レティシアは微笑んで答える。


 マティルダはレティシアがこの屋敷に来てから、ずっとお世話をしてくれる。


 人にお世話をされることに慣れていないから、最初は着替えの手伝いなども固辞していたものだ。


「……その刺繍、ずいぶんと凝った意匠ですね。どこかでお見かけしたことがあるような、ないような……」


 マティルダがそっと刺繍を覗き込みながら言った。


「この模様、昔、私にこっそり教えてくれた侍女がいたんです」


「とても繊細で……そうです、南方の伝承に出てくる《翼草》に似ております。アルメリアの意匠かもしれませんね」


「アルメリア……」


 懐かしい響きに、レティシアは一瞬胸をつかれた。

 レティシアの母が育った国。滅んだはずのその土地の模様が、こうして自分の手に残っているのだとしたら、なんだかとても不思議で――嬉しい。


「奥様、差し出がましいかと思いますが、旦那様にもお渡しされてはどうですか?」


「……え?」


 レティシアは針を止めたまま、マティルダを見つめた。


(旦那様に、私の刺繍を……?)


 考えたこともなかった。だってこれは、レティシアの趣味で、自分の気持ちを落ち着けるためのものだったから。


「……喜んでいただけると思いますか?」


 ぽつりと問いかけると、マティルダはやさしく微笑んだ。


「ええ。旦那様は、奥様のことをとても大切に思っておられますから」


 心臓が一度だけ、ことんと鳴った。

 理想の冷遇生活で確かにレティシアのお腹はいつも満たされていて、心も穏やかだ。


 旦那様は少し言葉が少ない方だが、それが心地よい。レティシアが頬張りすぎると、いつも注意してくれるし、デザートを分けてくれる。


 酷い人ではないと思う。

 それどころかとても良い人なのではないだろうか。レティシアの他に愛する人がいるとしても。


(……そんな気配はないような気はするけれど。だったら、次は旦那様のために刺してみようかしら)



 日が斜めに傾きかけた頃、ようやくレティシアは刺繍を終えた。


「……できました」


 小さなリネンの布に丁寧に刺された模様は、翼草と小花の組み合わせ。アルベルトの瞳の色を思わせる紫紺の糸を中心に、落ち着いた色味で整えてある。


 時間をかけて、何度も解いて、何度も縫い直して――ようやく納得のいく仕上がりになった。


 レティシアはそっと、布を手のひらに乗せる。心がふわりと温かくなるような、そんな出来だ。


 けれど。


「……やっぱり、こんなもの渡せません」


 胸の中に生まれたのは、唐突な不安だった。


(旦那様はお忙しい方だし、趣味の刺繍なんて、迷惑かもしれません)


 せっかく心を込めて縫ったというのに、渡す勇気が出ない。

 レティシアは苦笑して、机の引き出しをそっと引く。


 引き出しの奥には、他にもいくつか、完成してはしまい込まれた刺繍たちが眠っていた。


「あなたも……ここでお留守番ですね」


 言いながら、そっとそれを重ね、引き出しを閉じた。


 ***


 次の日。


 朝の陽ざしが畑の土をやさしく照らしていた。 春の風がそよぎ、柔らかな土の匂いが空気に混じっている。


 レティシアはしゃがみこんで、芽吹いたばかりの豆の葉にそっと指先を添えていた。その時、背後から控えめな鳴き声が届いた。


「ふにゃ」


 振り返ると、そこには一匹の黒猫がいた。


 艶やかな黒い毛並みを持ち、細身でしなやかな身体つき。だがどこか痩せていて、まだ寒さの残る早朝の風の中を過ごすには心許なさそうな姿だった。


「また来てくれたのね!」


 レティシアが声をかけると、黒猫は足元へと近づき、するりと彼女の裾に身体をこすりつけてきた。人懐こく、それでいて控えめな仕草に、自然と笑みが浮かぶ。


 彼女がそっと膝の上に抱き上げると、猫は逃げることもなく、安心したように喉を鳴らした。


 そこへ、スコップを肩にかけた庭師のノートルが姿を見せた。年季の入った帽子を軽く押さえながら、目尻を下げて笑う。


「また来ましたな、その子。すっかり奥様に懐いてるようで」


「はい、何度か見かけていたのですが……こんなに懐いてくれるなんて」


「だいぶ痩せてますな。野良にしちゃ毛並みは悪くないが……」


「ごはんをあげてもいいですか?」


「ええ。あんまりたくさんは駄目ですが、ミルクでも少し温めて出してあげれば、身体も冷えません」


 ノートルの穏やかな返答に、レティシアはほっとしたように頷いた。


「こっそり、部屋に連れて帰ってもいいでしょうか」


「まあ、旦那様に咎められないようにだけ、お気をつけて」


「はい、うまくやってみます!」


 寝室に連れて行こうと決めた。だってアルベルトが来ることは絶対にないのだから。


 再び腕の中の黒猫を見下ろす。丸い瞳がじっと見返してくる。


「名前をつけましょう」


 ぽつりと呟いたあと、レティシアは少し考えた末、ふと微笑んだ。


「ええと……ラヴィニア……ラヴィにしましょう!」


 ラヴィニアは古い神話に出てくる女神の名前だ。以前ノートルが女の子だと言っていたので、女神の名前を借りることにした。


「ミャア」


 猫は一度だけ、控えめに鳴いた。


「ふふ、気に入ってくれたみたい」


 そうしてラヴィと名づけられた黒猫を胸元に抱いたまま、レティシアは畑をあとにした。


 ノートルは、その後ろ姿を見送りながら、目を細める。


「……あんなふうに笑えるようになったんですな。よかった、よかった」


 彼の声は風にまぎれ、静かな朝の庭に吸い込まれていった。

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