●アルベルトの結婚生活②
ヴァルデンシュタイン王国の王城。城内の政庁棟――その最奥にある、宰相補佐専用の執務室には朝日が差し込んでいた。
アルベルト・フォン・リューベルクは、重厚な書類の束に目を通しながらも、内心まったく別のことを考えていた。
(――レティシアは元気に過ごしているだろうか)
それに尽きる。新妻の寝顔は確かに幸福そうだった。だが、扉は叩かれなかったわけだが。
机の端には、うっかり持って来てしまったレティシアからの「夫婦の信頼に関する風習」についての手紙が封筒ごと置かれている。
ぼおっとしているうちに鞄に詰めてしまったらしい。
悶々とした思考を振り払おうと、彼はペンを取るが、インク瓶の口を見つめたまま静止した。
「おーーーい! アルベルト〜〜!」
そんな彼の元に、勢いよく扉を開けて現れたのは、王太子ジークフリート・ヴァルデンシュタインだった。
「うわっ、本当に来てる! 新婚の朝っぱらから仕事に来てんのかよ、律儀だな」
「おはようございます、殿下。今日は貴族会議が開催されているのでは?」
そうアルベルトが尋ねると、ジークフリートはでかいため息をつく。
「お流れだ。あの老臣たちがまた延々と『伝統』を振りかざして喚いていてな。癇に障ったから途中で出てきた」
堂々と言い放ちながら椅子に座るジーク。傍目には尊大とも映る態度だが、彼の中には確かな責任感と誠実さがあることを、アルベルトはよく知っている。
「そうですか。程々にしてくださいね。尻拭いをするのは私なので」
「分かってるって。最近どうやら西のソロヴィア帝国の動きが怪しいからそこに時間を割いて欲しいのに、ヤツらは自分の利権ばかりで」
「……グランチェスター王国もきな臭いですしね」
「ああ。まあウチに政略結婚を申し出てくるくらいだ。あの国もそろそろ厳しいんだろう」
「……」
ジークフリートの言葉に、アルベルトは黙って頷く。西の帝国と我が国は対立している訳ではないが、勢力的にはお互いに意識するところ。
グランチェスター王国がこの国との繋がりを求めたのは、帝国に対しての抑止力が欲しかったからだろう。アルメリア公国の二の舞にならないように。
ジークフリートは、机の脇に積まれた書類の山にちらりと目をやりながら、口を開く。
「それにしても、お前があの縁談を了承したときは驚いたぞ。まさか“あの王女”を選ぶとはな」
王太子の口にした“あの王女”という言葉に、アルベルトの指先がほんの僅かに止まった。
「彼女は、選ばれるべきだった。それだけのことです」
淡々と告げる声音の奥に、確かな熱があった。
ジークフリートは、珍しくその感情を察したのか、それ以上突っ込まずに軽く頷いた。
ジークフリートは机の上にあった例の封筒にちらりと目をやると、少し意外そうに眉を上げた。
「それ、レティシア殿下からの手紙か?」
アルベルトは反射的に手元の封筒を伏せる。内心、なんて目ざとい人だと思った。
「……はい。間違って家から持ってきてしまいました」
「へぇ。お前が手紙を大事に扱うのは分かってるが、執務室に持ち込むとはな。よほどの内容か?」
「夫婦の“信頼の築き方”についての話です」
誤魔化しは通じない。ジークフリートはそういう男だ。観念したアルベルトは端的に内容を述べた。ジークフリートが小さく吹き出す。
「レティシア殿下は、真面目なお方のようだな」
「ええ。あれほど慎み深く、知性と品位を兼ね備えた手紙はなかなか書けるものではありません」
そこまで言って、アルベルトはハッとしたように口をつぐんだ。
王太子が、からかうでもなく目を細めて笑う。
「……なるほどな。お前がそう言うなら、相当な女性なんだろう」
しばしの静寂の後、ジークフリートは思い出したように話し出す。
「ところで、興味深い報告があった。最近我が軍に入った騎士の一人――バルナバスという男だが、元はアルメリア公国の出身らしい」
「……!」
アルベルトの手が止まる。
「彼の口から少し前に聞いた話だ。“アルメリアの一部貴族では、結婚の初夜に特別な作法が存在した”と」
アルベルトは息を呑んだ。
(……本当に、存在していたのか)
「『夫は寝室を譲り、妻が望んで夫のもとに来ることで、対等な関係が始まる』。そう語っていた。儀礼とはいえ、なかなか粋な文化だと思わないか?」
「……そうですね」
何か言いたげな王太子の様子を察して、アルベルトは笑顔を浮かべた。
ジークフリートもふっと笑って椅子から立ち上がる。
「そういえば、グランチェスター王国についての調査はどうなっている?」
「例の件ですね。こちらに」
アルベルトは机の引き出しから一通の封筒を取り出した。それは王国諜報部門からの定期報告書だったが、宰相補佐という立場でなければ閲覧できない一級の機密を含んでいた。
「グランチェスター王国内部――特に後宮と第一王妃周辺に、いくつか不審な動きがあります。第三王女殿下――レティシアが長年冷遇されていたという事実も確認済みです。侍女や侍従の証言がいくつか取れました」
「……やはりか」
ジークフリートは眉をひそめた。
「王妃の出自は地方貴族だったはず。娘たちの評判もよろしくない。あの国の王室、腐っているという噂も絶えないな」
「はい。……しかも、それを知っていて黙認していた国王も同罪かと」
アルベルトの表情は変わらない。だが、書類を撫でるその指先には確かな力がこもっていた。
「彼女の境遇が“必要な政治の犠牲”であったというのであれば――それは見過ごせません」
そう言ったアルベルトの目は、微かに揺らぐ蝋燭の光の中で、鋭く光っていた。
レティシアはもうこちらにいる。グランチェスター王国の者が手出しをする事は難しいだろう。
(……叩けば埃が出そうな王家だ)
彼女の母親――アルメリア公女は国王に監禁されていると聞いている。この辺りについて、例の騎士とも話をした方が良さそうだ。
ジークフリートは腕を組みながら、にやりと口の端を上げた。
「さて、では例の騎士も招いてアルメリア公国についても調べるか」
「アルメリア公国ですか?」
「ああ、どうも気になる。あの豊かな国が一晩で滅びるなど……表面的には友好国だったグランチェスターが手引きをしたのではないかと俺は思っている」
「友好の証に公女を嫁入りさせたのに、ですか」
「クズ国王の考えそうなことだろ? つまり、しばらくはお前の時間をもらうぞ、アルベルト」
小さく肩をすくめた王太子に、アルベルトは小さくため息をついた。
「……分かりました。茶を淹れましょうか」
「おう、それは助かる。ついでに、奥方の話ももう少し聞かせてもらえると嬉しいんだが?」
アルベルトは微かに微笑んだ。
「それは機密情報ですので」
――その晩、アルベルトが屋敷に戻るとすでに日はとっぷりと暮れ、レティシアはまた丸まって眠っていた。
なんとなく、本当になんとなくまた自室で夜を明かしてしまったアルベルトは朝食だけでもと食堂に向かう。
そしてそこには、ベーコンにいたく感動する妻レティシアの姿があった。