●アルベルトの結婚生活①
○アルベルト視点
初夜。
夜の静寂に包まれたリューベルク公爵家の書斎。アルベルト・フォン・リューベルクは、蝋燭の炎の揺らめきの中、黙って机に向かっていた。
「……」
その前には、何通もの手紙。
どれも、今日から正式に妻となった隣国グランチェスターの第三王女――レティシアからのものだ。
一通目は「初めまして」の挨拶。
丁寧で慎ましく、言葉の端々に知性と教養がにじんでいた。
二通目は、趣味や日常について。「刺繍が好きで、糸の色を選ぶ時間が好きです」と、ふんわりした筆致があたたかかった。
三通目以降も、控えめながらも、彼に歩み寄ろうとする内容の手紙がいくつも届いた。花の咲く季節、読んだ本の感想、時にはアルベルトへのささやかな質問まで。
(どれも……君らしい、真面目な内容だった)
どの手紙も清らかで、品があり、どこか切なさをはらんでいた。アルベルトはそれらを、まるで宝物のように読み返していた。
だが、ある日届いた手紙だけは、少し毛色が違っていた。
内容は夫婦生活について。
手紙を広げた時、その内容に一度固まって手から滑り落ちてしまったことは内緒である。
『私の故郷――今はなきアルメリア公国では結婚後の夫婦生活について、妻から夫に歩み寄ることで信頼が生まれるとされています』
そして、驚いたのが次の一文だ。
『初夜には妻に冷たく接し、寝室から離れること。その後、妻が夜這いをすることで夫婦の信頼が深まる。私の故郷の作法です』
なんととんでもない風習だろう。
アルメリア公国は二十年ほど前に西方の強国ソロヴィア帝国に吸収された小国だ。
小さい国だとはいえ、文化水準が高く資源も豊富な国だったと皆が言う。帝国による支配は突然の事で、大公は各国に助けを求めることも出来なかったとか――
だが、レティシアの母はアルメリア公国の公女で、レティシアはその血統だ。
アルベルトが知らない風習が彼女に伝えられていてもおかしくはない。
――妻の望みを叶えることは、当然だ。
そう決意したアルベルトは、風習に則って、愛らしい新妻を寝室に残して自室に戻ってきた訳だが――この扉は、叩かれなかった。
窓の外がうっすら明るくなってきた。
朝がすぐそこに来ている。
「……俺は……嫌われているのか?」
少し前の結婚式を思い返す。
リューベルクの領内にある古い石造りのチャペルで、静かに挙式は執り行われた。
国同士の大仰な儀式ではない。けれど、その方が彼女にとって負担が少ないと思った。
そして、花嫁姿のレティシアを目にした瞬間――
その純白のドレスに身を包み、儚げな空気を纏った姿に、アルベルトは思わずにやけそうになった。口元が緩んだことに気づき、慌てて顔を引き締めた。
数年前、隣国の王都近郊の離宮の近くを偶然通りかかった折。小さな庭園の隅で、ひとり、咲きかけの花に見とれていた少女がいた。
年端もいかないその少女は、誰にも気づかれず、そっと微笑んでいた。
ほんの一瞬の出来事。
声をかけることもできず、名を知ることもなかったが――その面差しはずっと、心に残っていた。そして後に、彼女が第三王女だと知った。
公爵家を継ぎ、磐石な体制を整えてから求婚しようと思っていた。
だからある日、友人である王太子からグランチェスター王国からの縁談を持ち掛けられたとき、奇跡かと思った。
『三人の王女のうち誰でもいいから嫁がせたい』という何とも言えない投げやりな縁談に友人は笑顔で書状を破り捨てようとしていたが。
地位と身分を利用する機会が来たのだと思った。
自分の名で了承の返事をし、求婚の書状をしたためた。友人はずっとニヤニヤしていた。
レティシアがどんな想いでこの結婚に臨むのかは分からない。だがアルベルトは、少なくとも“守るべき存在”として彼女を迎える覚悟をしていた。
彼女を迎える準備には、心血を注いだ。
寝具、食事、室温、衣服の素材――すべて彼女が心地よく過ごせるように整えたつもりだった。
その……彼女が望んでいた初夜の作法とやらも、自分なりに解像度を高めて冷遇夫を演じたつもりだったのだが。
(――なにか至らぬ部分があったのだろうか)
思えば、『この部屋は君に譲る。必要があれば扉を叩くように』と言った時、彼女はキョトンとしていた気がする。間違ったか?
いやしかし、寝室を離れるというしきたりには則っていたはずで……。
アルベルトは大変に混乱していた。
あの妖精のような人がアルベルトの部屋に自らやって来るというシチュエーションに期待していたことは否めない。
思考がぐるぐるとなって来たところで、アルベルトはブンブンと頭を振った。
(……彼女はこの国に来たばかりだ。疲れもあるだろう)
だから初日は致し方ない。
嫌われてるとか……そういうことじゃないと思うことにした。
机の上の手紙をもう一度そっと撫でるように指でなぞり、アルベルトは立ち上がった。
(姿を見るくらいは許されるだろう)
そっと寝室の扉を開け、大きな寝台へと近付く。その中央で、小さく丸まった天使が白金の髪を広げて眠っていた。
「……んんん」
「!」
小さく伸びをしたレティシアにアルベルトはビクリと肩を揺らす。だが、起きる気配はない。
かなり疲れているのかその眠りはとても深そうで、どことなく笑っているようにも見えた。
アルベルトはその寝顔を見て、ふっと笑みを漏らした。かなり悶々とした夜を過ごしてしまったが、レティシアが幸せそうに眠っている事に安堵する。
音を立てないように部屋に戻り、身支度を整えた。それから、レティシアの侍女たちには彼女への手厚い世話を命じてアルベルトは屋敷を出た。
本当は結婚後は休暇を取れるはずが、結婚の予定を早めに早めたおかげで仕事が立て込んでいた。一刻も早くレティシアを近くに置きたかったのだ。
(新妻に冷たくする夫とは、どういうことなのだろうか……)
冷遇夫の誤解は深まるばかりである。
ここからアルベルトから見た冷遇生活を数話書こうかなと思います!不憫……(´•ᴗ•̥`)