母の記憶
鳳凰宮から出ると牛車を引いた女官がやってきて、薬院宮まで送りますと言ってくれる。
ここから薬院宮まで徒歩二十分ほどあり、月花と話して疲れていた山茶花にとってありがたい申し出だったものの、丁重にお断りする。
薬院宮の周辺には誰も近寄らせるな、と兄狼灰からの命令があるので、牛車と引き手の女官でさえも接近を許されていないのだ。
薬院宮の周囲を取り囲むように植えられているのはイチョウの樹だ。
秋が深まり日差しが弱くなることによってイチョウの葉に含まれる葉緑素が分解され、黄色素が目立つようになり、黄色く染まっていくように見える。
そんな知識と同時に山茶花が失っていた母親の記憶が蘇った。
幼少期の山茶花は薬院宮のイチョウを見上げ、黄葉した葉がきれいだから植えたのかと質問したことがあったのだ。
そんな一人娘のかわいらしい質問を受けた烈華は、悪人のような高笑いをあげたあと、イチョウには毒があるから植えたのだと答えた。
イチョウには特に銀杏と呼ばれる種子に皮膚炎と食中毒、嘔吐、呼吸困難などを起こす毒が含まれている。
熱処理をしても無毒化されるわけではなく子どもで数個から、大人でも数十個ほど食べただけで不調を訴える。
酒の肴として銀杏は人気があるのだが、食べ過ぎには注意が必要だ。
そんな恐ろしい話を語ったあと、烈華は薬効についても説明するのだ。
銀杏には痰を切り、咳を抑える作用があり、頻尿や冷え性の改善にも効果があるという。
また、イチョウの葉は書籍などを好む虫を防ぐ効果があるので、乾燥させたものをしおり代わりに挟むといいようだ。
イチョウの葉を一枚手に取ると、母烈華の言葉が蘇る。
――毒と薬は表裏一体。扱い方によっては自らを苦しむことにもなるし、自らを助けることにもなるのよ。
それは普段から山茶花が信条にしている言葉でもあった。
烈華についての記憶はなくとも、彼女の知識がこの身に染みこんでいる。
自らの肩を抱き、その場に蹲る。
なぜ、母の記憶を失ってしまったのか。自らに問いかけるも、答えは浮かんでこなかった。
「山茶花、寒いの?」
そんな声が聞こえたのと同時に、肩に上着がかけられる。
沈香の深く落ち着くような、上品な匂いがふわりと漂ってきた。
しゃがみ込む山茶花を覗き込んできたのは、先ほどまで毒草団子を食べて苦しんでいた夕星である。
「あなた、もう大丈夫ですの?」
「あー、まあ、なんとか」
顔色がまだ悪い。全快ではないのに外に出てきたようだ。
「わあ、銀杏がたくさん落ちてる! 串焼きおいしいよねえ。ついパクパク食べてしまうんだけれど」
「食べ過ぎには注意が必要です」
「もしかして、毒があるの?」
「ええ」
夕星は頭を抱えて「そんな~、好物なのに!」と嘆きの叫びをあげている。
「それはそうと、どうして休んでいませんの?」
「いやだって、南天が私の膝枕をしていたんだよ!? 目覚めたときにっこり微笑まれたから、悲鳴をあげて逃げてきてしまったんだ!」
「失礼ですわね」
「いやいや、誰だって逃げるよ! こーんな分厚い膝枕に寝かされて、首が折れるかと思ったんだ! 硬いし、ごついし、まるで岩みたいだった!」
「あら、そうでしたのね」
そういえばと思い出す。幼少期母親がしてくれた膝枕はやわらかくて、なんだかいい匂いがして、とても寝心地がよかったことを。
「あ――!」
「どうかしたの?」
「いえ、さまざまなことをきっかけに、母の記憶が蘇ってくるものだと思いまして」
「そっか」
彼はそれ以上深く聞かずに、南天の膝枕への被害を訴え続けている。
山茶花の記憶に残る烈華の姿は、噂で耳にするような悪女ではない。
もちろんその片鱗を思わせるような発言もあったものの、山茶花にとっていい母親のように思えてならなかったのだ。
ただ、だからといって烈華が実はいい人で、後宮の妃らを毒殺して回っていた噂はデタラメだとは思えない。
現に毒草園は存在し、薬として処方されていた痕跡はなかったから。
どうして烈華は薬院宮を造ったのだろうか。わからないことだらけである。
「でさー、逃げようとしたら南天に捕まってしまって、無理くり押さえつけようとするんだよ。まだお休みくださいませ! とか口調はやわらかいのに、力はとんでもなく強くてさー」
今はどうでもいい話をしてくれる夕星の存在が、山茶花にとって少しだけありがたかった。
一通り南天への抗議を話し終えた夕星は満足したようで、帰ろうかと手を差し伸べてくれる。
「私は夫なのだから、君に触れていいんでしょう?」
「そう、でしたわね」
夫なのだから仕方がない。山茶花はそう思いつつ夕星の手を取って立ち上がる。
彼の手は思いのほか温かくて、人間ではないのにほどよいぬくもりを感じてしまった。
その後、夕星は手を繋いだまま薬院宮の中へと山茶花を誘う。
山茶花は振り払おうとしたのに、離してくれなかったのだ。
「手を繋ぐくらいいいじゃん」
「必要性を感じないのですが」
「感じるよ。こうしていると、この世界で独りじゃない、って思えるでしょう?」
「それは――」
たしかにと思ってしまう。
この広い毒草園を誰かと歩むなんて久しぶりだった。
幼少期はずっと烈華について回っていたのだ。そんな思い出が蘇る。
「本当に不思議ですわね。あなたと出会ってから母についていくつも記憶が戻っているんです。しようもないことしか喋っていないのに」
「たぶん、こうして生産性のないくだらない会話をすることも大事なんだよ」
夕星の言うことは一理あるかもしれない、と山茶花は思う。
この一年、南天という話し相手はいたものの、必要最低限の言葉しか交わしていなかったのだ。
「お母さんのこと、思い出したくない?」
「わかりません。ですが、失った記憶があるとうのはなんだか悔しいので、取り戻したいです」
「わかった。だったらこれからも、たくさんお喋りしよう」
思いがけないことを言うので、山茶花はまじまじと夕星を見つめてしまう。
猛毒妃の娘である山茶花と会話をしたがる者など、これまでにいなかったのだ。
彼が天帝の眷属で、人とは異なる感覚を持っているからだろうか?
生態については謎が多すぎる。なんてことを考えてしまった。
「もしかして、かっこよすぎて見とれてしまった?」
「いいえ、まったく」
正直に告げると、夕星はがっくりとうな垂れた。
「これでも帝都いちの男前だって、女性陣からもてはやされていたのだけれど」
「それでそんなにお調子者に育ったのですね」
「たぶんそうかも!」
否定しないので山茶花は思わず笑ってしまう。くだらない、と思う気持ちが大きかったものの、こうして笑うのは久しぶりのように感じてならなかった。
「山茶花、笑ったら君は本物の山茶花みたいに美しいね」
「毒のある曼珠沙華ではなく?」
「うん、山茶花だ。君にぴったりな名前だね」
これまで毒のある花に例えられることはあったものの、山茶花という名前に相応しいと言われたことは初めてである。
頬が熱くなっているのを感じていた。だがすぐに、にこにこする夕星と目が合い、彼の口車に乗せられたのではないか、と気付く。
「甘いことを言って、何か狙っているのではありませんの?」
「まさか~! 誤解だよ~!」
間延びした喋りをする彼の言葉に、信憑性は感じない。
これからも警戒を続けなければ、と思う山茶花であった。