翡翠妃の工房
突然の訪問だったにもかかわらず、花宮の女官らは山茶花と夕星を歓迎してくれた。
三つ子の女官、松厘、竹厘、梅厘が出迎え、案内してくれる。
「翡翠妃、少し元気になられたようで」
「公主様のおかげだとおっしゃっておりました」
「また会って話をしたい、と口にされていたので、きっと喜ばれますよ」
毒に囲まれて生きてきた山茶花と、画師の家系に生まれてきた翡翠妃は、それだけしかないという似たような境遇だったからか、共感する部分が多かった。
互いの境遇を打ち明けた結果、警戒が緩んだのだろう。
心の内に溜め込んでいた思いや考えなども打ち明けたので、スッキリした部分もあるのかもしれない。
それらについて考えていると、翡翠妃の体を蝕んでいたものの正体は心的外傷だったのではないか、と山茶花は思うようになる。
このまま元気になればいい。そう願っていたが――。
「今日は工房で作業をされているんです」
「普段は誰も入れないのですが」
「公主様であれば案内してもいいとのことでしたので」
特別に山茶花のみ工房に入れてもらえるようだ。
「その、申し訳ないのですが」
「夕星様は工房のお外でお待ちいただけますか?」
「温かいお飲み物とお菓子を用意しますので」
「いや、いい! 喉も渇いていないし、お腹も空いていないから、必要ないよ」
廊下は寒いだろうと言われても、夕星は頑なに拒否する。
「あなた、お言葉に甘えたらいかがですの?」
「いや、妻がいない場で、他の女性と過ごすわけにはいかないからね」
その発言で山茶花は昨日のことについて思い出す。そういえば女官と夕星が楽しげにしている場を目撃し、機嫌を悪くしてしまったのだ。
特に何か言ったわけではなかったものの、夕星は山茶花の気持ちを察してくれたのだろう。
恥ずかしくなるのと同時に、ひっそりと嬉しく思ってしまった。
女官らが工房の外から声をかけるも、製作に集中しているのか返事はない。
普段は施錠し、誰も入れないようになっているらしい。入室しても問題ないと言うので、お言葉に甘えさせていただく。
扉を開くと、そこには絵を描く翡翠妃の姿はあった。
出入り口に背を向けているのと、絵を描くことにのみ意識が集まっているからか、山茶花が入ってきたことに気付いていないのだろう。
工房の中は濃い絵の具の臭いが漂っていた。
そっと接近してみると、翡翠妃が皇帝の絵を手がけていることに気付く。
筆を用いるだけでなく、指先も使って描いているようだった。
そんな姿を覗き込んだ山茶花だったが、絵を見た瞬間ギョッとする。
「え――?」
なぜかと言えば、描かれた皇帝の肌の色味が真っ黄色だったから。
昨日、画廊で見かけた肖像画に描かれる皇帝の顔色はこのように黄色くなかった。
なぜ、このように肌を黄色く塗るのか。
正直なところ、山茶花に絵心などなく、芸術を理解する知識もない。
黄色は皇帝を象徴するような色合いで、黄色を中心に描いている絵である可能性がある。
また一度黄色く塗って、あとから肌色を重ねる手法を使って描いているかもしれないのだ。
別におかしな絵ではない。山茶花はそう自らに言い聞かせていたのだ、もう一歩、前に進んだ瞬間に、ほのかに刺激のある臭いを感じた。
それは絵の具が発するはずもないきつい臭いである。その臭いを山茶花は嗅いだ覚えがあった。
「これは――!?」
その声を聞いて翡翠妃がハッとなる。振り返って山茶花の姿に気付くと、少し驚いたような表情を浮かべた。
「来ていたのね、びっくりしたわ」
「申し訳ありません。一応、女官が声をかけたのですが」
「気がつかなかったわ」
翡翠妃が持つ調色版には、美しい白と黄色の絵の具が付着している。
「翡翠妃、その調色版を貸していただけます?」
「いいけれど、どうして?」
「少し臭いが気になったものですから?」
「そう? 別に特別な臭いなんてしないのだけれど」
調色版を受け取り、山茶花は白と黄色、二つの色の臭いを確認した。
白いほうから先ほど感じた刺激臭を確認する。
「翡翠妃、この白い絵の具についてお聞かせいただけますか?」
「これは〝白鑞〟と呼ばれている、我が家に伝わる伝統的な顔料なの」
「白鑞、ですか……」
通常、白鑞というのは錫を使った合金を呼ぶようだが、翡翠妃の実家では白い顔料を白鑞と呼んでいたようだ。
「手作りできる顔料で、きれいな色を作り出せることから愛用しているの」
白鑞についての作り方は、妊娠祝いにと兄から教わったものらしい。
「子どもは生まれなかったけれど、この顔料の作り方を教えてくれたことだけは幸運だと思っているわ。だって、皇帝陛下をこんなにも美しく描けるのだから――!」
翡翠妃は皇帝の絵を完成間近だと言った。
彼女には皇帝の肌が、美しい色を帯びているように見えているようだ。
おかしい。やはり、この絵はおかしかったのだと山茶花は確信する。
「翡翠妃、白鑞は手作りされているとおっしゃっていましたよね?」
「ええ、そうだけれど」
「見せていただけます?」
「ええ、もちろん」
工房の端に置かれた壺の数々が白鑞を作っているものだという。
「たった二つの材料で手軽に作れるのに、驚くほど美しい白が表現できるの」
翡翠妃は上機嫌な様子で話し、壺の蓋を開いた。すると、先ほど嗅いたムッとするような刺激臭が漂ってくる。
蓋には紐がぐるぐる巻きにされており、材料の一つが吊されて出てきた。
それは金属で、山茶花は恐る恐る問いかけた。
「翡翠妃、それはもしかして、鉛ではありませんの?」
「鉛? 兄は〝青金〟と呼んでいたけれど」
「青金は鉛の別称ですわ」
「そうだったのね」
その瞬間、山茶花は翡翠妃が鉛中毒だったことに気付いた。




