鳳凰宮にて
その後、山茶花は夕星と揃って皇后に報告をしに向かった。
事情を聞いた皇后は深く安堵した表情を浮かべる。
「毒ではないと聞いて安心したわ。それで思思妃の容態はどうなの?」
「現在は軟水化させた水を用いるようになっていまして、体調も改善しつつあるようです」
「軟水化? それはなんなの?」
「簡単にご説明しますと、硬水を沸騰させたあと数時間放置し、沈殿した白い成分を取り除くと軟水に近いものになるんです」
薬院宮に戻ったあと、母烈華の残していた記録を読むと、この方法が書かれてあったのだ。
ただどの硬水もできるわけでなく、〝永久硬水〟と呼ばれる塩化物の濃度が高いものに関しては煮沸しても軟水化できるわけではない、と記録されていた。
「皇帝陛下が思思妃のために軟水を取り寄せてくださるようで、それまでは軟水化させた硬水を使っていただく予定です」
「それを聞いて安心したわ。それにしても、よく気難しい思思妃と打ち解けられたわね」
「ええ……」
皇后雪花の娘、月花に少し性格が似ているから上手く接することができた。さらに思思妃のほうが年上な分、年若い月花よりも扱いやすかった。とは口が裂けても言えない。
「まさかこんなに早く解決してくれるなんて。夕星様に依頼してくれた皇太子殿下に感謝しなくてはならないわね」
山茶花の兄でもある皇太子狼灰の手柄として片付けられそうになっていたものの、夕星が皇后相手に物申す。
「いやいや、事件を見事に解決したのは山茶花だから。その辺は認めてほしいな」
「そうね。さすが、烈華様の娘!」
それを聞いた夕星は落胆した様子を見せていたものの、山茶花はなんとも思わない。
帰り際、鳳凰宮の廊下で夕星が不満ありげな様子で話す。
「皇后陛下はどうして山茶花の頑張りを評価しないのかなー。せっかく山茶花を褒めるように言ったのに」
「別にいいのでは」
「どうして? 山茶花は悔しくないの? 自分の頑張りを他人の存在を通して褒められるんだよ? 嫌じゃないの?」
「ええ。他人がどう思うなんて、興味がありませんので」
山茶花は生まれてから外の世界から遮断された薬院宮で育った。
競争する相手もおらず、母烈華は他人と山茶花を比べることもなかったため、他者からどう見えているのか、というのを気にすることもなかったのだ。
「だったら、私からどう思われているとかも感心はないの?」
唐突に想定外な質問を受け、山茶花は立ち止まる。夕星は二、三歩進んでから、山茶花がついてきていないことに気付いて振り返った。
「山茶花、どうかしたの?」
「いえ、自分の感情に戸惑っていましたの」
山茶花が他人に対して思っているように、夕星が自らに対して無関心だったら寂しい、と感じてしまったのだ。
「え、何何? どういう戸惑い?」
「なんでもありません!」
懐っこい犬のように山茶花の周囲をくるくる回り始めた夕星を前にした山茶花は、すぐさま我に返って気付く。別に彼と本当の夫婦になるわけではないのだから、気持ちを求めるのは残酷なことなのだ、と。
「あなた、帰りましょう」
「ご褒美とかある?」
「お兄様にねだったら、何かいただけるのでは?」
「私は山茶花から貰いたいんだよ」
山茶花は夕星に対してあげられる物なんてない。
「毒草まんじゅうでしたら、作って差し上げられるのですが」
「わあ、毒草かー。でも、山茶花が作ってくれるんだったら、頑張って食べてみようかな」
「冗談です! 頑張らないでくださいませ」
「山茶花、冗談とか言うんだ」
「言いますとも! そもそもこの問題はあなたが持ち込んだものですから、わたくしからご褒美を与えるのはおかしくありませんか?」
「言われてみればそうかも! 山茶花、何か欲しい品物とかある? なんでもいいよ! 簪とか耳飾りとか、服とか! 犬や猫の愛玩動物でもいいし!」
突然言われても思いつく物などない。あえて言うとしたら「平穏な毎日」だと答える。
思いがけないものを望んだからか、夕星は瞳をまんまるにして山茶花を見つめる。
けれどもそれは一瞬のことで、すぐに喋り始めた。
「金銀財宝が欲しいとか、皆の尊敬を集めたいとか、権力を手にしたいとか、思わないんだ!」
「毒草園に引きこもっている身で、それらを手にしても意味がないと思うのですが」
「薬院殿から外の世界に出たいと思わないの?」
「いいえ、まったく」
山茶花は自分のことを寝室で飼育されている鴆ダイダイと同じだと考えている。
そこでしか生きられないかごの中の鳥なのだ。
「食べる物があって、寝る場所があって、着る服も用意されて、安全が保証される場所があって、なおかつ傍に誰かがいてくれる。これ以上、何を望むというのですか?」
「たしかに、それだけあれば生きていけるよね」
山茶花は欲がないのだ、と指摘され、そうかもしれないと認める。
「ただ、こうして薬院宮の外に出て、あれやこれやとしていると、山茶花にも欲が出てくると思うな」
「欲のある自らというのは、化け物のように思います」
「化け物のような山茶花かー。うーん、見てみたいかも」
「悪趣味ですわ」
山茶花自身はそんな自分など見たくない。
これまで通り毒草園に引きこもって、毒草に触れるだけの毎日を過ごしたいと望んでいた。
夕星は山茶花の手を握り、帰ろうと言う。
彼の心地よい温もりを感じながら、もしも化け物になるのならば元凶はこの男に違いない、と思う山茶花であった。