2.流浪の陰陽師と出奔武者
名前の呼び方について。諱や通称、官位呼びなどありますが、整理するのも大変なため深く追求せず描きます。ご了承ください。
畳6畳ほどの小さな宿の部屋の一室で、隣部屋から微かに聞こえる話し声に目が覚めた若武者は、布団に横になったままその声へ聞き耳を立てていた。
その若武者は、総髪でボサボサの髪を1つに結き、猩猩緋の着物に袴着で、顔は判官九郎と共に絵図に描かれる、武蔵坊弁慶のような意志の強い顔である。その名を滝川彦九郎一益と言った。
常人では聞こえないであろう声量の隣室の会話だが、甲賀忍びの土豪・滝川家を出自とする若武者・滝川一益にとっては、まるですぐそばで話しているかのように明瞭に聞き取れる。
— こんな夜更けに人が1人しか寝れぬような部屋で一体誰と話してやがる。耳が良いってのも良いことばかりじゃねぇな — 聴力が敏感が故に寝れない一益は、隣室の独り言が終わるまでは我慢しようと横になっていた。
『えぇ、えぇ。たしかに。ネズミ殿の言う通り、ここの番頭さんは客の身なりで対応を変える人のようですが。あの程度なら、可愛いものでしょう。』
会話というより、誰かが一方的に話しかけているだけのように思えるが、話しかけられているものが人ではないかのような物言いに困惑する一益。
『ネズミ……殿。なにかの丁符のことか? 』
1人で泊まっているはずの隣人の会話を聞く一益は、忍び同士のやり取りで暗号や丁符を利用して会話をすることがあることを思い出し、夜中に打ち合わせをする忍びの会話かと思案した。しかし、相手の返答が全く聞こえないことと、その後のやり取りから忍びではない “ なにか “ であると確信する。
『うーむ。そぉですか。私も"妖退治"をたくさんしてますが、いつも1番面倒なのは人間ですねぇ。ネズミ殿、ありがとうございました。私はこれから少し出ますので、しばらくこの部屋で休んでいかれてはどうですか』
会話に出てきた、"妖退治"という言葉。聞き慣れないその単語に、隣の部屋の住人に興味が湧いた一益。御伽草子などで妖の話を聞いたことあれど、一益自身が実際に出会ったことはなかった。
少し経つと、隣の部屋から人の気配が消えたことを確認した一益は、サッと自身の布団から抜け出すと、忍びの手業で音もなく隣の部屋へ忍び込んだ。甲賀でも中忍と呼ばれるそれなりに高い技量を持った一益にとっては、音もなく移動することは朝飯前といったところである。
『ほんとにネズミ1匹しかいねぇぞ……』
先ほどまで声がしていた部屋には、漬物を手に持ってカリカリと齧るネズミが1匹。一益がやって来ようと、まるで部屋の主人であるかのように、でっぷり座って漬物を食べ続けている。
『さっきの会話の主人はどこに行ったんだ……』
部屋を見渡した一益は、僅かに開け放たれた窓を見て、
『おもしれぇ。着いていくしかねぇな』
そう呟くと、すぐに自分の部屋から腰に拵える忍び刀を手に取ると、開け放たられた窓から道仁よりも、しなやかにスルリと抜け出した。
『忍びは夜目も、追跡も、お得意様よ』
そう呟くと一益は、道仁が消えていった山間の神社の方角へ走り、同じように闇夜に消えていった。
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蘆屋道仁は、宿から猩猩緋色の着物を纏う若武者・滝川一益が追いかけてきているとは知らずに山間の神社へ向けて歩き続けていた。子の刻も終わりに近づき、山々の生き物達の気配が寝静まるなか、灯りも点けずに道仁はしっかりした足取りで山道を登って征く。
『ん? 気配がありますね。丑の刻にはまだ早いですが、既にいるようだ』
道仁は懐から人型の懐紙を取り出すと、口元に添えて
『現幻夢、成為人身。急急如律令』
細かな呪文を幾つか口にし、懐紙を手放した。手放された人型の懐紙は地面に落ちることなく、道仁の前にフワリと浮き上がり静止した。
それには先ほどから道仁の頭上の木の上に潜んで様子を窺っていた一益も、まるで糸で釣られているかのように人形が浮遊する様に狼狽える。
『なッ! どういうことだ。』
正面の気配のみを感じていた道仁は自分の頭上、やや後ろからのその声に驚いて振り向くと、そこには木の枝の上に立つ猩猩緋の着物を着た若武者が1人。
『妖の類ではないようですが、どちらさまで? 』
細い木の枝の上に腰掛ける一益を見つけた道仁は、 — あのような細い枝を折らず、しかも私が気づけないような気配の断ち様。常の人間にしてはかなり腕が立つ — そんなことを考えつつ、一益から妖特有の気配がなく、道仁に対する敵意もないことから穏やかに頭上の一益へと声を掛けた。
『俺としたことが、忍び途中で声を出すとはまだまだよな。よっとッ』
明らかに体格の良い若武者を乗せては、ポキッと折れてしまいそうな木の枝から、掛け声と共に軽々と飛び降りる一益。腰掛けた木の枝葉の一枚も散らさず、道仁の前へ降り立った。
『俺は甲賀郡滝川村の彦九郎ってもんだ。訳あって家を出奔、今夜、宿であんたの隣部屋にいたんだが、面白そうな会話が聞こえたもんで着いてきた』
忍びといえば、暗殺や盗聴といった人付き合いとは程遠いイメージがあるかもしれない。しかしこの滝川一益は甲賀忍びの流れは汲むが、お家は中忍や侍寄りであり、父親・滝川資清は滝川城の城主で、領主教育を受けた一益は忍術一辺倒の者ではなかった。
『この先からはなんだか嫌な気配がする。あんたはここに一直線で向かってきて、さらにはその目の前に浮いた人型の懐紙。見た目は武士のそれだが、あんた……何者だ?』
あまり人と群れることが好きではない道仁。そして一益から一方的に質問された道仁だったが、陰陽師の自分に悟られない気配を断った追跡術と常の人間では感じ取れないこの山道の先から発せられる " 妖特有の気配 " を感じ取る本能を兼ね備えた一益という人間に、珍しく興味を持った。
『宿でネズミ殿との会話を聞かれていましたか』
道仁のその一言に、訝しげな表情で片眉を釣り上げた一益。まさか本当にネズミと会話していたとは思ってもいなかった一益はさらに問う。
『部屋にはたしかにネズミが1匹いたが、ほんとに会話していたのか? 』
『まぁ、その通りです。あなたが信じるかは別として……。さて、申し遅れましたが、私の名は蘆屋道仁。かの平安時代の陰陽師、蘆屋道満公を先祖に持つ、民間陰陽師です。見た目がこの格好なのは、陰陽師といえど、旅をしていると敵は妖より人間の方が多いから、ですね』
『まぁ、その浮いた懐紙を見せられちゃあ、陰陽師というのも頷ける。会ったのは初めてだが、ほんとに陰陽師がいるとはな。安倍晴明と蘆屋道満くらいなら俺でも知ってる御仁だ。律令外とはいえ、陰陽師としての名家。その家系の末孫であるとは、この一益、恐れ入り申した』
そう言うと一益は追跡で乱れた衣姿を整え、改めて道仁へ正式に挨拶をした。先祖や家系を自称、改竄する御家は数あれど、道仁の落ち着き様と先ほどの懐紙の式神を見た一益は道仁の名乗りが嘘であるとは思えなかった。
『道満公が優れた陰陽師だったことは認めますが、その誉れは蘆屋家ではなく、あくまで道満公の功績。未熟な私にそこまで格式張る必要はありませんよ』
『そう言ってもらえると助かる。さて、自己紹介はここまでとして、この先にはいったいなにが待ち受けているんで? 』
『この先には土山宿の鬼門を護る社があるようで。ネズミ殿が言うには「ここで宿の若女将を呪った輩がいる」と言うんです』
『ほぉう。呪いとはなかなか物騒な。気立てのいい女将だと言うのに……いや、だからこそ、他人の妬み嫉みを買うものか。おおかた別の宿の女衆が原因ってとこですかい? 今はちょうど丑の刻、場所は社ときたら、丑の刻参りってとこでしょう』
子どもがなぞなぞを解いた時のように自慢げな顔で道仁へそう言う一益。もはや呪いと言えばそれしかないといった具合に自らの答えに自信を持っていた。
『どうですかねぇ。ネズミ殿が言うには「その者、自らの行いに怖気付いたのか、はたまた夜の山道が怖かったのか。丑の刻参りは最初の2日で辞めた」ということです。霊験あらかたな社であっても、2日で呪いは完成しない。』
なんとも自信たっぷりに答える一益の機嫌を損ねないように気を遣った道仁は、諭すような穏やかな口調で一益に答えた。
『だが、この嫌な気配は今もしているぞ? 丑の刻参りでなかったら、いったいなにがこの気配を発しているんだ』
『それを確かめに来たのですよ。彦九郎殿も、征きますか? 』
山道の先から発せられる嫌な気配を改めて確認した一益は、未知の体験にほんの少し逡巡すると、道仁へ答えた。
『うむ、征こう』
道仁は、怖いもの見たさの蛮勇ではない、本気の一益の面構えを確認すると、
『わかりました。では、この人形の前には決して出ないように。声も出してはなりませんよ。私の呪が解けますからね』
『……ゴクッ』
顔は笑いながらも妖しげな眼光を携えた道仁の忠告に、一益は唾を飲み込みながら頷くのだった。
— 2人はまた、暗い山道を懐紙の人形を先頭に、朧げに形が見えてきた社へ向かって一歩、また一歩と登り始める —
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