9.長野家・雲林院家との邂逅
無事、雲林院祐基らを送り届けた道仁、一益一行は、野呂館にて一晩過ごすこととなり、夕餉を野呂師忠と共にしていた。
『まずは一献。此度は助太刀から護衛まで、御両人には感謝しております。雲林院からの褒賞もあるとは思いますが、この金子は某からの感謝の気持ちでござる。明日の主人への報告までよろしくお願い申します』
師忠は襲撃されたタイミングでこの2人に出会えたことに感謝していた。また、2人の所作の端々に見える洗練された振る舞いに一介の浪人ではないこともひしひしと感じていた。
『頭を上げてくだされ、長門守様。これも何かの縁。私と彦九郎殿も縁あって一緒に旅をすることになったばかりなのです。星の巡り合わせがこのようにさせたのでしょう』
『かたじけない』
そう言うと、3人は杯を掲げ酌み交わし、昨夜のことと野呂師忠の仕える雲林院家について話し始めた。
そもそも、この野呂師忠が家老を務める雲林院家は藤原南家工藤氏流で工藤祐経の子孫とされる。
安濃郡を治める長野家と奄芸郡を治める雲林院家は同じ工藤一族であり、長野家を主として協力体制をとっていた。
南北朝時代には北朝方に属した長野・雲林院の工藤両家は南朝方の北畠家、関家と戦い、以来この両家と常に争う関係となる。
此度の雲林院祐基を伴い、師忠が関家の治める関城へ向かったのは、関家と諍いについて暫し講和を結ぶためであった。この和睦は、北伊勢に進出を狙う近江六角家が関家当主・関盛信に六角家重臣の蒲生定秀の娘を当てがった為、近江六角派となった関家が数年前から工藤一族と戦を続けていたことに由来する。
しかし、六角家も畿内に影響力を必要とするため、援軍を出していた伊勢から兵を戻すと、その後は関家一党と工藤一族の膠着状態となっていた。
そして今回、南の北畠晴具が、志摩、大和の数郡、紀州の海沿いを傘下に治めると、長野・雲林院の北方へ侵攻の兆しが見えた為、北側に位置する関家一党との和睦となったのだった。
『工藤両家は合力したとしても、北と南の両方を相手取るのはいささか厳しい。そのため此度の関一党との和睦となったのです。その帰りを襲うとは、神戸家の増長に手を焼く安芸守殿がわざわざ反故にするとは思えませんので、近江六角の手のものか、はたまた北畠によるものか……』
一益は、襲撃した者が三雲ら甲賀忍びだったため、襲撃の主は近江六角家であろうことは気づいたが、十中八九といったところで定かではないため、そのことについて師忠には伝えなかった。
『ところで御両人はなかなかの剣の腕前とお見受け致しました。某は慶四郎様のように正式に弟子入りした訳ではないのですが、鹿島新當流の手習いを受けまして。御両人は土佐守様の高弟と比べても遜色ないかと。どちらで剣術を収めたので? 』
雲林院家にて、しばらくの間、祐基の師範を務めていた塚原高幹はその家中の者達の稽古を弟子達と行っていた。祐基のように正式に弟子入りを認められる武士はいなかったが、雲林院家の武士達はそれなりに剣の使い手が多くなったのだった。
『某は甲賀の土豪・滝川家の生まれにて忍びの術を使いますが、剣術としては愛洲陰流を使います。いまは出奔してこの様な旅を』
愛洲久忠によって創立された愛洲陰流、または陰流と呼ばれる剣術は、神道流、念流と並び兵法三大源流と呼ばれ、新陰流などの他の剣術の基となった。
『なるほど。ぜひ機会があれば御手合わせ願いたいものです。蘆屋殿はどうでしょう。先ほどは目にも留まらぬ抜き払いで御座ったが』
『私の剣術は少々珍しいものでして、あまり使い手はおりませぬ。陰陽師の使う剣術にて、京八流と申します。源流は京の八つの流派とも、鬼一法眼が創立したとも言われる古いものでございます』
自らの知らない剣術を持った道仁に興味を持った師忠。また、工藤雲林院という平安時代から続く古い御家に仕える師忠には、陰陽師の使う剣術と蘆屋という古い家名に覚えがあった。
『失礼ながら、陰陽師で蘆屋という家名。古の法師に蘆屋道満というお方がいらしたはず。蘆屋殿はその子孫でいらっしゃるのか? 』
『いかにも。蘆屋道満が末孫で御座います。今も代々律令外で流れの陰陽師をしております。彦九郎殿とは訳あって共に旅をしておる次第で』
平安時代の初期、陰陽寮があった頃は律令制下で陰陽道に関する知識は国家秘密として管理されていた。その後、肥大化する官僚制の下、その締め付けは緩くなり、律令外で陰陽道を利用した吉凶占い、呪詛が横行し始める。
そんな時代の中で、京では安倍晴明、賀茂保憲といった陰陽寮に属する陰陽師が天皇、皇族、公卿から信頼を得ていった。また地方では蘆屋道満ら律令外の民間陰陽師が活躍するようになった。
『それはそれは。雲林院工藤家の祖であらせられる藤原為憲公と同時期に平安京にてご活躍された蘆屋道満公の後胤に会えるとは光栄で御座います』
平安時代中期、藤原為憲は平将門の乱に官軍大将として活躍。百足退治で有名な俵の藤太・藤原秀郷と共に活躍し工藤姓を興した。
同時代に平安京で安倍晴明と共に数々の逸話を残した蘆屋道満。もしかしたら、為憲と道満が京の都で出会っており、杯を交わしたもしれない……
そんなことも頭に過ぎた師忠は、道仁の妖退治の昔話を肴に子の刻頃まで酒を酌み交わすのだった。
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