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リットン伯爵が青い顔をして我が家を訪れたのは、翌日の夕刻、既に婚約破棄の申請が通り、他家から仕事の打診を数件受けた後のことである。
額の汗をハンカチで拭い、謝罪に来たはずなのに息を切らせて応接間のソファに座って待っているリットン伯爵の愚鈍さに呆れながら、私は女主人然とした態度で淡々と接することにした。
現に私は王都にいる間、領地にいるお父様からスメラギ侯爵家当主代行を仰せつかっている。
政略が絡む婚約をさっさと破棄したのも、勝手に伯爵家との仕事を停止したのも、私が独断の権限を有しているからである。
私は婚約破棄が成立するや否や、その証明の写しと慰謝料の請求書、仕事の契約解消を通達する旨の書面をリットン伯爵に送り付けた。
それからもう二時間以上も経っているというのに、彼は先触れもなく、手土産すら持たずにやって来た。
リットン伯爵家のタウンハウスは目と鼻の先だ。はっきり言ってトロイ。気が利かず、情報が遅いのだ。なぜリットン伯爵が借金まみれなのかが理解できる。
きっと典型的な貴族のお坊ちゃんなのだ。さすが「真実の愛」なんて恥ずかしげもなく叫ぶ男の親である。
「こ、これは本当なのですか?!」
婚約が破棄された証明書を掲げて、信じられない様子で伯爵は問う。
「ご覧の通りです。ご子息から何も聞いていらっしゃらないのですか?」
「む、息子は昨日から帰っていないのです。確認するにも何処へいるのやら」
まさか帰っていないとは。家の当主に報告もせず、ステラ嬢とよろしくやっているのだろうか。
「真実の愛を見つけられたとか。政略結婚なんかしたくないそうですよ。わたくしに、婚約を破棄したいとハッキリおっしゃいました。お相手は、ステラ嬢という可愛らしい方でしたわ。お心当たりはありまして?」
「ステラ………男爵家の娘です……親戚筋の……………」
リットン伯爵は呆然となり、手にしていた書類をバサバサと落としてしまった。
親切にもイアンが拾って伯爵に手渡した。せっかくこちらから送ったものを紛失されても困る。
「そういうわけですので、無事に婚約破棄は成立しました。こんなこともあろうかと細かな取り決めをしておいて、本当によかったですわね。ではごきげんよう」
話は済んだとばかりに去ろうとすると、伯爵は慌てたように引き留める。
「待ってくれ! 仕事は……仕事はどうなる?!」
「契約書の通りですわね。すべて引き揚げて他に任せることになります。ご子息としてもすべて承知の上でしょうから、何かお考えがあるのではなくて?」
「馬鹿な……あれにまともな考えがあろうはずがない」
「であっても、我が家がとやかく言うことではございませんわね。あとの処理は弁護士に任せておりますので、失礼します」
踵を返し扉に向かうと、リットン伯爵が追いすがり私の腕を取ろうと手を伸ばした。未婚女性に勝手に触れようなどとは、無礼も甚だしい。
イアンは眉間にシワを寄せ、不快感を隠さない。しかし、止めもせずに眺めている。彼は強いが、とばっちりはごめんだと思っているのだ。
私の腕に触れる寸前で、伯爵の身体は弾き飛ばされ床に崩れた。
「な……?」
彼はわけが分からないという表情で私を見ている。
イアンは「あーあ……やっぱり」と小声で呟き、再び宙に舞った書類を拾い出した。
聖女の能力は、「浄化」「治癒」「結界」だ。穢れを浄化し、ケガと病を治し、防御結界を張ることは、世間の常識である。
この世界に魔法は無くなったが、力の根源を別とする異世界のスキルは失われてはいないのだ。
私は聖女の孫である。その力が受け継がれていたとしても、何ら不思議ではない。
侯爵令嬢たる私が、護衛も連れず街でブラブラ散歩して帰れるのは、己の身を結界で守っているからである。お陰で、暴力や誘拐はもちろんのこと、スリにも遭わない。
リットン伯爵は来た時から冷静ではなかった。警戒して結界を張っているに決まっている。
何も知らずに勢いよく突っ込んでくれば、弾き返されるのは当然のことだ。
「公衆の面前で婚約破棄を叫んで恥をかかせておきながら、今度はその侯爵令嬢に乱暴を働こうなどとは、伯爵家は正気ですか?」
そう言いながらイアンは集めた書類をトントンと揃え、リットン伯爵の目前に「はい」と突き出した。
伯爵の顔が、かぁっと赤く染まった。
「こ、こ、これは、そんなつもりではなかったのだ! 考え直していただけまいかと思い、引き留めたかっただけで、断じて乱暴するつもりなど…………」
私に冷たい視線で見降ろされ、言い訳をするが最後は尻すぼみになった。
それでも彼は何とか居住まいを正すと、声を振り絞った。
「お願いだっ。このままでは、我が伯爵家が潰れてしまう。仕事の方はなんとか継続してもらえまいか」
「この期に及んで、頼み事とはどこまで厚顔無恥なのか」
イアンは呆れている。
すると貴族の矜持に触れたのか、リットン伯爵の顔に怒りが滲む。
「私はスメラギ侯爵令嬢と話しておるのだ。たかが使用人ごときが失礼なっ………」
「彼は家族です」
二の句を継ごうとして大きく息を吸い込んだ伯爵は、私の発した言葉でピタリと黙った。
「彼はわたくしの大切な家族です。イアンを侮辱することはスメラギ侯爵家を侮辱するのと同じ。わたくしは、決して許しません。それに――」
私は間をもたせ、更に冷ややかな目でリットン伯爵を射抜いた。
彼はただ青い顔で私の言葉を待っている。
ごくりと彼の喉が鳴ってから、やっと口を開く。
「わたくしはまだ、あなた方から謝罪の言葉を一音たりとも聞いていません」
言われて初めて気がついたのか、彼はハッとしてばつの悪そうな顔を浮かべた。
急いで謝ろうとするも、私の言葉に阻まれた。
「止めてくださいね? 今、こんな所で謝罪されても、嫌々としか思えませんもの。もうすぐ社交シーズンも終わり、わたくしは領に帰ります。そうなれば、あとは当主である父が決めることになりますわ」
後は当主自ら決めると言われ、まだ希望はあると思ったのか、赤い顔のままのリットン伯爵は、その後、私に促され、大人しく帰っていった。
「いいんですか、お嬢。あんな温情、必要ですか?」
伯爵が屋敷を出たのを確認してから、イアンは口をとがらせた。
「温情? 私は父に任せると言っただけよ。助けるとは言ってないわ。あの伯爵領はね、コメを栽培するのに最適なの」
「あ……なるほど」
「慰謝料の代わりに領の土地を貰うか、リットン家が去ってから手に入れるか。どちらにせよ、婚約を破棄した以上、あの家は終わりよ。あとはお父様が上手くやるわ」
この世界の主食はパンだが、スメラギ領ではコメも食べる。長年のPR活動の甲斐あって、近年ではコメ食も広まってきた。
オムライス、ピラフ、ドリア、牛丼、かつ丼……レストランは大盛況。我が家の懐を大いに潤した。
さらに他領がワイン生産に精を出すなか、我が領は純米酒だ。磨き抜かれたコメで仕込む酒は、味、香り、希少性の三拍子が揃った、高値で取引される名産品だ。
そしてこの度、コメ麹の美容成分を抽出した化粧品シリーズを私の商会で大々的に売り出す運びとなったので、コメの需要が大幅にアップするのだ。
しかしコメの栽培地は限られ、どこでも作れるわけではない。
リットン伯爵は自分の領地の価値に気づいていないようだが、我々にはとても魅力的なのである。
「いちおう、こちらにも政略の利はあったんですね」
「いちおうね。婚姻であそこを手に入れる選択肢が増えたってだけだけど」
でも向こうにしてみれば、破産を免れる唯一の方法だった。
だからこそ傷つきもする。没落を選ぶほど私との結婚は嫌だったのだ、と。
「あいつらはバカですね」
心底、軽蔑したようにイアンは吐き捨てる。
彼は転生者ではないので、この世界の価値観だけで生きている。
なんとなく疑問に思ったことを口にしてみた。
「やっぱりストロベリーブロンドって魅力的?」
この世界で二十年暮らしてきても、前世の記憶と常識が邪魔をして、未だに慣れない髪の色である。私の頭の中では、アニメや漫画のヒロインというイメージ。
そう、ヒロインだ。
イアンは目を丸くする。そして私の頭をポンポン撫でると、昔の呼び方で、答えにならない答えを返した。
「だからチィは、可愛いってば」