花《か》の一・昔なじみと秋の空
秋が来た。
鏡池の池底に、はらはらと紅葉が敷きつまってゆく。ヒスイとコハクが一緒になって、もうじき一年が経とうとしている。
……そんなある日の昼下がり、ヒスイがぽろっとつぶやいた。
『あ。……忘れておった……すっかり忘れておったぞ、我としたことが……』
『うん? 何を忘れてたの、ヒスイ?』
『ああ……いや。たいしたことではないのだが……』
応えたヒスイが急に宙空に円を描き、ぽそぽそと呪文のように何かつぶやく。コハクの耳に『妻を娶った』の一言だけが聞き取れた。
『……さて、コハク。茉莉花茶を三匹分淹れてはくれぬか?』
『三匹分? 分かった、今淹れてくるね!』
訳が分からぬながらも素直にうなずき、コハクが台所へと向かう。そんなコハクと絶妙に入れ違いのタイミングで、城内にいきなり『客』が訪れた。
『たのもーう! ひっさしぶりねおいヒスイ! 結婚したっちゃどういうことじゃあ!』
魔術の紋様を織りこんだ赤い絨毯。その上に突如現われた赤毛の女人が、ヒスイに向かって噛みつくようにがぶり寄る。ヒスイが大きく息をつき、これ見よがしに白いひたいに手をあてた。
『ああ、またうるさいのが来よったな……』
『うぉい! 聞こえてるわよそこぉ! だいたいあんたね、無事に帰ってきときながら丸一年音沙汰なしってどういうことぉ!?』
『ぎゃいぎゃい騒ぐな。いろいろ忙しかったのだ』
『ああ、そりゃ忙しいでしょうよ! 昔なじみのわたしをさし置いて、幼可愛い奥さんといちゃいちゃかますのにねぇ!!』
やかましいなぁ……。大きく息をついたヒスイが、改めて昔なじみを見つめる。
鏡池の近くにある、香勝池の主の『女蛇』。彼女はヒスイの古くからの友蛇だが、容姿以外にいろいろと難のある性格だ。
それでも、見た目はヒスイが囚われる以前と変わらず美しい。……さらさらと長く赤い髪。柘榴石のような目をした蛇の化身に、ヒスイはたしなめる口ぶりで言いかけた。
『騒ぐな、ザクロ。お前にも我の嫁を見せてやる。きっとお前も気に入るはずだ』
『はーん! 誰が気に入るもんですかっ! だいたいねあんた、あんたが捕まったときにはわたしも狙われてたんでしょ!? わたしの池に護力の膜を張ってくれて、わたしを護ってあんた一匹が捕まるっておかしくない!? かっこよすぎだっつーの!!』
『……良くしゃべるな、お前』
『しゃべりますとも! ついでにわたしがあんたを救けに行けないように、香勝池から出られないようにしちゃってくれて! 今さっきあんたが術を解いたから、さっそくここにやって来ましたっ!』
『すまん。正直お前のことを、今の今まで忘れていた』
『かーっ! ほんっと正直ねっ! あっさり認めちゃうとこもかっこよすぎだっつーの!!』
『それはさっきも聞いたぞ、ザクロ。……別に格好はつけていない。救けるうんぬんに関しても……。お前が絡むと何かと面倒になるからな』
『はぁあぁっ!? あんたね、わたしがどんっっっだけ心配したと……っっ!!』
ふいに言葉を切ったザクロが、ヒスイの後ろの扉を見つめる。刺繍彫りの扉が開いて、コハクがひょいっと顔を出した。
『ヒスイ? 誰としゃべっているの? ……お客さん?』
コハクがザクロの姿を目にして、ほああと可愛く口を開ける。ザクロがちょっと驚いて、口もとへ手をあててつぶやいた。
『あら可愛い! でもね、見た目の可愛さだけじゃこのわたしは越えられな……』
『……綺麗なひと……っ!!』
心の底からつぶやかれて、ザクロがひるんだ顔をする。分かりやすくはにかみながらも、無理に口もとを締め上げた。
『ふ、ふーんだ! そんな見え透いたお世辞には引っかかりませんよーだっ!』
『お世辞じゃないです! 本当に綺麗……! あたしこんなに綺麗な女人、今までに一度だって見たことないわ……っ!』
『ふ、ふぅうぅ……あぁーんもう駄目っ! この娘可愛いーーーっっ!!』
ザクロが嬉しげに頬を崩して、コハクに抱きついて頬ずりする。
(ちょろい……)
心中でぽつりとつぶやいて、ヒスイは緩やかに苦笑した。
* * *
後日訪ねて来たザクロの言葉に、ヒスイは唖然とさせられた。
『あのね、わたしコハクちゃんのこと好きになっちゃったみたいなの。ていうか嫁に欲しい!!』
『……はぁあ!? ふざけるなザクロ! コハクは我の可愛い嫁だ!! 誰がお前なんぞに渡すか!!』
『いいじゃんいいじゃん! もらったって別にいいじゃん! コハクちゃんだってわたしのこと好いてくれてるみたいだし!!』
『それは夫の友蛇として! コハクは我にべったりなのだ! 我もコハクにべったりなのだ! 誰が渡すか、帰れかえれ!!』
ぎゃいぎゃい騒ぐ二匹の後ろの戸が開いて、コハクがひょっこり顔を出した。
『あ、あの……何だかすっごくお取りこみ中みたいだけど、茉莉花茶はいかがですか……?』
『『いる!』』
綺麗に声が重なって、コハクが思わず吹き出した。顔を見合わせたヒスイとザクロも、眉をひそめて苦笑う。
窓の外で、ひらひらゆるりと赤い落葉が舞を踊る。
敷きつまった落ち葉の上で、小魚たちが舞うように笑うように泳いでいた。