終章・転生
(……あれ……、あたし、生きてるの?)
心のうちでつぶやいて、コハクは瞳を開いてみた。
目を覚まして最初に見たのは、水にたゆたう琥珀色をした袖だった。
『綺麗な着物……蛇のみたいな、鱗の模様がついてるわ』
(誰の着ているものだろう?)
そう考えた幼い少女は、ゆっくりと琥珀の瞳を見開いた。おのれの目が信じられない。どう考えてもありえない。何故って……琥珀色したその着物は、自分が着ているものだったのだ。
『えぇと……? 何これ、どういうこと?』
あわてて周りを見渡すと、街は丸ごと水の底へと沈んでいた。見慣れた街の建物を横ぎり、小さな魚が幾匹も目の前を泳いでいる。
(――何だろう、両目が壊れちゃったのかしら?)
コハクは芯から混乱して、幾度もいくどもまばたきする。何度まばたきをくり返しても、目の前の光景は変わらない。戸惑う幼い少女の前に、一人の美しい男性が現れた。
『おお、目が覚めたか、愛しいコハク!』
鱗の浮いた翠の着物、水にたゆたう翠の髪。切れ長の青い目をなお細め、男は優しく微笑ってみせた。
何だろう。初めて逢うひとなのに、笑顔が不思議と懐かしい。
『……あの……どなた、ですか……?』
『はは、あれだけ親しんでいたに「どなた」はひどい! 我だ、ヒスイだ。愛しいコハク!』
『……え? えぇえ!? ヒスイってあの、蛇のヒスイ!?』
『ああ、そうだ。驚いたか? この姿もまた、我の本性のひとつなのだよ』
人の男の姿のヒスイは、微笑に微笑を重ねてみせる。あっけにとられたコハクに向かい、あの美しい声で語り始めた。
『コハク。お前は一度死んだのだ。我の前で無残に、哀しく、咲きがけの花を手折られたのだ』
痛ましげに微笑ったヒスイが、深い青い目でコハクを見つめた。
『我は怒った。悔やんだ。泣いた。嘆いて、この地へ雨を降らせた。溢れる怒りと悲しみで、ここら一帯を水へ沈めた』
ヒスイがひらりと両手を浮かせ、コハクへ向かって笑みを捧げる。
『コハク。お前を失ったことによる怒り、救いがたくひどい悲しみ。その感情が、折り重なった呪いを殺し、我本来の力を蘇らせてくれたのだ』
ありがとう。
くちびるだけでささやいて、ヒスイがふわっとはにかんだ。
それから柔く手を伸ばし、コハクの体を抱きしめた。……染みるほど優しい感触が、コハクの小さな体を包む。頬を赤くした少女の耳もとで、水蛇が耳朶を舐めるようにささやいた。
『コハク。我は先ほど、お前の魂もらい受けた。お前を呑みこみ、胃の腑におさめて、我の力を幾分か、お前に与えて吐き出した』
『えっと……それって、つまり……?』
幼い少女がくぐもった声で問いかける。そんなコハクを甘く見つめて、翡翠の蛇が口を開いた。
『コハク。お前はもう人ではない。もののけ・あやかし・水蛇の姫……我の愛しい花嫁だ』
たたみかけて言葉を吐かれて、コハクがヒスイにしがみつく。流れぬ涙に両目がぎゅんと熱くなり、コハクは切なげに微笑んだ。
『…………ヒスイ』
とろけそうな甘い声音が、コハクのくちびるからもれる。翡翠の蛇が『もうたまらない』と言いたげに、琥珀の蛇へ口づけた。
(……文旦のときと、全然違う)
内心でそうつぶやいて、女奴隷だった少女は、自分から熱っぽく舌を絡めた。
(ねえ、ヒスイ。穢れたあたしを、溶かして殺して……もう一度、生まれ変わらせて……)
胸のうちで希いながら、コハクがヒスイの舌を求める。二股に分かれた舌でヒスイがコハクを可愛がると、やがてコハクの舌もするする二股に割れてきた。
蜜と蜜とが混ざり合うような、熱っぽく淫らに甘い口づけ。……そんな口づけを交わした後に、ヒスイは笑って、コハクの肩へと手を回した。
『さあ、ゆこう。我の満たした水を伝って、我が古巣「鏡池」へと帰ろうぞ』
そう告げて、ヒスイがコハクのひたいへ撫でるしぐさで口づける。その口づけがきっかけみたいに、二人の着物はするするほどけ、白い肌にみるみるうろこが浮き出して……二人は見る間に、二匹の大蛇の姿となっていた。
『……驚かんのか?』
いささか心細そうなヒスイの問いに、コハクが逆に問い返した。
『どうして?』
『嫌では、ないか? ……この姿が』
『どっち? あたしの? あなたの?』
『…………両方だ』
心もとなくつぶやく夫に、琥珀色の大蛇がころころと笑って言葉をつむぐ。
『大満足だわ。だって、あたしの願った通りの姿。願った通りの未来だもの!』
(あたし、蛇になりたいな)
いつかコハクがそう言ったのを思い出し、ヒスイもやっとほっとしたように微笑んだ。
ヒスイとコハクは、雨のあがったひやひやとした水面の上を、寄り添いながらすべっていった。
水面にきらきら星が輝く。
そのさまを見て、花嫁が花婿にそっとささやいた。
『星が綺麗ね。散らばった金平糖みたい』
『かんべんしてくれ。もう星菓子はたくさんだ!』
蛇の夫婦が、ひっそりと声を立てて笑い合う。
天空と鏡合わせの星の海を、一対の蛇は絡まり合い、睦み合い、糸を引くように古巣の池へと泳いでいった。
* * *
……それは、二匹の蛇のお話。
鏡池の主の夫婦の、そもそものなれそめの物語。