蛇の四・暗転
変わり映えのない毎日に、突然の転機が訪れた。
『「謁見」?』
いぶかしげなヒスイの声が頭に響く。いつになく綺麗になったコハクが、蛇に小さくうなずいた。
「うん。ご主人様がね、『池の主が見たいのだ』って。『鉢の水蛇を連れて来い』って、そうおっしゃったらしいのよ」
『は! 麗しの文旦様、このごろよっぽどお暇らしい! 何の気まぐれで、何を今さら……』
嫌そうに吐き捨てた水神が、ふっと何かに気づいたそぶりで黙りこむ。
『……コハク。我を連れてゆくのは、お前か?』
「そうよ、あたしが案内役なの。準備が出来たらあなたを御前に連れてくの。
ごめんね、ヒスイ! あんな人間の顔を見るのも嫌だろうけど、少しの間がまんして?」
『……いや、それは別に構わぬが……』
ふと言いよどんだヒスイが、まじまじコハクの顔を見る。
その不安げな青い瞳に、気ぜわしげな女奴隷は気づかなかった。
* * *
やがて美しく装ったコハクが、鉢を抱いて文旦の前に現われた。……屋敷の主人はまるまる肥えて、肌はのっぺりと白く、病気の白豚を思わせた。
「ほう、これが例の水神か。こうして見ると普通の蛇と変わらんな」
たいした興味も持たぬそぶりでつぶやくと、文旦はコハクのほうに目をとめた。舐める目つきで眺め回して、いやらしい声で問いかける。
「奴隷よ。名は何という?」
「コハクと申します、ご主人様」
「コハクか。年はいくつになる?」
「……十二だと思います、ご主人様」
コハクが少し言葉につまり、あいまいな答えを口にする。そんな少女におざなりに何度もうなずいて、文旦はにやにや一人で笑っていた。……ヒスイの澄んだ青い目が、じっと文旦を見すえていた。
* * *
その日の夜。コハクは見違えるような姿で、ヒスイの前に現われた。
絹の着物に、きらきら輝く宝石の耳飾り、首飾り。そのいでたちは貴族の一人娘のようだ。
思わずコハクに見惚れてしまい、ヒスイが感嘆のため息をつく。それから事態の異常さに気づき、すがる声音で問いかけた。
『ど、どうしたコハク、その姿は……!』
「ヒスイ。あたしね、今から『娼婦』になるの」
ざっくり打ち明けた女奴隷が、腐りかけた果実のような笑顔を見せた。
「あたし、主に気に入られたの。『十二の年では食い足りぬが、手もとでねんごろに飼い慣らして、熟しきるのを待とう』って」
コハクが泣き出しそうな笑みを浮かべる。そんなコハクを、ヒスイが呆然と見つめている。蛇の不安は最高に残酷な形をとって、現実のものとなってしまった。
コハクは、美しすぎたのだ。
『幼い』というたった一つの安全弁が、その美に負けてしまったのだ。
コハクはあでやかに微笑んで、水に手を入れてヒスイを撫ぜる。ひやひやとなめらかな肌を楽しんで、潤んで歪んだ声音で告げた。
「ヒスイ……あたし、あなたが好きよ」
あまりにも今さらな告白に、コハクの頭で鼻をすする音が響く。コハクは琥珀の瞳を細めて、痛々しげな笑顔を見せた。
「あたし、奴隷のままでいい。ずっとこの部屋に住んでいて、ずっとあなたのそばにいたい。……でも、そんなこと口にしたなら、あなたがどんな目に遭うか……」
ぽつぽつとつぶやいた幼い娼婦は、ふっと目前の壁を見すえた。暗いくらい目の色が、ヒスイの心の臓をつらぬく。
『…………コハク?』
不安げな蛇の問いかけに、コハクは柔らかくはにかんだ。暗いくらい琥珀の瞳が、ほんのわずかに光を帯びる。
「またね、ヒスイ!」
小さく笑って言い残し、コハクは部屋を出ていった。
またね――。
喜ぶべき言の葉に、ヒスイの胸が鈍く騒いだ。
* * *
コハクは美しく着飾って、主の寝所に現われた。
幼い体のすみずみをねっちりしつこくいたぶられ、歯を食いしばって恥辱に耐えた。あまりに深く食いしめすぎて、ぴっと歯列にひびの入る音さえ聞こえた。
まだだ、まだ。
まだこらえて、何とか耐えて――。
幼い娼婦の頭の中は、主への嫌悪と、蛇への恋慕でまみれていた。
ヒスイ、ヒスイ。
待ってて、今すぐ逢いにゆくから……。
心のうちで蛇の名を連呼するコハクの前に、穢い肉蛇が勃ち上がる。コハクは崩れるように笑って、赤黒い肉蟲へ口づけた。……そのまま大きく、咥えこめるだけ咥えこみ、力の限りに食いついた。
* * *
ヒスイは一匹、暗い部屋で水の底に沈んでいた。
『……コハク……』
返事のないのを分かっていて、それでも呼ばずにいられない。
コハク、お前がそばにいなければ、我はどうしてこれから生きてゆけばいい?
『……何が水蛇だ、水神だ……愛しい者一人守れんで、この身を神と言えるものか……!!』
蛇は自分の尾を噛んで、おのれの無力を呪っている。
いっそ死にたい。なのに死ねない……嘆くヒスイの青い目に、軋んで開いた扉が映る。ぼろぼろになった幼娼婦が、よろめきながら近づいてきた。
ずたずたに裂けた絹の服、血の色に赤く染まった白い肌。
『…………コハク…………っ』
あまりのことに叫びも出来ぬ水神に、コハクはくしゃり、と頬を崩して笑いかけた。石の棚の金魚鉢へと手を触れて、琥珀の目から涙をこぼす。
「……ヒスイ……あたしね、主人のあれに、噛みついて、追い出されてきちゃったの……」
ヒスイが言葉を失って、少女の崩れた笑顔を見つめた。
またね――。
そう言って別れた時のコハクの顔が、ヒスイの脳裏に蘇る。
コハク。
お前はあのとき、死ぬる覚悟で、我の元へと帰ってこようと……。
青い目を見はるヒスイの前で、コハクがへらり、と脆く笑った。
「だから、これからはずっと、一緒だよ……ずっと、ずっと、ずぅ……っと……」
ずる、っとコハクの指がすべる。その場にはかなく崩れ落ち、幼い少女はそれきり動かなくなった。
黙りこんでいたヒスイが、やがてぽつりとつぶやいた。
『……金平糖をくれ、コハク。おのれの涙で、水がしょっぱくてやりきれん』
コハクは、何も答えない。
血塗れに赤く染まったままで、床に転がって黙っている。
『……コハク? 返事をしてくれ、コハク。金平糖をくれ……水がしょっぱくて、海の中にいるようだ……』
ヒスイがつぶやきながら、くっ、くっと小さく笑い出した。笑い声が揺れて震えて、いつかまるきり泣いているような声になった。やがて本当の泣き声になり、泣き声は嗚咽に変わり、水蛇は身悶えておめき続けた。
水に浸かって体温の上がらぬはずの体が、火のついたように熱くなる。瞳はじわじわと際から炎を噴くようだ。
コハク、コハク、とぐずぐずに崩れた声音で名を呼んでも、亡骸は何も応えない。応えてくれぬのを知っていて、それでも名を呼ばずにいられない。
地下の暗い部屋の中に、誰にも届かぬ嗚咽が響く。
――やがて泣き終えた水神は、荒みきった目をコハクへ向けた。そうして奴隷の亡骸を痛ましげに見つめながら、一心に何か念じ始めた。
ヒスイの青いあおい目は、人を殺せる色をしていた。
* * *
その夜から、激しい雨が降り出した。
季節外れの大雨は、いつまで経っても止まなかった。それどころか雨は次第にひどくなり、やがて大滝を千も二千も束ねたように烈しくなった。
『これは何かの祟りではないか』と、人々はうわさし始めた。
祟り――。
そのうわさを耳にして、さすがの文旦もぎくりとした。
この雨は、もしや自分のせいか?
この自分が、何か水神を怒らすようなことをしたのか? あらゆる魔術や呪術さえ無に帰すような、怒りを生じさせるほど……。
そう考えると、急に恐ろしくなった。今までさんざんヒスイを辱めてきた文旦は、手のひらを返したようにへりくだり、ヒスイの前に現われた。
そのころにはコハクの死体は、とっくに片づけられていた。おおかた経すらあげてもらえず、近くの川にでも捨てられたろう。
「ご機嫌うるわしゅう、水神様」
ヒスイは何も答えない。小さな金魚鉢の中で、じっと文旦を見つめている。
「水神様、日夜降り続くこの雨は、あなた様の祟りでしょうか?」
ヒスイは、答えない。
「失礼ですが、わたくしめが何かお気に障ることを……」
『コハク』
「は?」
出し抜けにつぶやかれ、頭を下げ通しだった文旦が顔を上げる。ヒスイの瞳が青くあおく、文旦を映して燃えていた。
『お前は、コハクを穢して殺した』
「こ……は……く? ……ああ! あの女奴隷で? これは可笑しい! 水神様ともあろうものが、あんな女屑一匹死んだことなぞでお怒りとは!」
思わず本音を吐いた男に、ヒスイの瞳が妖しく光る。
(ガ、ガシャァアアァーンッッ!!)
目の妖光に応じるように、部屋を揺るがす轟音がとどろく。取り乱した文旦が、きょろきょろと滑稽に辺りを見渡した。
「……か、雷か?」
『そうだ、雷だ。なぁ文旦、お前の耳には他の音は聞こえぬのか?』
ヒスイが笑みを含んだ声で、コハクの主を追いつめる。おろおろし出した文旦の耳に、暗い地下にまで届くひどい雨音が響いてきた。うろたえる文旦のひたいに、ぽつ、っと水滴が落ちかかる。
「ななな、何……っ!?」
『水だ。水だよ、我の降らした雨水だ。もう貴様の屋敷は水に埋もれた……どれほど頑丈に造ったか知らんが、水は下方へと流れるものだ。じき地下牢も雨で満たされる。お前は雨に溺れ死ぬ。我の降らした雨水に』
くつくつと含み嗤いつつ、ヒスイが歌う口調で言葉をつむぐ。
無情に無邪気な言の葉に、文旦の顔から血の気が引いてゆく。見ている者が吹き出すくらいに顔を歪め、文旦は命ごいをし始めた。
「ゆ、ゆゆ、赦してください水神様! わたしが悪うございました……! 女奴隷の命を奪ったこと、深くお詫び申し上げます……!! で、ですからどうか、命だけは……っ!!」
『「奴隷」……奴隷か。お前にとってはただの女屑だったか知らんが、我にとっては、誰よりも……』
「ち、誓う、誓います! わたしはコハクの処女を奪ってはおりません! 何せあいつは、わたしのあれを……」
『知っている。噛み千切られるところだったのだろう? ……この豚が。清らかなコハクの口を犯しやがって……っ!!』
(ガン、ガシャァアアァアアーーッッ!!)
雷の狂う轟音がとどろく。文旦はびたりと這いつくばって、ひたいを床に擦りつけながら赦しを乞うた。
「ど、どうかお赦しを、お赦しを……!! この屋敷も財産もみなあなた様に捧げます! ですからどうか、命だけは……っ!!」
『文旦』
穏やかに名を呼ぶ声に、文旦が泣きべそで顔を上げる。
小さな蛇は口もとをすっと吊り上げて、赤い舌を出して嗤った。
『貴様のおかげでこのあたりの人間は、皆死に絶える運命なのだ。貴様一人が助かるという法はあるまい!』
からからからと、ヒスイが美しい声で嗤う。
『水よ、溢れよ! 怒れよ、舞えよ! 全てを無へと帰すが良い!!』
凄烈に歌うような言の葉につれ、水がとぐろを巻いて部屋の中へと雪崩れこむ。
「うわ、あぁああ、あぁああぁああーーーっっ!!」
文旦は下手な芝居のような悲鳴を上げて、醜く溺れ死んでいった。ヒスイの目にその顔は、酢漬けの豚の頭のような形相に見えた。
川は溢れ、山は崩れ、逃げる間もなく人は溺れ、その地方一帯は残らず水の底へと沈んだ。
* * *
お屋敷は潰れた。
街は死に絶えた。
ばらばらになった金魚鉢の欠片をきらきら光らせながら、ヒスイは水を泳いでいった。泳ぐほどその体は大きく、透き通るように美しくなり、やがて一匹の大蛇となった。
『コハク……』
大蛇はぽつりつぶやいて、愛しいひとの魂を探してさ迷い出した。