蛇の三・過去
累々と日は流れていった。
そうして日々を重ねるごとに、蛇は寡黙になっていった。黙って何か考えている水神に、コハクはあるとき思いきって問いかけた。
「どうしたの? ヒスイ。このごろ何だか元気がないわ。具合が悪いの? おなかがすいた?」
『……いや。お前はとんと、自分のことを話さぬなあ、と思うてな』
思いもよらぬ言の葉に、コハクがぽかんと口を開く。きょとんとした目で見つめられ、ヒスイが小さくつけたした。
『……お前が、我に心を開いていないのかと。そう考えると、自然とふさいでしもうてな』
ヒスイがかすかにかすれた声で打ち明ける。コハクは笑いをこらえていたが、やがてぷはっと吹き出した。不機嫌そうに水をひらめく神様に、はにかみながら詫びをいれる。
「ごめん、違うの! 嬉しくて……そんなに誰かに思われたこと、久しくなかったものだから」
ふわり微笑んだ女奴隷が、ふっと表情をくもらせた。琥珀の瞳を歪ませて、うつむきながら言葉をつむぐ。
「……『自分のこと』って、あたしがどうしてここに来たかとか、そういう類のことでしょう? たいした話でもないの。あたしは、ここに売られてきたの」
『生まれついての奴隷なのか?』
「ううん。あたしは山の奥の奥の、へんぴな村の娘だったの。早くに親を亡くしたけれど、村のみんなに大事にされて、幸せに日々を暮らしてた」
『それがどうして、売られる羽目になったのだ?』
ずばり切りこむ問いかけに、コハクは痛い笑顔を見せた。
「人さらいがやって来たのよ」
『……人さらい?』
ヒスイの言葉に、コハクがそっとうなずいた。
「人さらいはあたしをさらって、遠くとおくの街にある、このお屋敷にあたしを売ったの。『今はまだ小便臭いガキですが、こいつは上物になりやすぜ』って」
コハクは崩れるように笑って、金魚鉢へと手を触れた。黙りこんでしまったヒスイに、撫でる声音で語りかける。
「そのとき、あたしは六歳だった。今はたぶん……十二くらいになったかな。これからもっと大きくなって、もし主の『お目に留まった』ら……」
小さく体を震わせて、コハクは蛇に笑いかけた。
「まあ、大丈夫だとは思うけど。あたしは一生この部屋で、あなたと一緒に生きていけたら、それが何よりの『幸せ』だし」
ヒスイが静かに硝子の床に身を横たえ、青い目で女奴隷を見つめた。……綺麗な声を待ち望んでいるコハクの頭に、いつもの声は響かなかった。
* * *
重圧の日々は過ぎてゆく。女奴隷の頭に響くヒスイの声は、日ごとに憂いを帯びてゆく。
「元気がないの?」とコハクが訊くと、いつも黙って首を振る。そうして綺麗な青い目で、じっと少女を見つめるのだ。
(あたしが変なこと言ったからかな? 奴隷のありがちな出自なんて、口にするべきじゃなかったかしら)
コハクはそう思っていたが、どうもそれだけではないらしい。ヒスイの澄んだ青い目は、少女の話した言葉以上の、何かを嘆いているようだった。
「ねえ、ヒスイ。あなたはどうして、あたしをそんな目で見るの?」
面と向かって訊ねてみても、ヒスイは何も答えない。ただしんしんと青い目で女奴隷を見つめている。
コハクはそうして見つめられると、胸のあたりが絞られるように苦しくなった。
『自分が自分の思うより、ずっと哀れな存在なのだ』と、なぜか感じてしまうのだった。
* * *
これがいったい何個めの金平糖になるだろう。
右手に糖菓子を握りしめ、コハクは心中でつぶやいた。
「おなかすいた? ヒスイ」
蛇はなんとも答えずに、水面にくるくる輪を描く。『夜のご飯』を前にしても、変わらずヒスイは寡黙なままだ。
(日に三回の金平糖にも、きっと呪いがかかっている)
少女はそう考えながら、菓子を握る手に力をこめた。
ヒスイの力を封じる呪い。
蛇体を小さく保つ呪い。
コハクの食事の監視が厳しくなったのも、きっとそのことに関するのだろう。呪いをこめた食べ物以外を口にすれば、効果が薄れるに違いない。
「……けど、監視の目はごまかせないし。こんな金平糖でも、食べなきゃ生きていけないものね」
コハクのかすかなつぶやきに、ヒスイは黙って水を踊る。ふっと鼻をすするような音が頭に響き、女奴隷は琥珀の瞳を見開いた。
「…………ヒスイ、泣いてる? 泣いてるの?」
コハクの問いに、ヒスイは押し黙ったままひらりひらりと水を舞う。その青い目はいつものように美しくて、美しすぎて、コハクは今さら気がついた。
――ああ、そうだ。
水に濡れて潤んだ瞳。きらきら光る青い瞳は、もうずっと前から幾度もいくども泣いていたんだ。だって鉢の水の中では、涙は流れないんだから。
「……ヒスイ、何で? どうして泣くの?」
泣く理由なんていくつも思いついてしまうけど、それでも思わず訊ねてしまう。
(もしかして、すごくおなかがすいてる?)
可愛らしいほど幼い頭で考えて、コハクはあわてて菓子を水面に落とす。
――その瞬間、ふっと芯から腑に落ちた。それはまるで、糖菓子がほどけるようにふわっと水に溶けるみたいに。
(ああ。……ああ、そうか)
ヒスイをそれほどに傷つけたのは、誰の言の葉だったのか。『彼』の流れぬ涙の訳が、今になってやっと分かった。
(そうか。……そうだ。あたしはきっと、村の誰かに売られたんだ)
夢見がちだった少女の頭を、無情な現実が侵してゆく。
(だって、全体おかしいもの。どうしてあんな山の奥の奥の村に、人さらいがやって来た?)
相手も商売、獲物がいるかも定かでないへんぴな村に、情報もなしに来るはずがない。
(だから、きっと村の誰かが、あたしのことを知らせたんだ。あたしはお金とひきかえに、この屋敷へとやって来たんだ)
冷たく悲しく、切ない事実が、コハクの胸にひたひた満ちる。気持ちがにじんで冷えていく。それとはまるで反対に、体は灼けるようにぼっといきなり熱を持ち、ぼつぼつと玉の汗が浮く。
流れ伝う汗の後を追うように、琥珀色した綺麗な目から、ひとすじ、ふたすじ、涙がこぼれた。
『…………コハク?』
惰性で夕食を食べたヒスイが、ふっと鎌首をもちあげる。どこか呆然とした声音で、女奴隷の名を呼んだ。
コハクは応えず、黙ったままで床のぼろきれへくるまって身を横たえた。くっ、くっ、と、かすかな声に空気が揺れる。ぼろきれに包まれた小さな肩が、ひきつけたように震えていた。
ヒスイは何も言えなくて、ただただひらひらと水の中を回っていた。
やがて、コハクはぼろきれのすきまから顔を出した。赤く腫れた目をしながら、ぼんやりヒスイへ言葉をかけた。
「……ねえ、ヒスイ。あたし、蛇になりたいな」
ヒスイのとまどったような吐息が、コハクの胸に染みてゆく。コハクは花のしおれるような笑顔を見せて、うっとり言葉を吐き出した。
「あなたみたいな、綺麗な蛇に生まれ変わって、ずっと、ずうっと、あなたと二匹で……過ごしたい、な……」
コハクが静かに目を閉じて、かすかな寝息をたて出した。ヒスイは黙ってコハクを見つめ、ちろちろと赤い舌を出す。
(……しょっぱいな……)
心のうちでつぶやいて、ヒスイはちろちろと舌を踊らす。
自分の涙でしょっぱくなって、金平糖で甘くなって……。『水蛇の力で腐らぬ』とはいえ、金魚鉢の水たまりは、今はもうえぐいほど妙な味がした。