蛇の二・約束
コハクとヒスイの、真の蜜月が始まった。
別に何も特別なことがある訳ではない。罵声と暴力と、愚かな呪いにまみれた毎日。そのことに何も変わりはない。……けれど、お互いに話し相手のいることが、泥のような日常の何よりのなぐさめになっていた。
コハクはヒスイの青いあおい目が好きだった。
翡翠色の透き通る体が好きだった。
静かな威厳に満ちている、涼やかな声も大好きで、いつか少女は心の底から信じるようになっていた。『やっぱりヒスイはえらい蛇神様なんだ』と。
女奴隷の蛇に対する、熱く甘やかなその想い。……その感情はもはや一種の恋だった。
(ヒスイはあたしを、どう思っているのかしら……?)
そう念じながら、コハクが蛇と目を合わせる。ヒスイはコハクの感情に気づいているのかいないのか、いつものようにひらひらと水を踊ってみせた。
ヒスイの澄んだ青い目に、まぼろしのようにコハクが映る。
『……お前は美しい肌をしている。白い綺麗な肌なのに、いつも生傷が絶えないな』
優しい気づかいが脳裏に響き、コハクは蛇から目をそらしつつ微笑んだ。
「あたしは、奴隷ですからね」
少女が一言で言葉を切り上げた。そんなコハクに、翠の水蛇も押し黙る。涼やかな嘆きのため息が、少女の頭に甘く響いた。
何とか話題を変えたくて、コハクが無理やり口を開く。
「てゆうか、ヒスイ! 水替えしなくて大丈夫? ここに来てからいっぺんも、水替えしないままだよね?」
自分の体と、その身にまとうぼろ布と、ヒスイのえさの金平糖。それしか部屋に持ちこめないから、金魚鉢の水替えなんてコハクに出来る訳がない。……それを芯から分かっていながら、少女はあえて口にした。
蛇はほろほろと花のほぐれる声音で笑う。ひいらりひらり水を踊って、何でもなさそうに答えてみせた。
『気づかい無用。我さえいれば、水は腐らぬ。我は水神なのだから』
さらりと答えを返されて、コハクのほうが言葉につまる。……つまった言葉の代わりのように、手に持っていた金平糖をそっと水面に落としこむ。甘い星のようにちらちら光る菓子を見ながら、小さな声で懺悔した。
「……ごめんね、こんなものしかなくて。あたしのご飯も持ってきてあげたいんだけど、このごろずっと、見張りがついてるものだから」
コハクの言葉に、蛇がかすかに首を振る。
『一向構わぬ。もともと我は何も食べずとも生きられる。……元の力を封じられたこの体、今では金平糖一つ、食べずには生きてゆけぬがな』
ヒスイがひらひら水を踊り、溶け始めた星型の菓子をぱくりと一口飲みこんだ。細く長く息をつき、水面へ気のない翠の輪を作る。
『……こんなみじめな体では、月に一度の脱皮も出来ぬ。池の主の命運も、じきに尽きるということか』
そういえば『蛇にとって脱皮はひどく重要だ』と、以前に聞いたことがある。すがりつくように自分を見つめる女奴隷に、ヒスイは柔く笑いかけた。
『案ずるな、コハク。神の寿命は人より長い。日々の糧の金平糖さえ食ろうておけば、今日明日死ぬることはない』
甘くすさんだ笑い声が、コハクの頭に響いて染みる。
『たとえ呪いに衰えて、みじめに朽ちてゆこうとも、それはお前が老い衰えて倒れた後だ。ひとりにはせぬ、安心しろ』
痛ましい気づかいの言の葉に、コハクがくちびるを噛みしめる。ふいに疑問があぶくのように浮いてきて、少女は泣きそうに口を開いた。
「……ねえ。どうしてご主人様は、あたしなんかに大事なあなたを預けたのかな?」
『「大事」?』
ヒスイが嘲るように笑い、はっとして息をひそめてみせた。ほんのり気まずそうな口調で、おのれの見解を口にする。
『……金持ちの物好きにとってはな、「珍しいものを手に入れる」ことが重要なのだ。手にさえ入れば、後はどうでもいいのだよ』
蛇がすうっと口ごもる。浅い水底に沈みかけつつ、迷う口ぶりで声をつむいだ。
『……仮に我が死んだところで、いたいけな女奴隷を殺せる名目が出来るのだから、それでもいいと思うたのだろう』
ヒスイがふたたび押し黙り、ひらひらと水底から浮き上がる。やがてコハクをまっすぐ見つめ、真摯な声で口を開いた。
『死ぬなよ、コハク。我も死なぬから、お前も死ぬな』
(ああ、なんて後ろ向きな誓いの言葉……)
けれどその一言は、宝石で造った花束よりも嬉しくて。コハクは泣きそうな顔で微笑って、首の折れるほどうなずいた。
暗い暗い部屋の中、薄っすらと光るように美しい水蛇は、コハクの希望そのものだった。