蛇《じゃ》の一・伽《とぎ》
蛇との蜜月が始まった。……蛇の方はどう思っているか定かでないが、コハクはそう信じていた。
別に何も、特別なことがある訳ではない。罵声と暴力にまみれた毎日、そのことに何も変わりはない。けれど、重苦しい奴隷の一日が終わり、地下牢のごとき部屋に戻れば、そこには必ず蛇が待っていてくれた。
蛇の澄みきった青い目を見る。その青い目に見つめられる。ただそれだけで、泥のように体にまつわりついた疲労が、とろとろと溶け落ちてゆくような気がした。
「おなかすいた? ……はい、ごはんよ。綺麗な蛇さん」
コハクは蛇を賛美しながら、使用人から与えられた『えさ』をぽとりと水に落とす。それは蛇にはおよそ似つかわしくない、小さな金平糖だった。
蛇は日に三度、ひと粒ずつの金平糖を口にして、おとなしく日々を生きていた。
『仕事』の忙しい少女の代わりに、朝昼は使用人がえさをやる。だからコハクが蛇にえさをあげられるのは、夜中の一回きりだった。
コハクは常に飢えていたが、蛇のえさに手を出すことはしなかった。コハクにとって、蛇は一縷の希望そのものだった。『彼』のえさを口にするなど、少女には思いもつかぬことだった。
奴隷の少女は、なけなしの『嬉しかったこと』を毎日蛇へと語りかけた。
「蛇さん、今朝はね、とっても良い夢を見たの!」
「今日は同い年くらいの奴隷の子と、ちょっとあいさつ出来たのよ」
「今日はね、おっきなおっきな虹を見たの!」
愚にもつかない小さな『幸せ』。その『幸せ』を聞く蛇の目は、いつだって悲しくなるほど澄んでいた。
(今日は蛇さんに、どんな報告が出来るかしら)
コハクは内心でつぶやきながら、泥を食うような労働に明け暮れた。
今日の『仕事』は芋掘りだ。こんがり焼いて口に含めば、蜜のように甘いさつま芋。けれどそれを掘る奴隷たちの口に、芋は一欠けたりとも入らない。
(おいしそう……)
一日を一椀の重湯でしのぐコハクには、掘り出した芋が金のかけらのように目に映る。金平糖を目にしたときには作動しない『食欲』が、身の内でひどく暴れている。
腹が鳴る。……コハクはほぼ無意識に、芋のしっぽをかじっていた。
「おうらぁ、そこぉ! 何してやがるっ!!」
絹の着物の監督官が、思いきりコハクの腹を蹴り上げた。
「うっ……ぐえっ、ぐぇえ……っっ!!」
転げ回ってげほげほえずくコハクの髪を掴みあげ、監督官が醜く嗤う。
「お前らみてぇな泥人形が、人様の飯食おうなんざおこがましいわ。お前みてぇな奴隷はよぉ!」
どっとコハクを突き飛ばし、監督官は土のすきまへ手を入れた。穢く嗤う監督官の指の間で、小さなミミズがうねっている。
「お前みてぇな泥人形は、これでも食っとけってんだ。……おら……食えよ?」
凍りつくコハクのくちびるへ、監督官がミミズをぐっと押しつける。コハクは瞳をきつく閉じ、細い体を震わせた。
「おら、とっとと食えよ」
(――ごめんなさい)
目の前のミミズに心の底からあやまって、コハクは生き物を口に収め、ゆっくりと歯を噛み合わせた。
ミミズが跳ねる。ぐちぐちと、生命の消える感触が生々しく歯に当たる。……縮こまった舌に、土と、糞の味がした。
「ははっ、美味いか? 美味いだろうなぁ、綺麗なお目めが嬉し涙でにじんでやがるぜ、奴隷ちゃん?」
監督官がゆかいそうにからから嗤う。長いひげをしごきながら、楽しげに周囲の奴隷に言い放つ。
「おう、こんな目に遭いたくなかったらせいぜい真面目に働けよ? 一日頑張ったら、重湯のご褒美があるからなぁ!!」
監督官の嘲りを遠く聞きながら、コハクは呆然と畑に目を落とす。返り咲きのすみれが一輪、紫色に咲いていた。
(……今日は……蛇さんに、すみれのことを話すんだ……)
そう考えると、自然と頬に笑みが浮かんだ。笑ったことを監督官に咎められ、また内臓を吐くほど蹴りつけられた。
* * *
そんな毎日をくり返し、半年分の月日が過ぎた。
『……コハク』
ふいに誰かに名を呼ばれ、コハクはあたりを見回した。
……誰もいない。カビと土の臭いのする、地下牢のような部屋の中には、自分と蛇とがいるだけだ。蛇はひらひら、ふわふわと、風に舞うリボンのごとくに泳いでいる。
『……コハク』
蛇が青い目で奴隷の少女を見つめてくる。コハクはふっと思いたって琥珀色の目を見はり、金魚鉢へと駆け寄った。
「……もしかして、蛇さん? 蛇さんなの? 今綺麗な声で、あたしの名を呼んだのは?」
『ああ、そうだ。お前の名を呼んだのは、たしかに鉢の水蛇だ』
頭に直接響くような言の葉に、コハクがくすぐったそうに苦笑した。
「やぁねえ、蛇さん。こうしてお話が出来るんだったら、どうしてすぐにしゃべってくれなかったのかしら?」
甘い非難に身をちぢめ、蛇がくぐもった声音で答える。
『……この屋敷の人間はたいがいが、まるで信用ならんからな。お前はそうではないらしいと、近頃やっと見定めた。それでこうしてお前に声をかけたのだ。忌むべき呪いの暇つぶしに』
「のろい? 呪いって?」
年端もゆかぬ女奴隷が、綺麗な琥珀の目を見はる。そんなコハクに、蛇はからかうように軽い声音で言葉をこぼす。
『お前まさか、我が何の変哲もない、ただの蛇だと思うていたのか?』
コハクは黙ってかぶりを振った。何の変哲もない蛇を主が捕らえるはずはない。どうしてこの子がここに来たのか、教えてはもらえなかったけれど、そこには確かに理由がある。
コハクは口もとへ指をあて、自分の見解を口にした。
「きっとね、あなたはそんなに綺麗だから、とっても珍しいんだと思う。ご主人様は珍しいものがお好きだから、あなたはここへ来たんじゃないの?」
『……「珍しい」、か。まあ珍しいには相違ない』
蛇はおのれを嘲るようにつぶやくと、澄んだ青い目でコハクを見すえた。
『コハク、お前に話してやろう。我がいかにしてここへ来たのか……人間の愚かさと我の弱さを、伽仕立てにして話してやろう』
蛇はくなくなと細い体を揺らめかし、幼い少女へ語り始めた。
『昔むかしの大昔、ある国のある大きな池に、大きな水蛇が棲んでいました』
ひどくなつかしい語り口に、コハクが瞳を輝かせる。
(――お母さんだ。お母さんがまだ生きていたころ、こうやってよく昔話をしてくれた!)
金魚鉢へすり寄る少女に、蛇が鎌首をかしげてみせた。気を取り直したような口ぶりで、ふたたびお伽を語り出す。
『水蛇はその池の主でした。いつごろ生まれ、いつから主になったのか……当の蛇すら分からぬほどに、永くその池に棲んでいました』
コハクは胸をときめかせ、蛇のお伽にひたすらに耳をかたむけた。蛇はたおやかに水の中を舞いながら、美しい声で昔話をつむいでゆく。
『蛇は水蛇でしたから、その力で大雨を降らせることも出来ました。何かで機嫌を損ねたときは、池の水を溢れさせてちょっとした洪水を起こすこともありました』
「すごいわ、まるで神様みたい!」
『……まあ、池のまわりの村の者には「蛇神様」とも呼ばれていたな。日照りの年には気まぐれで雨を降らせたこともある』
蛇のうっすら笑う声音が、コハクの頭で甘く響いた。蛇はひらひら踊りながら、またもお伽を語り出す。
『蛇は大きな池の中で、そこそこ楽しく暮らしていました。しかし、そんな静かな日々をぶち壊す者がやって来ました。人間です。文旦という金持ちの命令でやってきた者らです』
「文旦? あたしの主とおんなじ名だわ」
コハクが不思議そうに小首をかしげてつぶやいた。そんな少女の脳内に、蛇の薄い笑いが染みる。
『まあとにかく、わらわらと人間がおしかけた訳だ。ここから話を続けるぞ。……文旦は珍しいものが好きでした。「池の主の水蛇なんぞ、これほど珍しいものはない」。文旦はそう考えて、家来どもに水蛇の捕縛を命じたのです』
コハクがふうっと呆れたように息をつく。
「愚かなひとね。神様を『珍しい』なんて、おこがましいにも程があるわ!」
蛇が『くふふ』と思わせぶりな笑いをもらす。それをいぶかしく思う間もなく、蛇はつらつら言葉を継いだ。
『主の棲む池、鏡池にはあまたの術者がおし寄せました。あらゆる魔術・呪術を使い、大きな蛇の力を封じ、子蛇とまがう大きさにまで体をちぢめてしまったのです』
コハクがお伽に息をのむ。蛇は翠の光の帯さながらに、ひらひらと水をひらめいた。
『そうして蛇は小さなちいさな金魚鉢に入れられて、文旦のお屋敷の、コハクという名の奴隷の部屋で、今もすごしているのです』
翠の蛇がさらりと言葉をしめくくる。コハクは芯からびっくりして、可愛い口をぱくりと開けた。
「え、えぇえ? それじゃあ、あなたがお話の主人公? 鏡池の神様なの!?」
『ああ、そうだ。何だお前、今さらそれに気づいたのか?』
(お前が気づいていないらしいと、我はうすうす気づいていたが)
蛇はそう言いたげにくすくす笑い、水の舞台をくるくる踊る。……そういえば、蛇は初めに言っていた。『人間の愚かさと我の弱さを、伽仕立てにして話してやろう』と。
それでもコハクはしまいまで、これが目の前の蛇の話だと気づかなかった。目の前の蛇はあまりに可愛く、か弱く見えて、神様のイメージの欠片もなかったものだから。
(でも……それを言ったら失礼だよね?)
コハクはちょっと考えて、わざと不機嫌なふりをした。腕を組み、頬をふくらませ、不満げな声をあげてみせる。
「だって蛇さん『昔むかしの大昔』なんて言うんだもの……そんな出だしで語られちゃ、今の話とは気づかないわ」
『「昔むかしの大昔から、我は池に棲んでいた」という意味だ。その後はみな今の話だ』
しれっとしなやかに言い逃れ、蛇がくるくる水を踊る。コハクは「蛇さん」と言いかけて、小さく言葉を飲みこんだ。
「……ねえ、訊いていい? あなた、お名前は何ていうの?」
『名前? ……名前か。蛇の言葉では「ルゥシャナ・クシャル」だ』
「ルゥ……シャナ……?」
十年以上生きてきて、初めて耳にする言葉。耳なじみのない言の葉は、まるきり外つ国の呪文のようだ。
「ルゥ……シャナ……クシャ……ル?」
眉を寄せてつぶやくコハクに、蛇がほろ甘い声音で笑う。
『はは、まあ要は「翡翠」という意味だ。我はヒスイだ。分かったか?』
蛇の言葉に、コハクが琥珀の目を見はる。
(おんなじだ。あたしが思いついた名と)
自分の名と綺麗に対になるような、翠に輝く宝石の名前。
体の奥からじわじわと嬉しさがこみ上げて、コハクは思わずはにかんだ。ヒスイが細い首をかしげて、とまどったような声でつぶやく。
『何を笑うか。おかしなやつだ』
「えへへへ……ねえねぇ蛇さん、今日からあなたを『ヒスイ』って呼んでもいいかしら?」
『ああ、好きなだけ呼ぶがいい。ヒスイが我の名なのだから』
お許しを得た女奴隷は、いそいそその名を口にした。
「ねえ、ヒスイ」
『何だ?』
「ヒスイ」
『……』
「ヒスイ」
『……コハク。「好きなだけ呼べ」は言葉のあやだ……意味なく呼ぶな、分かったな』
「うん! ヒスイ!」
蛇は小さく息をつき、水の中で綺麗な緑の輪を描いた。