花の終・大団円
シンジュがこの世に生まれ出でて、十八年の時が過ぎた。
龍の柄の着物で身を飾ったヒスイが、ちょいちょいと衿元を直している。そのとなりで芍薬の花の柄の着物に身を包んだコハクが、そっと結い髪に手をやった。
『うぅむ、どうにも緊張するな……花嫁の父親というものは……』
『あら、花嫁の母親も緊張するわ! というより、何だか両の目がぎゅーっと熱くなってきちゃって……』
『わーまだ泣くなっ!! せっかくの化粧が流れてしまうではないかっ!! 無論すっぴんも大好きだけどもっっ!!』
ナチュラルにのろける夫の言葉に、コハクがくしゃくしゃの笑顔を見せる。……てんやわんやで香勝池の城までゆくと、城主のザクロが両手を広げてヒスイとコハクを出迎えた。
ザクロは今日は赤毛の短髪に、男ものの豪奢な着物。心なしか体格も以前よりはがっちりして、まるきり別蛇のようだ。
『あら~ん、お義父さんお義母さ~んっ!! お洒落しちゃっていつもの万倍かっこ良いわぁ可愛いわぁ~っっ!!』
ザクロがくなくなと体を揺らめかしながら、ヒスイとコハクに抱きつこうとがぶり寄る。やっぱり中身は今までとさして変わらぬらしい。
呆れ顔のヒスイがザクロの横頬に手をつっぱり、抱擁を拒みながらたしなめた。
『お前なぁっ! 見た目うんぬんより、まずそのしゃべりをどうにかしろっ!! 女声をやめたぶん、低音の男声で気味悪いっっ!!』
『あら~ん、見た目や声音はどうにかなるけど、口調ばっかりは身に染みついてて変えられないの~んっ!!』
『わかった、わ~かったからっ!! とにかく引っつこうとするなってっっ!!』
ぎゃあぎゃあ騒ぐ男二匹の背後の戸が開き、いささか引き気味の花嫁が現われた。
花嫁に気づき、急におとなしくなった男どもがごまかすように咳ばらう。そんな二匹を真珠の瞳で見つめながら、シンジュは柔らかく苦笑した。
『相変わらずね、お父さん! ザクロももう少ししゃんとしてよね? 結婚式なんだから』
西洋風の真っ白なドレスに身を包み、花嫁は白い瞳を緩めて微笑う。練り絹のように透き通る頬に、うっすらと朱が昇っている。
花嫁の肩に手を置いて、ザクロが急にしゃっちょこばってまっすぐヒスイの顔を見た。
『な……何だ?』
『お義父さん。……お嬢さんを、ぼくにくださ……ぐふっ!!』
『なっ!? 何故にそこで吹き出すっ!!?』
『だってヒスイ、めっちゃ泣きそうな顔してて……ぐふふっ!!』
『お前だって泣きながら笑っとるだろうがぁっっ!! 気色悪いわ、やめろその顔っっ!!』
『はーーーーっ』
泣きそこねた花嫁が、深くふかーく息をつく。くすくす微笑う母親と顔を見合わせて、ほの甘くほの淡く苦笑した。
* * *
『良い式だったね、ヒスイ……』
『……そうか?』
二匹っきりの城の中、ヒスイとコハクが居間でゆっくりくつろいでいた。娘のいなくなった部屋は、ぽかりと穴の開いたようだ。
『二匹か……』
『また新婚みたいになるね?』
『……また子どもをつくるか、コハク』
半分本気の冗談に、コハクがふわっとはにかんだ。ひざまくらで夫の髪を撫ぜながら、しみじみとこう問いかけた。
『孫の顔は、いつになったら見られるだろうね?』
『……気が早いぞ、コハク』
妻をたしなめた翡翠の蛇が、ふいに遠くを見る目をした。
あたしの顔か、それとも天井を見ているのか……。一瞬コハクは思ったが、どうやらそうではないらしい。ヒスイは青い瞳に染み入るような愁いを浮かべ、独り言めいてつぶやいた。
『……あいつらは……』
『ん?』
『……我の殺したあいつらは、どこでどうしているのだろうな……』
コハクが琥珀の瞳を見はる。
あいつら。
昔にヒスイが大水を起こして滅ぼした、文旦を含む人間たちのことだろう。ヒスイはとんとその話なぞしないから、忘れたのかと思っていた。
ヒスイの目が、美しくどこか遠くを見つめている。やんわりと愁いを帯びた瞳のままで、神はぽつりぽつりと言葉をつむぐ。
『……悪い魂は悪いなりの罰を受け、転生して人生をやり直してでもいるのだろうか……?』
ああ。
ヒスイは、後悔しているのだ。
神の怒りは、きっと最小の単位が『洪水』で。ああする以外に術はなくて、それでもヒスイは、本当は……。文旦以外、多くの人の命を奪ったことを、ヒスイはきっとずっと後悔していたのだ。
いや、もしかしたら、当の文旦のことすらも――。
コハクは静かに目を閉じた。その閉じた目が、きゅうとかすかな歪みを帯びた。
胸が痛い。今の自分たちの幸せは、無数の死の上に成っている。
再び開いた琥珀の瞳に、夫と同じ愁いがあった。
(今の幸せが、後ろめたいの?)
コハクはそう訊こうとして、思い直して口をつぐんだ。黙って微笑って、ヒスイの頬へ手をあてた。
『……もう、しないでね』
ヒスイはそっと、頭を振るようにうなずいた。いや、うなずくようにかぶりを振ってみせたのだろうか。
分からない。分からないから、コハクはやっぱり黙って微笑う。微笑いながら、しみじみと琥珀の瞳を緩めて考えた。
今度は、もっとちゃんと生きよう。
永いながい蛇の一生を終えた後、生まれ変わって再びヒスイと巡り逢ったら、もっとうまいこと生きてみせよう。少しでも良いほうへ、良い方へ。きっとそのための『輪廻転生』なのだから――。
そんなことを考えながら、コハクはほんのり微笑んだ。
ヒスイの耳もとへ顔を寄せ、今はたった一つ、確かな言葉をささやいた。
『ヒスイ。……大好きよ』
今はうつむき加減に、顔の見えないヒスイの目から、何かがこぼれ出たらしい。丸く可愛いコハクのひざが、ほんのわずかにぬるく湿った。
コハクはヒスイの頭を柔く優しく撫ぜながら、いつもシンジュに歌っていた子守唄を歌いだした。
誰も傷つかず、誰も絶望することのない、桃源郷の歌だった。
優しい歌はいつまでもいつまでも、池底の城に響いていた。
* * *
――それは、四匹の蛇のお話。
悲惨な出だしで始まった、より良い来世へつなげるための物語。
(終)