花の四・外見《そとみ》の理由
次の六年がすぎた。
夏の盛り、外界は暑くとも池底の城はひんやり涼しい。
惰眠をむさぼっていた柘榴の蛇は、ほっぺをつつかれて目を覚ました。
『う……う~ん、誰?』
『おそよう! ザクロお兄ちゃんっ!』
ザクロが小さくうなりながら柘榴色の目を開く。布団の上で、幼い少女が当然のように微笑っていた。
練り絹の髪と白雪の肌。真珠色の瞳を緩ませた白い少女は、あいさつがわりにザクロのひたいへ口づけた。
『……シンジュちゃんか。駄目よ、その年でオトコの寝こみを襲うなんて? ちゃんとパパとママに「柘榴のところに遊びに行く」って言ってきたぁ?』
『うんっ! お父さんもお母さんも「気をつけて」って言ってたよ!』
『ふ~ん? なんかコハクちゃんとヒスイとじゃ「気をつけて」の意味が違う気がするわ~』
『意味が違う? ってどういうこと?』
『良いのいいの、オトナの話! さ、じゃあ一緒に遊びましょっか、シンジュちゃん!』
まんざらでもない顔をして、ザクロがぱっと起き上がる。シンジュも可愛い歓声を上げ、持ってきた対戦型の知能遊戯を取り出した。
かたや幾千歳。かたや弱冠六歳。いつものようにすさまじい年の差勝負が始まった。
『お、その手で来る? じゃあわたしは……これでどうっ!?』
『ザクロお兄ちゃん、そう来るとこの手で駒を取られるよ~?』
『ふふ~ん、飛んで火に入る夏の虫っ! シンジュちゃんの大駒いただきっ!!』
『あぁあ、ずる~いっ!!』
『ほほほ~っ! 勝負の世界に「ずるい手」なんてないのよ~っ!! 勝てば良いのよ、シンジュちゃんっ!!』
おとなげないザクロの言葉に、シンジュがむうっとぶすくれる。ぶすくれながらも口のはしに笑みを含んで、渾身の一手を指しにかかる。
子どもの自分にも、たいがいのことは『手加減なし』であたってくれる。そんなザクロと勝負するのが、シンジュは何より好きなのだった。
* * *
『っあ~遊んだあそんだ! 遊んだわぁ~っ! さぁ~て、そろそろ休戦! 一息つきましょ、シンジュちゃん!』
大きく伸びをしたザクロが、香りたつお茶を淹れてくれる。ミルクティーをすすったシンジュが、満足げに息を吐いた。
『美味しい……っ』
『あら、気に入ってくれたのねっ? 今日のはね、貴婦人紅茶のミルクティーなのっ! 矢車菊の香りが良いでしょうっ?』
『うんっ! ……ザクロお兄ちゃん城のお茶はいっつも紅茶だね。紅茶好き?』
『そうねぇ、たまに気が向いたら玉露なんかも飲むけれど……シンジュちゃん城でいっつもいただく茉莉花茶も、香りが良くて好きだわね~』
『え、えへへ~』
自城のお茶を褒められて、シンジュが嬉しげにはにかんだ。
お茶うけの生姜焼菓子をつまみながら、何となく浮かんだ疑問を何の気なしに口にする。
『そういえばザクロお兄ちゃんて、どうしていっつも女のひとみたいな格好してるの? いつからしてるの?』
『うっ、お子様ならではのド直球な質問ね……っ!』
たじたじとなった柘榴の蛇が、ふいに複雑な表情で息を吐く。柳の眉をかすかにひそめ、ほろ苦くほろ甘い微笑を浮かべた。
『……わたしね、いつから生きてたか記憶がないの。気がついたら香勝池にいて、自分で建てた城に住んでた……で、いつから友だちだったか記憶もないけど、気がついたらそばにいたのが、あんたのお父さんだったのよ』
シンジュが大きな瞳をくるくるに見はり、じっと昔話を聞いている。ザクロは柘榴色の瞳を細めて、ほんのりと言葉を吐き出した。
『わたしは、ヒスイのことが好きだった。でもヒスイは、そういう目ではわたしのことを見てくれなかった。「ああ、自分が男だからいけないんだな」。そう思ったわたしは、いつからか女の格好をし始めた……』
ふうっと息をついたザクロは、ほんのわずかに痛々しげな笑顔を見せた。
『だけど、そういうことじゃなかった。ヒスイは呆れた顔しながらも、友だちとして永くつきあってくれたけど……いつか人間に攫われて、戻ってきたと思ったらお嫁さんまで連れてきて! 正直くやしかったわぁっ!!』
冗談めいた口ぶりで、ザクロが真実を打ち明ける。まじまじ相手を見つめながら、シンジュが思わず息をつめた。
『……でもね、すぐに分かったの。ヒスイのお嫁さん……コハクちゃんは本当に良い子なんだって……』
シンジュの頭を撫ぜてやり、ザクロは言葉をつむいでゆく。
『そう、たとえばもしもコハクちゃんが男の子だったとしても、ヒスイはコハクちゃんを「お嫁さん」にしたんだろうな、ってっ! なんせわたしも好きになっちゃったくらいだし! 完敗よ~っ!!』
大げさに騒いでみせながら、ザクロは過去を丸ごと打ち明けた。
しばし黙りこんだシンジュが、何ごとか考えるそぶりで口を開いた。
『……それじゃあ、ザクロお兄ちゃん。ザクロお兄ちゃんをそのまま愛するひとができたら、男のひとの格好に戻る?』
『え? ……えぇえ? そうねぇ……そうなるかしら?』
首をひねって考えて、ふっと気づいたザクロがまじまじとシンジュの顔を見る。それからひどくこそばゆそうに、くすくすくすくす微笑い出した。
『……え? えぇえぇ? そういうことっ? そういう意味……っ? やぁねシンジュちゃん、オトナをからかうもんじゃないわよっ!』
『からかって、な……』
『さぁさ、そろそろ日暮れ時よ! パパとママが心配するから、早くお城へ帰りなさいっ!』
本気の意を示しかけたシンジュの言葉をさえぎって、ザクロが少女の背中を軽く押す。シンジュは不本意そうにしながら、それでも素直に帰路についた。
自城に取り残されたザクロは、しばし黙りこんでいた。やがてすうっと手を踊らせ、宙空から小型のはさみを取り出した。
(じゃくん……っ!)
はさみの大きく鳴る音が、池底の城に鈍く響いた。
* * *
あくる日の昼下がり、鏡池の底の城。
めがねをかけて本を読んでいたヒスイの前に、突如『珍客』が現われた。
『おうわぁっ!! おおお驚いた、ザクロか!? ザクロなのか、お前っっ!? 一瞬誰かと思うたぞっっ!!』
ヒスイに向かって微笑うザクロは、ものすごい短髪になっている。着ている着物は相変わらずの女ものだが、見違えるほどの『断髪』ぶりだ。
しげしげ悪友を見つめたヒスイが、あごに手をあててつぶやいた。
『……しかしお前、こうしているとまるで男みたいだな? ……って、もともと男だったか!』
ウケ狙いでも何でもないのに、思わず二匹が吹き出した。
と、二匹の後ろの扉が開いて、コハクとシンジュが顔を出した。彼女らも一瞬びっくりした顔をしてから、嬉しそうに微笑って部屋に飛びこんできた。
『わあザクロさん、見違えちゃったっ! 短髪姿も素敵だわっ!!』
『ザクロお兄ちゃん、かっこい~いっ! 映画の俳優さんみたいっ!!』
二匹の言葉に、ザクロが満面の笑みを見せて両手を広げてがぶり寄る。
『あら~ん、嬉しいお言葉ありがとう~っ!! シンジュちゃんこっちへいらっしゃ~いっ!! 「映画の俳優」がハグしてあげる~っ!!』
『って、中身は全然変わっとらんのかっ!! 寄るなよるな、我の可愛い娘子だっ!! 気安く触れるな、おとなになるまでっ!!』
ふっと真顔になったザクロが、低い声音で訊き返す。
『「おとなに、なるまで」……? ぶっ!!』
疑問符がゆかいな破裂音で潰された。ぐりぐりとザクロの頬べたに手をなすくりながら、ヒスイが妻へ要請する。
『コハク、茶を淹れてきてくれ! 厚かましいこいつのことだ、茶の一杯も飲まねばおとなしく帰るまいっ!!』
『ちょっと何て言いぐさよ~っ!! お茶はありがたくいただくけれどもっ!!』
友人漫才に微笑いながらうなずいて、コハクがシンジュの手をひいた。
二匹でお茶とお茶うけの用意をしながら、シンジュが母にこう言った。
『ねえねえお母さん、お父さんとザクロお兄ちゃん、仲悪いけど仲良いねっ!』
『そうね、二匹とも素直じゃないから……でも片一方に何かがあったら、二匹とも全力で救けに行くのよね』
コハクは少しうらやましそうな声を出し、それからくすくす微笑んだ。まだ幼いシンジュの顔を見つめながら、じんわりと頬に笑みを浮かべる。
どうなるか、まだ分からない。
分からないけど『そう』なったならとても嬉しい。
シンジュがいずれおとなになって、白いドレスをまとう時。その時に、となりに誰が笑っているのか――。
ふいにびらびらのドレスを身にまとったザクロの姿が目に浮かび、コハクは思わず吹き出した。
『う? お母さん、何でいきなり笑ったの?』
『うぅん、何でも! 何でもないのよ……っ! あははっ!!』
『う~、何か一匹だけ楽しそうでずる~いっ! ねぇ何で? 何で笑ってるの~ねぇえ~っ!』
やいやいまつわる娘をあやすコハクの耳に、居間から夫の悲鳴が届く。
『お~いコハク~っ! 茶を早く持ってきてくれぇ~っ!! 部屋に二匹を良いことに、ザクロが我にせまってきておる~っっ!!』
『あ~ら、別にせまってなんかいないわよぉ~っ!! せまるってのは、もっとこう……っ!!』
『ぎゃあぁああ~~っ!! コハクっ!! シンジュ~っ!! 助けてくれぇえ~~っっ!!』
池底の城に悲鳴と笑いが満ちてゆく。
じりじりうだる外界の酷暑は影もなく、城は涼やかに平和であった。